大江戸線界隈探検隊

読売文化センター講座(新宿・金町教室)

第20回 飯田橋〜皇居界隈(2003/11/13)

江戸城の歴史は古く、平安時代末期に桓武平氏の流れを汲む江戸四郎が居館したのが始まり。室町時代に江戸氏は衰退し、代って1457年(長禄元年)扇谷上杉定正の家臣、太田資長(道灌)により築城された。その後、北条氏の居城となる。天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原攻めで北条氏が滅びると、徳川家康は秀吉によって関八州に移封され、江戸城を本拠とした。家康は江戸城の修築を始めるが、慶長8年(1603)に江戸幕府を開いた後、慶長11年(1606)から本格的な築城工事に着手。外様大名を中心に諸大名を動員した天下普請で、工事は徳川家康・秀忠・家光の3代にわたり、寛永13年(1636)本丸、二の丸、三の丸、西の丸、北の丸からなる周囲16キロの巨大な城郭が完成。秀忠の時代に完成した天守閣は、明暦3年(1657)1月のいわゆる振袖火事(明暦の大火)で焼失。その後天守閣が再建されることはなかった。

東京大神宮 靖国神社 九段坂 常燈明台
伊勢神宮の遥拝殿として明治13年に創建された。「東京のお伊勢さん」として知られている。神前結婚式の元祖でもある。 毎年総理の参拝が問題になっているが、元は大村益次郎の尽力により、戊辰戦争の戦死者などを祀るため明治2年に創建された神社である。 九段坂は江戸のはじめに出来たもので坂の両側に古い飯田町があり飯田坂と呼ばれた。宝永の頃、この坂にそって九段になった長屋をつくり、江戸城のお花畑の役人をおいたのが九段坂の名の起り。 明治四年(1871)ここに洋式燈台の常灯明台が東京湾の漁船の目印の為に建てられた。現在でも夜には灯が入れられる。
田安門 メキシカン・セージ 北の丸公園 旧近衛師団司令部庁舎跡
田安門は江戸城の北部に位置し、建立以前のこの付近は田安台と言われたところからその名がついた。現在の門は寛永13年(1636年)に再建され、現存する門の中では最も古い。 北の丸公園に紫色の美しい花が咲いていました。まるでビロードで造った花のような手触り、不思議な感触です。別名・サルビア・レウカンサ。 北の丸地区は、昭和30年代後半に旧近衛連隊等の多くの建物を撒去し、森林公園として造成された。外周部は皇居の森と一体感を保つため、クスノキ、夕ブノキ、スダジイ等の常緑樹が植栽されている。  この建物は明治43年(1910)陸軍技師田村鎮の設計になるもので、レンガ造り、二階建て、スレート葺、簡単なゴシック風で、大正・昭和を経て現在に至る。明治洋風建築としては代表的な存在である。
天主台 本丸 諏訪の茶屋 二の丸庭園
かつてはここに高さ51メートルの五層の天守閣が天下を睥睨していた。しかし、1657年のいわゆる振袖火事によって二の丸、三の丸の建物群と一緒に消失してしまった。 皇居東御苑の中にある本丸跡。現在は芝生の公園になっている。なお、東御苑は月曜、金曜は入れませんからご注意を。 元来は徳川期吹上の庭に建てられた茶屋であった。明治期に入り、一時赤坂仮皇居へ移転されたが、再び吹上御苑に戻ることとなtyた。昭和43年点景として皇居東御苑のここに移築された。 江戸城の二ノ丸地区は、寛永七年(1636)三代将軍家光の命で庭設計の名人小堀遠州が造ったと伝えられる。当時の設計図を元に現在のような回遊式の庭園が復元されたものである。
百人番所 大手門 巽櫓 二重橋
この番所で守衛にあたったのは、甲賀組・根来組・伊賀組・廿五騎組の四組で、各組に与力二〇騎があり、一組に同心百人ずつが配属されていたので百人番所といわれた。この建物は幕府時代のままである。 旧江戸城の正門。元和6年(1620年)の江戸城修復に際し、伊達政宗らの協力によって現在のような桝形城門になった。 江戸時代は桜田二重櫓と言われていた。白亜漆喰総塗込めで横に二条の線がある。出窓状の突き出しが石落としで、弓や鉄砲を撃つ狭間を持っている。
皇居正門前の橋で、日本の古い文化と西洋文化とがよく調和した美しい景観。昔は西丸大手下乗橋といい木橋が架けられていた、その木橋に替わり、明治二〇年(1887)十二月に架け替えられ、石橋に改め、俗にめがね橋ともいっていた。
飯田橋を出発して二重橋まで、皇居を縦断してしまいました。隊員たちも皇居の三つの公園を、通して歩いたのは初めてとのこと。皇居はさすがに広いですね。それによく手入れがされています。二重橋では、修学旅行の記念写真を撮るスポットがあり、私たちも昔を思い出してパチリ。来月は浅草界隈の予定です。