大江戸線界隈探検隊

読売文化センター講座(新宿・金町教室)

第4回 7/11(木) (築地市場〜月島)
コース   築地市場駅集合→築地市場→波除神社→築地本願寺→あかつき公園→聖路加ガーデンタワー→佃大橋→石川島灯台跡→住吉神社→        月島もんじゃ街→月島駅解散
築地一帯は江戸時代に埋立てによって生まれた土地である。現在の中央卸売市場の地は、松平定信の下屋敷「浴恩園」のあったところ。その後、安政4年(1857年)幕府が旗本や御家人を対象に、軍艦教授所を開講したが、明治維新後、海軍省の管轄となり、海軍省や海軍操練所(海軍兵学寮の前身)が設置された。明石町付近は明治初年から32年まで外国人専用の居留地で、外国の公使館もいくつか置かれていた。しかし、洋風建築が建ち並び、教会の塔がそびえるといった異国情緒あふれるこの街も関東大震災ですっかり失われてしまった。
築地市場
江戸時代、魚河岸は日本橋のたもとに在り、大正12年まで続いた。震災直後、芝浦に仮設市場が設けられ、同年12月には、交通の便が悪く、狭いなどの理由から、東京市は海軍省から築地の用地の一部を借り、市設魚市場として芝浦から移転させた。中央卸売市場開設までの暫定市場として建設したものでしたが、これが築地市場の始まりである。昭和10年、現在の地に東京都中央卸売市場築地市場が開設された。
1日の取扱高は、水産物が2,264t、青果物が1,499t。金額にしてそれぞれ21億1千9百万円、4億4千百万円。(平成10年平均)鮮魚で最も取扱量の多いのはぶり類、金額ではまぐろ類がトップです。冷凍魚では取扱量、金額ともにまぐろ類が抜きんでていて、塩干加工品では塩さけ類が量、金額とも1位です。
左の写真は、築地市場の塀に、松平定信翁の下屋敷「浴恩園」であったことを示すプレート。市場の敷地の片隅に、「浴恩園」の面影が唯一残る場所。現在は「水神社」となっている。市場で働いている人に聞いても、わからないくらい小さな社である。また、ここには旗塚と記された石碑が在って、海軍の操練所であったことを示している。
築地ホテル(所在地 築地6−20 築地市場駐車場)
明治元年(1868年)に建てられた外国人用旅館で、2代目清水喜助の設計による日本人による本格的洋風建築として新東京名物になった。木造2階建て、海鼠(なまこ)壁と鐘堂のある鐘塔をもち、部屋数は102室。アーチ式屋根やバルコニーを備え、各部屋に暖炉があり、玉突き場、食堂を設置してあった。和洋折衷の建物は錦絵などにも取り上げられた東京の新名所であった。しかし、明治5年惜しくも全焼してしまい、幻のホテルと言われている。
波除(なみよけ)神社
神社の創建は今から340余年前のこと。築地一帯は一面の海だったが、万治年間(1658〜60)に埋め立てがはじまった。だが、築地の堤防工事だけが困難を極めた。ある時、海に漂う稲荷神の像を祀ると、波風はピタリと治まったという。災難を除き波を乗り切るとして波除神社が創建された。 樹齢三千年の黒檜から木造一木造りで高さ2.4m重さ1t日本一のジャンボ獅子頭。年一度の祭礼つきじ獅子祭では数千人の人々に担がれ、築地の町々を回る初夏の風物詩として江戸の名残を伝えている。
神社の境内にはいかにも築地らしい供養碑が並んでいました。
左から「すし塚」「玉子塚」「海老塚」
築地本願寺

浄土真宗本願寺派本願寺築地別院  九条武子の歌碑
この寺は、元和三(1617)年、西本願寺の別院として、横山町に建立された。浅草が近かったことから「江戸浅草御坊」と呼ばれていた。しかし、明暦三(1657)年、振袖火事で焼失してしまい、大火後その替え地として下されたのが八丁堀の海上だった。そこで佃島の門徒が中心になり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き、延宝七(1679)年に再建。「築地御坊」と呼ばれるようになった。インド様式の現在の建物は伊東忠太博士の設計により、昭和九(1934)年に完成された。右は明治の歌人・九条武子の歌碑「おおいなる もののちからに ひかれゆく わがあしあとの おぼつかなしや」
明石町界隈の史跡
本願寺より、築地側公園を通り抜けると、聖路加看護大学の前に出る。昔この辺りは東京市京橋区入船町一番地で、芥川龍之介の生誕地である。龍之介は、明治25年3月1日、父新原敬三、母フクの長男として生まれた。当時、父親は渋沢栄一経営の牛乳摂取販売業耕牧舎の支配人をしていた。
龍之介が生後7ヶ月で母が病気となり、本所小泉町15番地(現両国3丁目22番)に住む伯父の芥川道章に引き取られ、やがて養嗣子として育てられた。芥川家は、代々江戸城の御数寄屋敷衆を勤めた旧家で、道章は俳句や盆栽に親しむとともに、南画をたしなみ、また一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を観る等、江戸趣味の濃い家庭であった。龍之介の文学の素養はこの伯父によってはぐくまれたのである。
 「忠臣蔵」でおなじみの播州赤穂、浅野内匠頭の上屋敷跡。
浅野家の上屋敷地 は西と南の二方が築地川に面し、広さ(890O坪) あったといわれている。 元禄1 4年(1701 ) 3月、年賀勅使の供応役を命ぜられた内匠頭は、度重なる恥辱に耐えかねて、ついに殿中・松の廊下で吉良上野介に刃傷に及び、自身は切腹、お家は断絶の悲劇を招いた。
大石蔵之助を中心に した家臣の仇討は有名で、 蔓延元年(1748) の大坂での浄瑠璃 「仮名手本忠臣蔵」を初めに数々の芝居、映画に取り上げられ、文芸作品にもなっている。
聖路加病院
聖路加病院旧本館のチャペルは、1933年(昭和8年)の当時のまま残されてて、患者や職員たちの祈りの場として健在である。このチャペルがあるので、通院や入院も苦痛ではなくなるという患者が多いと聞きます。隣接する看護大学は、20世紀の冒頭(1902年)に発足した聖路加国際病院を母 体として成長し、大学院研究科(博士・修士課程)をもつ4年制大学として今日に至っている。
アメリカ人宣教師・医師のルドルフ・トイスラーが1900年(明治33年)に来日し、東京・佃島に診療所を開設1902年に築地病院を改築し、現在地(明石町)の聖路加病院が誕生した。その後、関東大震災でその建物は消失し、1933年(昭和8年)本格的な病院が再建された。太平洋戦争の戦火は免れたが、 戦後、米軍病院として11年間接収され、その間は近隣の建物で診療を継続していた。 現在の建物は1992年(平成4年)21世紀にむけて、全人医療をめざす画期的な機能をもつ新病院として建築されたものである。創立以来の目標は、キリスト教精神の下に、患者中心の医療と看護を行うことに主眼をおいている。現在、テレビや雑誌で活躍されている、日野原重明氏は、名誉院長であり、聖路加看護学園の理事長でもあられる。
病院の敷地内に建つ、トイスラー・ハウス。かつて創立者のトイスラーが住んでいた家を、新病院建設に際して築地から移設したものである。小さなこのハウスは、慎ましやかでかわいらしく、トイスラーの精神を今に伝えている。 病院の敷地内は明治初頭の外国人居留地で、当時ここには麻布の善福寺から移ってきたアメリカ公使館が置かれていた。その礎石の一部が残されている。星条旗や鷲のマークの礎石が当時を偲ばせてくれます。
居留地には、外国人住宅ばかりでなく、教会や、学校なども多かった。いわゆるミッションスクール発祥の地でもあるのだ。左の碑には立教学院発祥の地と記されている。他には明治学院、青山学院、立教女学院、などなど。 平成四年に建った、「聖路加ガーデンタワー」いわゆる超高層のツインタワービルである。一つは新阪急ホテル、もう一つはオフィスビルとなっており、無料の展望室からの眺めが絶景である。
あかつき公園(敷地内にある記念碑)
聖路加病院の西側にある「あかつき公園」内にある「シーボルト」のブロンズ。ご存知幕末に蘭学を広めたオランダ人医師シーボルト。この像はオランダライデン大学とアルフレットエリオン財団の手により日蘭友好を目的に、朝日新聞の助力の末昭和63年6月18日建立された。 『蘭学事始』の碑
 明和8年(1771)杉田玄白、前野良沢らは千住小塚原刑場で刑死人の腑分(解剖)を行い、オランダの解剖書『タ一ヘルアナトミア』の翻訳を決意する。前野良沢、杉田玄白、野良沢、中川淳庵、桂川甫周らが集まり翻訳を開始し、苦心の末安永3年(1771)に『解体新書』を出版する。
慶應義塾開塾の地
安政5年(1858)、中津藩藩士福沢諭吉が中津藩中屋敷に蘭学塾を開く。この塾は最初は5,6名の塾生しかいなかったが、慶応4年(1868)に芝(港区)ヘと移転し、これを機に「慶應義塾」と改称している。
佃大橋と佃島
聖路加ガーデンタワーの裏はもう隅田川。川沿いに遊歩道「隅田川テラス」が作られていて、人々が思い思いに川を眺めている姿が見られる。左の写真はテラスから佃島方向を撮った。手前の橋が佃大橋、
その向こうにそびえる高層マンションは「リバティー21」
佃島に並ぶ石川島に複現された、六角二層の堂々たる石川島灯台。慶応2年(1866)石川島人足寄場奉行清水純畸が隅田河口や品川沖の船の航行の安全を図るため人足の手で寄場南端に常夜灯を築いた。この完成に最も恩恵を受けたのは地元の漁師たちだった。
もと人足寄場にそびえる高層マンション。新旧の対比が面白い。
佃島の守り神住吉神社の夏祭りの準備のため、町のあちこちでよしず張りの小屋掛け作業がおこなわれていた。佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲ですが、家康が江戸に幕府を開いた時に摂津国(現在の大阪市西成区佃)から漁師を呼び寄せ、この地に百間四方の土地を与えたことが起りである。喜んだ漁民は早速に築島作業にとりかかり、老若男女が一丸となって汗を流し、正保2年・1945年に佃漁民の島を造りあげた。この時郷里の佃村に因んで「佃島」と名付けたのです。故郷の住吉神社の産土神を分祇しお祀りした。
佃島に残る佃煮や
佃島には、江戸時代から続く佃煮やが3軒残っている。左から、「天安」「田中や」「丸久」
佃島の漁民達は、江戸前の新鮮な白魚を主に献上魚として、残った雑魚を江戸市中で商いし、暮らしを立てていた。当時の佃島は離島でしたから、海が荒れて漁業が出来ない時のために、昔からの生活の知恵で伝承してきた雑魚の保存を醤油炊きしておいたのが佃煮の始まりです。
月島
佃島から勝鬨橋を望む。左岸が月島。
月島は明治時代に埋め立てられた比較的新しい土地で元は「築島」と呼ばれていた。 その後、東京の月見の新名所という意味を込めて「月島」と名前を変えた。明治中期、月島は工業地帯として活況を呈し、月島の渡しは徹夜渡船を必要とするまでになっていた。このため、明治38年、日露戦争中の)旅順陥落祝捷会に際し、京橋区の有志は新たな渡船場を開設し、戦勝にちなんでここを「かちどきの渡し」と名付けた。この渡しは昭和15年6月、勝鬨橋完成と同時に廃止された。開閉式のこの橋は昭和45年までは開いていたが、それ以後は、開かずの橋となっている。
西仲通り商店街の場所は明治25年(1892)頃に埋め立て計画第一号として完成した造成地である。当時の月島は、富国強兵の国策に沿った鉄工業地帯であった。 明治末期には商店街らしい形となり、大正初期には露天商が西仲通り中央に夜店を張るようになり、現在では、もんじゃ焼きの店が立ち並ぶことで有名である。通称「もんじゃ通り」 月島は路地の多いところである。観音様だって、商店街の路地の奥にあり、いかにも手作りといった感じである。しかも、観音様の横にはエレベーターがあり、階上には銭湯、摩訶不思議な空間としかいい様がない。現代のワンダーランドと行ったところか。
実は私、もんじゃには見た目に抵抗があって、これまで口にしたことがなかった。しかし、ここまで来て「もんじゃ」を食べない訳にはいかない。隊員の中にけっこうもんじゃに詳しい人がいて、お勧めの「たんぽぽ」という店に入った。台風一過の暑い中、歩き続けたので、喉は乾ききっていた。一杯の生ビールのおいしいことといったらない。それにしても鉄板の熱さと体内の熱で、クーラーをがんがんに効かせても汗が噴出してくる。
初体験のもんじゃは、本当に美味しかった。量が多く、全部食べきれるかと心配したが、お好み焼きより小麦粉の濃度が薄いせいか、案外お腹にたまらずすいすい入っていく。もんじゃ通りには、約60軒のもんじゃ屋が軒を並べている。通りの入口に案内所があり、お目当ての店がわからないときには立ち寄ってみるといい。親切に教えてくれる。月島駅でみんなと別れ電車に乗るが、ほどよく酔いが回って危なく乗り過ごすところであった。来月は、大江戸線の「木場車両検修所」を見学する予定です。

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