大江戸線界隈探検隊

読売文化センター講座(新宿・金町教室)

第2回 5/9(木) (森下〜門前仲町)
森下駅10時集合
出席者12名、森下駅を元気に出発。今回は江戸情緒の残る下町散策。かつての江東区はそのほとんどが東京湾に注ぐ三角州で、葦の生い茂る湿地帯でした。この地に慶長の初期に攝津の国(現在・大阪府)から深川八郎右衛門他6人が移住してきて、小名木川北岸一帯の開拓を始めました。たまたま家康公が鷹狩に来て、八郎右衛門に地名を尋ねたところ「まだ名前はありません」と答えたそうです。そこで家康は「汝の名を地名にせよ」言われたところから、この地が深川となったというわけです。隅田川と荒川に挟まれた江東区の歴史は、治水と埋立ての歴史といっても過言ではありません。
深川神明宮
深川という地名の元となった深川八郎右衛門が勧請した神明宮。神社も経営が大変なのか敷地の半分は「神明幼稚園」となっていた。また本殿左側には、深川七福神の一つ寿老神の社がある。江戸の人々は七福神が大すきと見えて各地に七福神が祭られている。
境内には町内ごとの神輿蔵があり、シャッターには神輿アートが描かれている
深川めしのみやこ
昭和14年、宮内庁が行った全国郷土料理調査において、日本の五大銘飯のひとつに選ばれたのが「深川めし」です。かつての深川では、江戸前のアサリがふんだんに採れ、漁師達はそのアサリのむき身をネギや油揚げといっしょに味噌でさっと煮て、炊き立てのどんぶりめしに汁ごとぶっ掛けて食べた。それゆえ通称をぶっ掛け飯とも呼んでいます。「みやこ」の深川めしの調理法はそれとはちょっと違う。材料は同じだが、具をしょうゆ味で焚いて、その煮汁でご飯を炊き上げ、炊きあがる寸前にさきほどの具を混ぜ合わせ、せいろに盛ってできあがり。ちなみに他の4つは次の通りです。「忠七めし」(埼玉県小川町)[現在の海苔茶漬けのようなもの]。「うづめめし」(島根県津和野町)[ごはんの下に、しいたけ、にんじんなどの野菜をうずめてだし汁をかけたもの]、「さよりめし」(岐阜県山岳地方)これがまだよくわかりません、只今調査中。「かやくめし」(大阪府難波地方)[その名の通り、関東では炊きこみ御飯とも言います]
江東区芭蕉記念館
芭蕉記念館は昭和54年に開館しました。関内には芭蕉研究家からの寄贈品を中心に芭蕉関係の貴重な資料が2000点以上が展示されています。この入口もそれらしくて、なかなかいいでしょう。
芭蕉記念館中庭
句碑は「草の戸も住み代る代ぞ雛の家」庭園内には池や滝(小さくてかわいらしいものです)、芭蕉の句に詠まれた草木が植えられていて、築山に芭蕉堂を模した祠があります。ちいさくとも立派な萱葺き屋根ですよ。
芭蕉記念館裏の隅田川沿いの道
記念館の裏口から出ると、そこは隅田川。堤防添いの道からは川は見えません。途中の階段を上るとすく目の前にかもが広がっていました。1枚目の写真を見ると、川沿いの道が整備され、遊歩道になっているのが良くわかるでしょう。この道に出た時、生徒さんの中から感嘆の声が上がりました。道の所々に芭蕉の句碑が立っています。
芭蕉庵史跡展望公園
これが展望公園にある芭蕉翁の坐像です。もちろん隅田川の方を向いているのですが、ここから雨の日も風の日も隅田川を眺めて、芭蕉は何を思っているのでしょうか。芭蕉が生まれたのは約370年前です。川畔のながめの変わりように驚いていることでしょうね。ここで一句詠んでみました。「ビルの影 川面に映し 五月来ぬ」下手な句で芭蕉さんごめんなさい。
芭蕉稲荷神社
展望公園のすぐそばにある芭蕉稲荷神社。大正6年の大津波の後「芭蕉遺愛の石の蛙像」がこの地から発見され、ここが芭蕉庵の場所であったことがわかったのです。本物の石の蛙は芭蕉記念館に納まっています。境内の石碑の前にも蛙が2匹いましたが、誰が置いたものでしょうか。
万年橋
真中の絵が葛飾北斎の描いた富嶽三十六景の「深川万年橋下」このえでは小さくてわかりにくいが、左の橋げたの向こうに富士山が見えます。そして芭蕉庵はこの絵の右側手前にあったと言われています。
清澄庭園
紀ノ国屋文左衛門の屋敷跡が享保年間に、下総国関宿の城主・久世大和守の下屋敷となり庭園が形作られた。明治11年に岩崎弥太郎が、荒廃していた跡地を買い取り、社員の慰安や貴賓所として庭園の造成を計画し、明治18年に「深川親睦園」として竣工。隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配して、明治の庭園を代表する「回遊式林泉公園」が完成したのです。
霊巌寺
清澄庭園を後にして、清澄通りを渡ってしばらく行くと霊巌寺があります。徳川家康・秀忠・家光の信頼の厚かった雄誉霊巌が寛永元年(1624年)、霊巌島(中央区)に創立し、大火で焼失した後に現在の場所に移転しました。境内には松平定信のお墓があります。あの寛政の改革と断行した老中です。昭和3年に国の史跡に指定されました。この辺りはとにかくお寺が多いところです。
深川江戸資料館
左の写真は資料館前にあるお土産やさん「たかはし」である。いらしたことがある人はお分かりだと思いますが、ここの店主はちょんまげのかつらをいつもかぶって、客引きをしている名物叔父さんです。もちろん生徒さんたちはおじさんの魅力(?)に惹きつけられるように寄っていきました。人数が多かったので、団体割引だと言ってちょっぴり安くしてくれました。感謝!資料館は、両国の「江戸東京博物館」のミニチュア版です。屋内に江戸時代の長屋が再現されています。屋根の上に作り物の猫(動くんですよ)が乗っていて、ときどき鳴き声を上げます。江戸時代にタイムスリップしたような楽しい気分になれます。庶民は本当に狭いところで暮らしていたんですね。
採荼(さいと)庵跡
芭蕉の弟子でパトロンでもあった杉山杉風(さんぷう)の別墅、採荼庵があった場所です。仙台掘川にかかる海辺橋のたもとに在ったといわれております。芭蕉は芭蕉庵からここに移り、ここから船に乗って「奥の細道紀行」に旅立ちました。左の写真はその旅立ちの像です。芭蕉像の後にある建物は採荼庵を模したつもりでしょうが、なんとも興ざめな作り物です。まるでプレハブ小屋、もうちょっとそれらしく作れなかったのかなあ、芭蕉も苦笑していることでしょう。
深川不動尊参道
参道の両側には御土産やさんや食べ物やが軒を並べており、何時行っても賑わっております。右の写真のお店はのれんが下まで下がっていますので何屋さんか良くわかりませんね。のれんをくぐって入ってびっくり象牙細工物の店でした。欲しくなるようなものばかり、でも高くて買えませんでした。
深川不動尊と五代目尾上菊五郎の碑
この寺の歴史は案外新しいのです。建立されたのは明治14年。もともとこの地は永代寺があったところですが、明治維新の廃仏毀釈により永代寺は廃寺になってしまいました。門前仲町という地名も永代寺の門前だったところから来ているそうです。江戸のころよりこの永代寺の境内を借りて、成田山新勝寺の出開帳が行われいました。何だか庇を貸して母屋を取れれたみたいな恰好ですね。境内には歌舞伎の名優、五代目尾上菊五郎[弘化1年(1844)6月生〜明治36年(1903)2月18日没]の碑が立っています。弁天小僧が当たり役だったそうですよ。
富岡八幡宮と横綱力士碑
不動尊の隣りが通称深川八幡で親しまれている富岡八幡宮です。江戸最大の八幡宮です。寛永元年、京都の長盛上人が勧請しました。ある日上人の夢に八幡大菩薩が現われました。「武蔵の国に永代島という所があり、その地の祠の中に白羽のや立っている。その地がわれが住む場所である」というお告げがありました。さっそく江戸に下った上人は葦の茂みの中にその矢を見つけ、八幡宮を勧請したというわけです。ここが勧請相撲の発祥の地であることから、境内には力士関係の石碑が多く立ち並んでいます。
八幡橋
八幡様の裏にある八幡橋。このなんの変哲もない鉄の橋が、実は国の重要文化財なのです。というのも、現存する最古の鉄の橋で、明治11年に公部省赤羽製作所において製作されもので、菊の御紋章が入っています。もともとは中央区の楓川に架かけられた弾正橋でしたが、関東大震災からの復興に際し廃橋となってしまい、昭和4年ここに移され八幡橋と名付けられました。長さ15.7M,巾3Mのかわいらしい橋だが、日本の橋梁史上重要な橋である。この橋の近くに懐かしい民家がありましたので、思わずシャッターを押してしまいました。
門前仲町駅解散
全員無事に完歩できてほっとした。解散後買い物をする人、食事をする人思い思いに別れた。わたしも生徒さんたちと一緒に食事をすることにする。不動尊参道にある深川めし「六衛門」に入った。昔ながらのめしやの面影を残す二階に上がる。ここはぶっ掛けめしで、味はちょっと濃い目だが美味しかった。では、また次回。
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