大江戸線界隈探検隊

読売文化センター講座(新宿・金町教室)

第13回 本郷三丁目〜上野公園(2003/4/7)

湯島は湯島一丁目から四丁目までと比較的狭い地域だが、お蔦主税の悲恋物語で知られた「婦系図」の舞台、湯島天神をはじめとして、五代将軍綱吉が建てた孔子廟の湯島聖堂、家光の乳母・春日局が眠る麟祥院、徳川家の祈願寺として規模を誇る霊雲寺など神社仏閣が多い。また、文豪・森鴎外の「雁」で、おたまが住まい、学生さんが通った無縁坂など、坂と階段が至る所にある。上野公園はオランダ人のボードワンの進言によって、明治6年日本初の公園となった。

麟祥院・山門 春日の局の墓 湯島天神の銅の鳥居 湯島天満宮
臨済宗妙心寺派の寺。3代将軍家光の乳母春日局が1624年引退し、庵を建てたのが始まり。43年65歳で没すると菩提寺とし、法名を寺名とした。からたち寺ともよばれ、墓所には春日局の墓と実家斎藤家墓碑がある。 なんといっても珍しいのは、卵形の墓石の四方に開いた丸い穴。自分が死んだあとも、黄泉の国から天下の情勢を見届けたいので、そのような墓を造って欲しいという遺言によるのもである。 社殿を正面に見据える表参道にある青銅の鳥居。寛文7年の銘がある。東京でいちばん古いもので、東京都の重要文化財に指定されている。
正面から社殿を入れて撮りたかったのだが、車道に出ないと無理なので、諦めました。

湯島天満宮は雄略天皇の勅命により、御宇二年(458)天之手力雄命を奉斎して創建したのがはじまりである。その後正平十年(1355)菅原道真公を本社に勧請しあわせて奉祀した。現社殿は平成7年12月造営。境内には合格御礼の絵馬がたくさん奉納されていました。

旧岩崎邸 岩崎邸・洋館 洋館のバルコニー 岩崎邸・ビリヤード館
三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎氏の旧宅。門を入って玄関にたどり着くまで50Mはあるでしょうか。
江戸時代は越後高田藩榊原氏、 明治初期は舞鶴藩牧野氏の屋敷だったところ。とにかく広くて大きなお屋敷です。
明治29年(1896)に完成した洋館の設計者はジョサイア・コンドル。ジャコビアン様式の均整の取れた美しい建物である。主に年1回の岩崎家の集まりや外国人や賓客を招いてのパーティーのみに使われていた。 戦後、一時GHQのキャノン機関が使用していたこともあるが、その後、国有財産となり最高裁判所司法研修所等として利用された。1994(平成6)年に文化庁の所管となり、2001(平成13)年東京都の管理となる。
当時の日本では、珍しいつくり。全体は木造建築で、校倉造りの壁、刻みの入った柱、軒を深く差し出した大屋根など、木造ゴシックの流れを組むデザインである。
コンドル氏は日本の茶室のような機能を持たせたかったのではという説もある。
岩崎邸・和館 岩崎邸・和館 巨大な手水鉢 無縁坂
書院造りの広間には、橋本邦夫、狩野芳崖の日本画が残っている。書院造を基調にして造られている。完成当初は建坪550坪に及び、洋館を遥かにしのぐ規模を誇っていた。残念なことに一部を残して解体され、いまは無粋な司法省の研修施設が建っている。 庭に面した広縁と長く突き出した庇は、まるで寺院かと思わせる重厚さがある。こういうところで育つと考えも心も大きくなるのであろうか。ちなみに、エリザベスサンダース・ホームを創設した澤田美喜さんは岩崎弥太郎氏の孫である。 濡れ縁の前に置かれた 「石水壺型手水鉢」高さは1.5Mはあろうかという、巨大なもの。庭に配された庭石も立派で、さすが、豪商の館です。
坂の名は坂上に無縁寺があったことに由来する。森鴎外の作品「雁 」のヒロインお玉が想いを寄せる岡田青年の散歩道ということで、 作品を通して多くの人々に親しまれる坂となった。また、さだまさしの同名の歌によって有名になった。
講安寺 講安寺 横山大観記念館 前庭にある石燈篭
無縁坂を上りきったところにある講安寺。本堂は社寺建築としては珍しい土蔵造りで、庫裏部分を含め、江戸期の姿を良く残しているという。 ここだけ見ると、これが寺とは思えない。江戸は火事の被害が絶えなかったため、享保年間に建築物は土蔵造りにするようにというお触れが出たらしい。この寺はその名残をとどめている。 上野不忍池のほとりに、ひっそりとたたずまむ大観の邸宅。日本画の巨匠横山大観が、明治42年から住んでいたが、空襲で罹災し、現在の建物は昭和29年に再建。大観は90歳で亡くなるまでここで絵筆をとっていた。 玄関前の庭。庭石や石燈篭の一つ一つに、画家としての厳しい眼が感じられる。特に本庭の風情は絵ごころをくすぐられずにはいられない。ちょうど大島桜の真っ盛りで、本当にいい時期に来たものです。
不忍池 弁天社 五條天神社 拝殿

不忍池は、維新後埋め立てて水田にする計画があったが明治6年不忍池周辺5万5千坪が公園に編入された。その後、戦時中食料増産の為に、田圃として利用され、終戦で荒れ果ている時、野球場にする計画があったが市民の反対運動により断念され現在に至っている。

本尊は大腎弁才天で、脇士は毘沙門天と大黒天ともに慈覚大師作。
寛文年間に弁天島に橋が架けられ大正末期には竜宮門が造られたが、昭和20年3月の東京大空襲で焼失。
昭和33年9月再建された。
京都五条天神を勧請したもので、古くは武蔵野境忍(15世紀後半)に記載がある。
寛永一八年(1641)天神社であるからには、祭神に菅原道真を尊像を迎える
縁起によると、今から1890年ほど前の第12代景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐のため、上野忍が岡を通られた際、薬祖神二柱の大神に御加護を頂いたことを感謝されて、この地に両神をお祀りしたのが創祀だという。
花園稲荷神社の赤井鳥居 花園稲荷神社 お化け燈篭 国宝・上野東照宮唐門
御創祀の年月は不祥だが、古くからこの地に鎮座し、忍岡稲荷(しのぶがおかいなり)が正しい名称です。石窟の上にあった事から俗称、穴稲荷とも云われていた。

承応三年、天海大僧正の弟子、本覺院の住僧、晃海僧正が、霊夢に感じ(家光の命とも言われている)廃絶していたお社を再建し上野の山の守護神とした。幕末、彰義隊の戦では最後の激戦地(穴稲荷門の戦)としてしられている。 上野東照宮の境内にある巨大な石灯篭。高さが5m以上もあって、日本三大灯篭の一つ。
大坂の役の時に、竹田永翁を討って功有り、信州長沼、江州高畠の地に一万八千石を領した佐久間勝之が寛永8年に寄進した。
藤堂高虎は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造った。これが上野東照宮の創建と言われている。
現在の社殿は慶安四年(1651)に三代将軍家光が大規模に造り替えたもの。
左甚五郎作昇り龍 銅燈篭 旧因州池田家表門 旧奏楽堂
門の両側に、甚五郎作の昇り龍、下り龍の彫刻がはめ込まれている。宮の方かと思われるおじさんが、立て板に水の解説をしてくれたのはいいが、長すぎてその後の予定が狂ってしまった。 唐門両側6基は徳川御三家が寄進した銅灯篭。その他に参道にたくさんの燈篭が並んでいる。会津の殿様のものもあるのだが、花見の時期はロープで囲われていて、確かめることが出来なかったのが残念。 創建時代は明らかではないが、形式と手法からみて、江戸末期のものである。屋根は入母屋造り、門の左右に向唐破風屋根の番所を備えており、大名屋敷としても最も格式が高い。昭和26年9月重要文化財に指定。 明治23年に創建された日本最古の木造の洋式音楽ホールで、国の重要文化財に指定されている。、かつて滝廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペラ公演でデビューを飾った由緒ある建物です。
来月は豊島園近辺の予定です。