大江戸線界隈探検隊

読売文化センター講座(新宿・金町教室)

第16回 光が丘〜練馬春日町(2003/7/10)

 光が丘界隈は江戸時代から昭和初期まで練馬大根の生産地であった。ところが昭和18年、約500人の地主の土地を強制徴用して、成増陸軍飛行場が建設された。戦争末期には、ここから多くの特攻隊員が飛び立っていった。敗戦後まもなく飛行場は米軍に接収され、軍人の家族のための宿泊施設が建設されることになった。宿舎の建設は大規模な突貫工事で、横浜から物資を搬入するために、東上線から引込み線まで敷設された。昭和23年6月完成。施設は、南北戦争で北軍を指揮し、勝利をもたらしたグラント将軍にちなんでグラントハイツと名づけられた(日本人の間では誤って「グランドハイツ」と呼ばれていた)。ここに米軍の家族1200世帯余りが移住し、日本人従業員も多いときは5000人いたという。

光が丘パークタウン 練馬区立温室植物園 木立朝鮮アサガオ バナナの花
昭和48年全面返還が実現し、「グラントハイツ跡地開発協議会」が設立され、平成4年に都内で最大規模の光が丘パークタウンが完成した。 隣接する清掃工場の余熱を利用した植物園。250種以上の熱帯、亜熱帯植物を育てている。入場料は無料なので、市民の憩いの場となっている。 茄子(なす)科アサガオ属の植物で、芳香のあるラッパ形の大きい花を咲かせる。別名で、エンジェルズ・トランペットとも言う。 これが花とはとても思えない形をしている。何だか筍が逆さにぶら下がっているような感じ。南方ではこれを食料にしているとか。一体どんな味がするのだろう。
タビビトの木 光が丘清掃工場 ふれあいの径 光が丘公園
ネーミングがユニークである。写真ではよくわからないが、全長は6・7メートルくらい。一枚の葉の大きさも大人の背丈ほどある。葉の根元に水分をたくさん含んでいるので、旅人はこの木によって咽の渇きを潤したたそうだ。 団地と隣り合わせに建つ清掃工場。白一色のシンプルなデザインは、違和感なくこの町に溶け込んでいるように見える。シンボルの煙突 140m。「電気集塵機」から「ろ過式」に改造した結果、ダイオキシンの減少に成功した。

光が丘駅と公園とを結ぶ「ふれあいの径」と呼ばれるいちょう並木。このいちょうは有楽町の旧都庁舎前に街路樹として植えられていたものを移植したもの。40本あるいちょうは樹令100年以上の巨木。

日比谷公園の4倍の広さをもつ都立光が丘公園。公園にはテニスコート、野球場、陸上競技場、少年サッカー場があり、区立の図書館、体育館なども配置されている。公園内にはバードサンクチュアリや植物園などが設けられている。
平和への祈り 大山富士街道 練馬大根碑 愛染院山門
公園の入り口近くにブロンズ像。少年少女の像に、鳩が3羽飛んでいる。この地が戦争に深くかかわったことから、平和の尊さをこの像に託したのだろう。 練馬春日町に向って歩き出し、途中から江戸時代のこの街道に入り愛染院の参道に着く。昔の旅人はこの道を通って大山参りや富士山詣でに出かけたのだ。 その参道左手にあるこの碑は、昭和15年(1930)練馬漬物組合の発起により、昭和16に立てられた。練馬大根は姿を消し、今はキャベツにとってかわられた。 愛染院は真言宗豊山派の寺で「連月山愛染院観音寺」と云い、本尊は愛染明王である。
愛染院鐘楼 上練馬村名主役宅 春日神社 春日神社・狛犬
戦時中、多くの寺院で梵鐘を鉄材の原料として供出させられたが、そんな中にあって、供出されなかった愛染院の梵鐘は江戸時代のものとして貴重な文化財だ。

江戸時代、名主を務めた長谷川家の屋敷跡。現在は薬医門しか残っていない。江戸末期に建てられた屋敷は、かやぶき屋根に寄せ棟造りの、近隣には見られない大きな建物であったといわれている。

春日神社の創祀年代は不明だが、文明年間(1469年〜86年)には練馬城主、豊島泰経、泰明らが一族の守り神として保護し、さらに豊島氏が没落した後は、練馬城主、海老名左近が崇敬するところであったと伝えられている。 文久元年(1861年)の銘がある狛犬。これまで数々の神社で狛犬を拝見してきたが、それぞれ作者の個性が出ていて面白いものである。これは、なかなか精悍な顔つきをしていた。
参加者のほとんどが光が丘は初めてなので、楽しみにしていらしたようだ。先月に引き続き雨に降られてしまったが、みなさん元気に歩いてくださったのでほっとした。江戸時代は農村地帯だったので、歴史的なものはあまり残っていないのがちょっと残念だった。来月は、いよいよ再開発された六本木を歩く予定。