大江戸線界隈探検隊

読売文化センター講座(新宿・金町教室)

第21回 浅草界隈(2003/12/11)

浅草の歴史は古く、太古の時代から高台になっていた現在の待乳山、弁天山、鳥越神社付近などから陸地化が進み隅田川(昔は宮古川)の河口近くで海の幸にも恵まれ、やや高台でもあって災害からも避難しやすく、人々が集まり始め物々交換の場が出来て集落が広がった。地名の由来は、この辺りが草浅きところだったことからきているらしい。

駒形どぜう 世界のカバン博物館 駒形堂 雷門
蔵前駅から観音様に向う途中の左側にあります。いまでも入れ込み式の客席は健在で、江戸時代にタイムスリップしたような気分になる。 潟Gースの本社8階にあります。世界31ヶ国から集めたバッグ420点を展示、さまざまなカバンを通じて世界各国の文化・風俗の違いや変遷を見ることができる。 天慶5年(942)安房守平公雅は浅草寺観音堂を造営する際、馬頭観音をまつるためにこの駒形堂も建てたといわれている。先月完成したばかりのほやほや。 正しくは「風雷神門」、浅草寺の総門である。現在の門は昭和35年(1960)の再建。松下幸之助氏の寄進によるもの。
宝蔵門 五重塔 浅草寺本堂 二天門
仁王門と浅草寺宝物の収蔵を兼ねたもの。現在の宝蔵門は昭和39年に大谷米太郎氏の寄進により竣工されたもの(総工費一億五千万円)。 寛永寺・増上寺・天王寺の塔とともに「江戸四塔」として有名。慶安元年徳川家光により再建されたが、惜しくも昭和20年3月戦災により焼失。再び昭和48年に再建された。 東京で最も古い寺である浅草寺。628年漁師の檜前浜成、竹成兄弟が隅田川から拾い上げた観音様を、土師中知が堂を設けて安置したのが始まりと言われている 二代将軍の徳川秀忠が、家康を祀って日光と浅草に東照宮を建てた。この浅草東照宮の随身門として建てられたのがこの門。東照宮は焼失したが、この門は奇跡的に残り、国の重要文化財に指定されている。
浅草神社 紋章 石橋 影向堂
隅田川で聖観音を得たと伝えられる桧前兄弟とその像を安置して浅草寺を創建した土師中知(はじのなかとも)との三社の神を祀る神社であることから「三社さま」と通称されている。 桧前兄弟が漁師であったことから、網の模様が神社のシンボルとなった。賽銭箱や神輿蔵にこの紋章がついている。 境内で二天門と並び古いものである。写真ではよく判らないが、橋の中央の石がへこんでいる。400年の歴史が感じられる場所である。 平成6年に慈覚大師の生誕千二百年を記念して建立された。中央に聖観世音菩薩像、その左右に十二支生まれの年の守り本尊八体(影向衆)の像が安置されている。
淡島神社 喜劇人の碑 待乳山聖天 神谷バー
淡島明神は、江戸時代より婦人病.性病の守護神として女性の信仰を集めた。現在も毎年2月8日、ここで針供養が行われ、女性の参詣人が多く集まる。 浅草六区は、明治・大正・昭和にかけて、演芸のメッカであった。数多くの喜劇人がここから生まれ、一斉を風靡した。ゆかりの喜劇人の名前が、碑の裏側に刻まれている。 関東三聖天のひとつ浅草寺の子院である。境内の各所に施された「大根.巾着」の意匠は当時の御利益を示すもので大根は健康で和合、巾着は商売繁盛を現すものだという。 明治13年、初代神谷傅兵衛浅草区花川戸町四番地にて、「みかはや銘酒店」を開業。酒の一杯売りを始める。やがて「電気ブラン」で有名となり、文人たちが好んで訪れた店である。
この日は朝から暗雲が立ち込め、午後から雨との予報。珍しく予報が的中、待乳山聖天に向う頃から氷雨となってしまった。雨にも負けず元気に完歩。神谷バーで飲んだぶどう酒のおいしかったこと。限定発売の「傅兵衛さんのおやつ」をおみやげに買って帰る。何とも不思議な味のするお菓子。たとえて言うなら、和洋折衷の明治の味と言えるかな?百聞は一見にしかず、一度お試しあれ。一日限定50個。