大江戸線界隈探検隊

読売文化センター講座(新宿・金町教室

中野坂上〜都庁(2002-12-12)

中野郷は慶長8年(1603)江戸幕府が開かれると、幕府の直轄領と旗本・後家人領となり、幕府を直接支える役割をもった地域としての性格をもつようになる。 また、江戸城建設のための石灰を青梅から輸送するため青梅街道が開かれ、中野宿が置かれる。江戸中期以降は多摩地域からの物資の集荷地として発展する。 幕末になると、中野地域は物資の集荷地という特性を生かして、それらの物資を原料とした製粉業・味噌・醤油など醸造業が盛んになる。

ハーモニースクエア 享保の「象屋」の跡 成願寺の竹の塀 成願寺
ハーモニースクエア 享保の「象屋」の跡 成願寺の竹の塀 成願寺
中野坂上駅付近は再開発が進み、高層ビルがニョキ ニョキと建ち始めました。ハーモニースクエアはその中心的存在です。付近の道路は埋設工事中。
いつになったらすっきりするのでしょうね。
享保13年(1728)、中国人の貿易商が、将軍吉宗に献上するためにベトナムから象を連れてきました。長崎に上陸した象は、何と歩いて江戸まで来たのです。10年後に中野の百姓源介に払い下げられこの地で一般の人々に公開され人気を博しました。 中野坂上駅から山手通りを南へ進むと、この竹の塀が見えてきます。。一体なんだろうと思いながら行くと、やがて成願寺の正門が見えてきます。中野坂上付近はただいま道路工事中、これで寺を守っているようです。 宝山成願寺は、応永年間に中野長者・鈴木九郎が病で亡くした一人娘の成仏を願い、屋敷跡に寺を建立し、娘の法名をとって正観寺としたのが始まりといわれています。
中野長者ものがたり(成願寺) 真ん中にあるのが大観通宝(成願寺) 中野長者の墓(成願寺) 蓮池鍋島家の墓所(成願寺)
中野長者ものがたり 大観通宝 中野長者の墓 蓮池鍋島家の墓所
今から600年前、この中野に熊野から出てきた鈴木九郎という人物が、馬の売買を商いにしていました。ある日馬を売りに行く途中、浅草の観音様にお参りに立ち寄り願をかけました。「どうか馬が高値で売れるように。代金の中に「大観通宝」が混じっていたら、全部観音様にぜ差し上げます」 ところが、代金はすべて「大観通宝」だったから大変。さあて、どうしたものか。迷いましたが九郎は約束を守り、すべて観音様に差し上げました。そのことが評判になり、商売がどんどんうまくいき、長者といわれるほどのお金持ちになったそうです。しかし、長者になると人が変わったように金の亡者となってしまったのです。 儲けた金を山中に隠すため、下男を連れて出かけたのですが、戻ってきたのは九郎一人だけでした。そうして次々に下男が姿を消していったのです。そして一人娘は婚礼の夜、淀橋から身を投げて亡くなり、大蛇に変身し空に上ったと言われています。その供養のため寺を建てたのでした。 佐賀藩・蓮池鍋島家は、直澄が寛永16年(1639年)五万二千六百石を与えられ分家したのにはじまります。 墓域に入ると十基の墓石が立ち並んでいます。成願寺は中野在所の寺で唯一大名の墓がある寺です。
淀橋の石柱 淀橋の下を流れる 神田川 石森製粉前の大石臼 十二社天然温泉
淀橋の石柱 神田川 大石臼 十二社天然温泉
よく見えないでしょうが石柱には「よどばし」と刻んであります。この橋は別名「姿見ずの橋」と呼ばれ、 ここで殺された人や、身投げをした人の遺骸は、けして上がることはなかったと伝えられていて、長い間不吉な橋として恐れられていました。 嫁入りのときに花嫁が渡ると姿を消すいう迷信は、 大正2年浅田政吉氏によって打破されたのです。淀橋の畦の川上に床を組み、 神官20名による盛大な「浄め祭」が開催されました。招かれた民俗学者・柳田国男氏の 「伝説の尊重と迷信の打破」という演説もあったといいます。 青梅街道沿いにある「石森製粉」の前にある石臼です。この辺りは製粉業や醸造業が盛んな土地柄でした。 唯一残った石森製粉も工場は平成2年に新木場に移ってしまい、今はマンションが建っています。 石臼に後ろにあるレリーフは蕎麦の花ですよ。 十二社(じゅうにそう)といえば温泉ですよね。まだまだ健在です。 創傷および火傷、皮膚掻痒症、角化症リウマチ性疾患、慢性気管支炎、咽喉炎にいいそうですよ。 AM11:00〜PM10時、料金は大人1900円だそうですから皆さん一度お試しあれ。
熊野神社 境内の大田南畝献上の水鉢 写真工業発祥の地 久遠の像
熊野神社 大田南畝献上の水鉢 写真工業発祥の地 久遠の像
新宿中央公園の北西にある熊野神社は、中野長者が熊野より勧請したと伝えられています。この辺りは、江戸中期以降より西郊の景勝地として行楽客で賑わったところでした。熊野から三所権現、四所明神、五所の王子、あわせて十二社を祀ったところから十二社(じゅうにそう)と呼ばれるようになり、新宿の総鎮守となりました。 「蜀山人」の別名を持つ南畝は江戸時代中・後期の戯作者で狂歌の名手でした。
「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶと言うて夜も寝られず」という歌で一躍有名になりました。また、“土用のうなぎの効力、特に丑の日にはうなぎは食当りしない”という意味の狂歌を作って広告したのが「土用のうなぎ」の始まりだとも言われています。
新宿中央公園の片隅に「写真工業発祥に地」という記念碑があります。
明治35年(1902年)5月、当時写真材料を販売していた小西本店(現コニカ)の創業者 杉浦六右衛門が、それまで輸入に頼っていた写真材料を国産でを作ろうと、この地、東京府豊多摩郡淀橋町角筈十二社に感光材料工場「六桜社」を建設したところです。
太田道灌と山吹の花の伝説の像。鷹狩に出た道灌が突然雨に降られ、一軒の農家に駆け込み蓑を貸してくれないかと頼むと、少女は返事の変わりに「山吹の一枝」を差し出しました。山吹の枝にこめられた意味はこうです。
「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」
兼明親王の歌に「実の」と「蓑」をかけて、貸してあげられ貧しさを恥じたといわれています。
ナイヤガラの滝 六角堂 六角堂前の飛び石 都庁舎
ナイヤガラの滝 六角堂 飛び石 都庁舎
新宿中央公園の名物「ナイヤガラの滝」ちなみにこの裏にも滝があってそちらは「白糸の滝」と名づけられています。 淀橋浄水場を建設する際に、沈殿池を掘った土を盛り上げたのがこの富士見台で、ビル群がなかった当時は本当に富士山が見えたそうです。頂にある六角堂も建設当時からあるものでず。 改修の際に通路の飛び石に沈殿池の壁に使われていた煉瓦が再利用されています。淀橋浄水場は明治31年から昭和39年まで東京都民の水瓶として存在しましたが、当時の面影はほとんどありません。 丹下健三氏の設計による都庁舎です。右手が第二庁舎左側が第一庁舎。色々物議をかもした建物ですが、たしかに存在感はありますね。
委員会室 議事堂 傍聴席 災害対策室
委員会室 議事堂 傍聴席 災害対策室
さまざまな委員会が行われる部屋。たくさんある中でここが一番大きな委員会室だそうです。 今日は本会議はなくひっそりと静まり返っていました。 隊員たちは傍聴席に座ってみました。傍聴席のスペースがかなりあるのには驚きました。わたしもいつか傍聴してみたいですね。 この部屋で、日夜東京都で起きるさまざまな災害に対応しています。三宅島の様子がライブで観測できるようになっていました。
都庁舎のあちこちに配置されている野外彫刻。 これはごく一部、全部で38の作品があります。野外彫刻の魅力は何といっても無料で見学できること。 さらには撮影は自由、そして触れることもOKです。税金の無駄遣いと言う意見もあるかと思いますが、 開放された美術館と思えばいいではありませんか。

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