大江戸線界隈探検隊

読売文化センター講座(新宿・金町教室

本郷3丁目界隈(2002-11-14)
文京区は昭和22年3月15日、旧本郷区と小石川区が合併して出来ました。加賀藩の上屋敷跡が東京大学になったことから学生性相手の下宿が立ち並び、また文人たちも多く住むようになりました。樋口一葉、石川啄木、徳田秋声、森鴎外、坪内逍遥などの住まい跡が残っています。江戸時代、現在の本郷3丁目までは江戸ご府内で、江戸ところ払いになる罪人は、この本郷追分で別れを惜しんだといわれています。中山道へ続く、東大前の坂が「見返り坂」あるいは「見送り坂」と呼ばれているのはそのためです。探検隊一行は、秋晴れの中いにしえの面影を求めて出発です。
本郷「かねやす」 一葉「桜木の宿」 東大・赤門 東大・校舎
かねやす 桜木の宿 赤門 東大校舎
「本郷もかねやすまでは江戸の内」この看板は本郷三丁目交差点の「かねやす」の店先にあります。享保年間、兼康は乳香散という今で言えば歯磨きを発売して、江戸中の人気をさらいました。現在は衣料品や雑貨の店になっています。 東大・赤門前の路地を入ったところに、樋口一葉が5歳〜10歳まで過ごした家が、法真寺の東となりにありました。大きな桜の木があり、一葉は「桜木の宿」と呼んでいました。一葉の短い一生の中でこのころが一番裕福な時代でした。 ご存知、東大・赤門。正式名称は「旧加賀屋敷御守殿門」で、今から170年前11代将軍家斉の娘が、前田家に嫁いだ際に造られました。当時、三位以上の大名が将軍家から奥方をもらう際、朱塗りの門を建てるのが慣例だったそうです。 広大な敷地に、重厚な石造の校舎が点在しています。木々に囲まれ、最高学府にふさわしい環境です。この探検隊の中にも、かつてここで勉学に励んだ方がいらして、○○十年ぶりに青春時代を懐かしんでおられました。
図書館 三四郎池 安田講堂 イチョウ並木
図書館 三四郎池 安田講堂 銀杏並木
実に美しい形をしています。よく見ると凹凸の建物は、本の背表紙を並べたように見えます。いかにも図書館にふさわしいフォルムだとは思いませんか。 正式名称は「育徳園心字池」前田家の育徳園は江戸でも屈指の名園でした。夏目漱石の小説「三四郎」に登場して以来、誰ともなく三四郎池と呼ぶようになったのです。一日中鳥のさえずりが聞こえ、ここが東京のど真ん中とはとても思えません。 東大のシンボル安田講堂は、旧安田財閥の安田善次郎氏の寄付によるもので、大正5年の竣工です。昭和44年の大学闘争の折、学生たちの砦になったことで全国的に有名になってしまいましたが、いまも傷跡が生々しく残っています。 正門から安田講堂に続く銀杏並木です。この日は黄葉にはまだ少し早く残念でした。18日、この近くに住んでいる友人から電話があり、今まさに見ごろだそうです。
マンホール 東大・正門 万定フルーツパーラー 徳田秋声旧宅
マンホール 東大正門 万定フルーツパーラー 徳田秋声旧宅
東京大学の前身、「東京帝国大学」時代の下水のマンホールです。「帝大下水」の文字が書かれています。 赤門とは対照的な近代的な門。門の両側には和風の守衛所があり、不思議な融合を見せています。 大正3年開業の店。店内はほぼ昔のままで、モダンボーイやガールが集ったであろう大正ロマンに満ちています。 さて、この辺りからいよいよ迷路が続きます。隊員たちは離れないように固まって歩きます。迷子になったら大変。徳田秋声の旧宅が路地の奥にひっそりと建っていました。。
蓋平館別荘跡 旧伊勢屋質店 坂に立つ木造3階建ての家 一葉ゆかりの井戸に続く路地
蓋平館別荘跡 旧伊勢屋質店 木造三階の家 井戸へ続く路地
徳田邸から迷路を抜けると「太栄館」、ここはかつて石川啄木が住んだ蓋平館別荘の跡に建っています。歌碑には<東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる>とありました。太栄館の迎え看板には学校の名がづらり、そういまでも本郷は修学旅行の定宿が多いのです。 太栄館から新坂という急な坂を下ると菊坂下に出ます。とにかく坂の多い土地なので、ゆっくりゆっくり歩くことにします。菊坂を少し登ると左側に土蔵が見えてきます。これこそが、一葉が通った質屋です。店から見れば一葉は大のお得意様、一葉の葬儀の時には伊勢屋から香典が届いたそうです。 見てくださいこの建物。懐かしさで胸が一杯にはなりませんか。坂に建っているので、都合3階建てなのですが、どこを一階と呼ぶのでしょうか。実に不思議な造りです。もちろん現在も人が住んでいます。そっとこの階段を下りて下の道に出ます。上と下に平行に道が二本走っています。 二人並んでは通れないような狭い路地の奥に、井戸はあります。この路地がなかなか見つけれずにうろうろする人もあるくらいわかりにくい場所です。路地の角のブロック塀に「住人の迷惑にならぬように見学してください」と但し書きが張ってありました。隊員たちも声を潜めて、忍び足で、奥に進みます。
一葉ゆかりの井戸 階段を上れば 鐙(あぶみ)坂 坪内逍遥旧宅跡
一葉ゆかりの井戸 路地の奥は階段 鐙(あぶみ)坂 坪内逍遥旧宅跡
これが、一葉の使っていたといわれる共同井戸です。この井戸を中心に小さな家が肩を寄せ合うように密集しています。おかみさんたちのおしゃべりが聞こえてきそうでした。
井戸の奥の石段を登れば、上の通りに出られます。一葉もこの階段を下駄を鳴らして上って、質屋へ通ったのでしょうね。それでも文学への志を捨てなかった一葉は、やはり偉いですね。 上の通りに出れば鐙坂です。鐙は、馬の鞍の両側にさげて、乗る者が足をかける馬具で、この鐙の製作者の子孫が住んでいたので、そう呼ばれています。 鐙坂上の道を左に入ると、坪内逍遥旧宅跡に出ます。今は企業の研修所が建っていますが、当時ここからは富士山が望め、鶯の谷渡りが聞こえたそうです。残念ながら、今はビルしか見えません。
炭団(たどん)坂 文京ふるさと歴史館 菊人形 喜之床
炭団(たどん)坂 文京ふるさと歴史館 八百屋お七 喜之床
その逍遥旧居跡のすぐ下にある坂が炭団坂です。滑って転べば炭団が転がるように落ちる急坂のため付いた名とか。今は階段になっていますから大丈夫。 坂の反対側に歩いていくと「文京ふるさと歴史館」があります。
文京区は弥生式土器命名の地として知られ、その歴史はかなり古い。それをわかりやすく展示してあります。
歴史館の今月の企画展は
「菊人形今昔ー団子坂に咲いた秋の風物詩ー」
八百屋お七の菊人形が一体だけ飾られていました。11/24までやっていますよ。
明治42年、春日通りにある「喜之床」の2階に石川啄木は家族とともに移り住みました。明治期の典型的な店舗家屋は、いま明治村に移築され現在は近代的な理髪店となっています。 

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