大江戸線界隈探検隊

読売文化センター講座(新宿・金町教室)

第3回 6/13(木) (大門〜麻布十番)
大門駅10時集合
小雨の中、探検隊13名は元気に出発。歩くには丁度いい涼しさでよかった。今日は坂道が多いので、ゆっくり行くことにする。大門駅A6出口へ出ると、目の前に増上寺の三解脱門へと通じる大門が、みちの真中に立っている。車はもちろんこの門をくぐって走る。なんだか不思議光景である。大門横に、江戸時代の繁栄の様子が浮世絵のレリーフで示されている。大門手前から路地を右に入り芝大神宮へ。

芝大神宮
江戸時代は芝神明宮とか板倉神明宮と呼ばれていたらしい。芝神明と言えば歌舞伎の「め組の喧嘩」で有名である。これは、実際にあっため組鳶と相撲取の喧嘩を題材にしたもの。「火事と喧嘩は江戸の華」といわれたくらい江戸っ子は火事と喧嘩が大好きであった。その両方が入った出し物は評判と取ったと言う。そのめ組が奉納した狛犬が、当時を偲ばせている。なかなか如才のない禰宜さんが出てきて、わかりやすく解説を始めた。お礼に、隊員たちはこの神社の名物「生姜」の砂糖漬けをお土産に買った。
往時、境内には相撲、芝居小屋、見世物がかかり庶民の憩いの場として親しまれたところであったが、現在は猫の額ほどの広さしかない。裏に回って見ると、実はこの本宮は駐車場の上に乗っかっているのがわかる。苦肉の策というべきか。右の写真、草葉の陰に隠れているのが「力石」。祭礼の際に「力比べ」に使用された石である。50貫目余と記されている。通称「金杉の藤吉」が187.5kgのこの石を片手で持ち上げたと伝えられている。ほんとかうそか?
増上寺
増上寺の表の顔として、威風堂々たる姿を見せる三解脱門。増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されている。
「江戸七分ほどは聞こえると芝の鐘」と詠まれた大鐘は、かつては木更津まで聞こえたと伝えられている。現在と違って高い建物などなかった時代、風向きによっては聞こえたかもしれない。
増上寺の正式呼称は「三縁山広度院増上寺」である。浄土宗の七本山の1つで関東 大本山である。徳川家の宗旨が浄土宗であったことから、菩提寺に指定されて絶大な庇護を受けた。江戸時代には常時3千名の僧が修行していたと言う。本堂の後ろに見えるのが東京タワーである。まるで巨大なお灯明のよう 本堂の裏手にある「徳川家の霊廟」門には三つ葉葵のご紋章がある。6代 家宣公夫妻(青銅製) 、2代 秀忠公夫妻(石塔)14代 家茂公夫妻(石塔) 、7代 家継公(石塔)、静寛院和宮(青銅製)、9代 家重公(石塔)、将軍生母側室等(石塔)、12代家慶公(石塔)などが眠ってているが、非公開である。
増上寺境内にある「西向観音」の前にお地蔵さんがずらりと並んでいる。みんな赤い帽子をかぶっていて、とても愛くるしい顔立ちである。風が吹くと風車が一斉に回りだし、そこだけおとぎの国へいったような雰囲気になる。
芝公園
増上寺を出て、赤羽橋方面に歩くと、芝公園だ。かつては増上寺の境内であったが、明治6年に日本初の公園に指定された。このころ日本には公園と言う概念がなかったから、画期的なことであったに違いない。もちろん西洋の影響である。静けさの漂う園内は都会の喧騒を忘れさせてくれる憩いの場ともなっている。古い公園らしくケヤキやイチョウなどの大木が見られる。梅の木が多く、この前取材で訪れた時には老夫婦が落ちた梅の実をビニール袋一杯拾っていた。梅酒でも漬けるのだろうか。
赤羽橋
赤羽橋の交差点。東京タワーが目の前である。
増上寺の南を流れる川は赤羽川と呼ばれ、上流は渋谷川とも古川ともいい、下流は新堀川(金杉川)と名を変えて、芝金杉で海へ注ぐ。赤羽橋は虎ノ門から江戸へ入る昔の東海道の経路であった。
赤羽橋の石柱。赤羽橋の交差点を渡りまっすぐ進む。
綱町三井倶楽部
三田国際ビルを右に曲がると「綱の手引き坂」である。大正2年、三井家の迎賓館として鹿鳴館やニコライ堂などの設計者として知られるジョサイア・コンドル博士の設計によって建てられ、西洋建築の傑作といわれている。大正12年、関東大震災で損傷を受けたものの、昭和4年にはその原型を崩すことなく改修。また第二次世界大戦では幸いにも戦禍を免れ、終戦後は「米軍将校クラブ」として使われた。そして昭和28年の返還後は、三井グループ企業の倶楽部として現在に至る。会員制の倶楽部ゆえに非公開。見事な庭園があるらしい。綱町の由来はこの地が平安時代の武将渡辺の綱の産湯を使った井戸があることから付けられたという。
綱町三井倶楽部の右隣りに、対称的な武家長屋がある。この辺りが大名屋敷跡だったことを伺わせる。ひっきりなしに車が通るのでシャッターチャンスが難しい。
綱の手引き坂の次は、日向坂。
オーストリア大使館と三田会議所
日向坂の中ほどにオーストラリア大使館が建っている。この写真ではよくわからないが、屋上の両サイドにカンガルーとオーストリッチのオブジェが乗っかっているのですぐわかる。その隣りの立派な石造建築物は「三田会議所」
善福寺
日向坂を下りて、ニの橋の交差点を渡ると仙台坂下。善福寺はこの坂の途中にある。平安時代、空海が関東一円に真言宗を広めるために、西の高野山に模して東の麻布山として開山した都内最古の寺院のひとつ。鎌倉時代には、親鸞上人が越後から上洛の途中、善福寺に滞在した。由緒ある寺の後ろにそびえる高層マンション。上が太く下が細いのでとても不安定に感じる。美しいとはとても思えない建物である。皆さんは どう思われるだろうか。
「ハリス記念碑」
安政5年(1858)6月に締結された日米修好通商条約により、それまで下田にいた総領事ハリスは初代公使としてこの地に来た。当時の宿館として、奥書院と客殿の一部が使用されていたが、文久3年(1863)水戸浪士の放火で書院などを焼失したため、本堂、開山堂などを利用していた。当時の本堂は戦災で焼失、現在のものは大阪府八尾市の東本願寺別院を移築した江戸初期の立派な建築である。
善福寺の墓地の入口近くに、シャンソン歌手 「越路吹雪の碑」があり、「愛の讃歌」の歌詞が刻まれている。形がとてもおしゃれでコーちゃんに相応しい。隊員のみんなから、「ドレスの形じゃないかしら」という意見が出た。そういわれれば、そうも見える。 彼女が胸の大きく開いた黒いドレスで歌っていたころが思い出された。
他に 「福沢諭吉翁」の墓もある。
3枚の写真は「善福寺の逆さ銀杏」イチョウとしては東京都最大の樹。いや、つい数年前までは樹種を問わず東京都最大とされていたが、御蔵島村にこれを上回る巨樹が発見されたために、現在は東京都「本土」最大の巨樹となっている。逆さイチョウの名の由来は、気根の発達が著しく、まるで樹を逆さまにしたような姿から来ている。
韓国大使館
善福寺から仙台坂を登る途中に、韓国大使館がある。いつもより警備員が多く感じられた。亡命事件の影響だろうか。とにかくこの辺りは大使館がやたらとある。これも善福寺に日本初のアメリカ公使館が置かれたことと深い関係があるらしい。つまり、明治にはじめ頃から大使館の周りに外国人が住むようになり、自然発生的に各国の大使館が設置されるようになったという。6月18日のイタリヤ戦に勝利した韓国。大使館でも大騒ぎで大変だったことだろう。それにしても、日本ももう少しでこの喜びを共に味わえたはずなのに、返す返すも残念。こうなったら、韓国に頑張ってもらいアジアのサッカーの力を世界に示してもらいたいものだ。
安藤記念教会
仙台坂を上りきり右に折れると、緑の蔦に覆われた、かわいらしい教会が見えてくる。明治19年(1886)ハワイ駐在総領事に就任した安藤太郎は、ここでキリスト教と出会う。文子夫人とともに洗礼を受けた安藤夫妻は、帰国後、教会の建設を計画したが、夫人はその実現を待たずして死去。1917年、安藤氏はその遺志を継いで、自宅と全財産を神に捧げ、「安藤記念教会」を残した。
西町インターナショナル・スクール
西町インターナショナルスクールでは、在日外国人の子供達や帰国子女が学んでい。
1947年、ライシャワー博士夫人の妹、松方種子女史により創設された。
校舎の一部には大正10年完成のウィリアム・ヴォーリス設計の松方正熊邸・松方ハウスがそのまま利用されている。現在世界三十ヶ国400名の子供達が学んでいる。平成12年に東京都が選定する歴史物建造物となった。
坂あれこれ
それにしてもこの辺りは坂が多い。みんなふーふー言いながらも頑張っている。お年よりはどうやってこの坂と付き合っているのだろう。そう言えば、何度来てもお年寄りに遭遇したことがない。という事は、みんな坂下に越すのであろうか。安藤記念教会の坂は一本松坂。坂上に何代目かの一本松があるがまだ小さい。昔は一本松が茶屋を覆うほどの大きさだったという。ここで坂は二手に分かれる。「暗闇坂」と「大黒坂」。左の写真はの暗闇坂はいまでも木立がうっそうとして薄暗い。往時は追いはぎが出たというから、怖い怖い坂だったのである。
もう一方の「大黒坂」は、坂の中腹にに大黒天を祭る「大法寺」あったことから命名された。港区七福神の一つ。
大黒坂を下ると十番広場(パティオ)に出る。
麻布十番・「きみちゃん像」
十番広場(パティオ)に立っている銅像。童謡”赤い靴”のモデル”きみちゃん”である。
本名岩崎きみ、歌の中では異人さんに連れられて行ったことになっているが、実際は今の十番稲荷の辺にあった鳥居坂教会の孤児院で亡くなっていた。
きみちゃんは、1902年(明治35年)7月15日静岡県清水市宮加三で生まれ、母のかよさんと共に開拓団として北海道に渡る。 しかしかよさんに再婚話が持ち上がり、また当時の開拓地の想像を絶する厳しさ等からきみちゃんが3才の時に、アメリカ人宣教師チャ−ルス・ヒュエット夫妻の養女になった。 しかしヒュエット夫妻が帰国する事になった時、結核を発病した彼女は、長い船旅ができずやむなく麻布の永坂教会孤児院に預けられ、明治44年9月15日の夜、9才で亡くなったそうだ。 歌は、入植に失敗した夫が「北鳴新報」という新聞社に職を見つけ、同じ頃勤めていた野口雨情に「きみちゃん」の事を話し、そのイメ−ジをもとに雨情が1921年(大正10年)に詩を作り、翌11年に本居長世が曲をつけた。
歌の中ではきみちゃんは、横浜から船にのって行ったことになっているが、これはかよさんは亡くなるまで、きみちゃんが8才で亡くなった事を知らずアメリカで元気に暮らしていると思っていたためである。
麻布十番商店街
麻布十番は、「善福寺」の門前町として発展してきた町である。延宝3年(1675年)幕府が古川の改修工事を行った時、この地点を河口から10番目の工区であったからと言う説と、元禄11年(1698年)将軍綱吉の別荘を建設した時、舟運のため川さらいを行い、その人足の第10組をここから出したためと言う説がある。また享保8年(1723年)江戸時代後半に商業が盛んになると、十番においても数多くの商店が創業され、この頃に創業されて現在まで商いを続けている老舗も多い。
通りのあちこちに、外国の作家の彫刻が置かれている。お国柄が出ていて面白い。
十番といえばタイヤキの「浪花屋」(真中の写真)と「豆源」(右の写真)が有名である。
隊員たちもお土産に買い求めていた。
麻布十番駅解散
隊員たちと一緒に蕎麦屋へ入り、昼食を共にする。3回目となればみんな気心も知れてきて会話が弾んだ。今日は上り下りが激しかったので皆さん疲れたことだろう。わたしも少し疲れました。来月は築地・月島方面の予定。

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