「A・B・視線」
ショート・ショートものがたり     
  



  咲子が男の視線を肌で感じ分けることができるようになったのは、彼女が美人だったか

 らではない。どちらかと言うと、咲子は平凡な顔立ちで、ただ他人と違うところといえば

 並外れて好奇心が旺盛なことだった。

  渋谷から乗った東横線の電車の中で、咲子は さっきから肌に張り付くような視線を感じていた。

 少しは酔っていたが、わかった。

  「今日の視線は、Aクラスだわ・・・」

  誰にでもわかる視線は、一番低級、Cクラス。例えば酔っ払いとか、一部の肉体労働者とか…、

 つまり守るべきプライドを持ち合わせていない人 たちである。これはあまり気持ちのいいものでは

 ない。防御法はただ一つ、徹底的に無視すること。

  視線に気が付いていることさえ、感じさせてはいけない。咲子は紅潮した頬に手を当て「ふうー」と

 大きなため息をつく。

  視線は右斜め後ろから来ている。まだまだ振り返ってはいけない。右45℃にちょっと上向き加減に首を

  回し、電車の窓ガラスを見るのだ。窓に映る乗客の顔をそれとなく見る。そこですぐにわかってしまうのが、

  Bクラスの視線というものである。このクラスの男は、視線が合うと窓ガラスを媒介として盛んにサインを送

  ってくる。もし好みでなかったら、どうするのか。

   「ふん」

  歯牙にもかけぬという態度を、はっきりと相手にわかるように送らなければならない。

   ここで曖昧な態度をとると、つきまとわれる結果になってしまうこともある。

   今夜の視線の送り主は、そう簡単には正体を現さない。Aクラスたる所以である。

   これからが、男と女の駆け引きというもの、どちらが勝つかお楽しみ。

   咲子は首を正面に戻して、つり革を握っている手にいかにも辛そうに寄りかかり、もう一度窓ガラスを見る。

  今度は間違いなく視線を捕らえられるはずである。熱い視線がガラスにぶつかり、跳ね返って咲子の視線

  とぶつかる。絡みつくような視線。誘うような視線。

   「いい、お・と・こ…」

   ゲームはそこまで。咲子は発車間際に飛び降りる。背中でドアの閉まる音。残念そうな男の視線が咲き子

   を追う。咲子は振り返って、つぶやく。

    「ちょっと、惜しかったかな…」

                                                            

おわり