咲子の約束
ショート・ショートものがたり     
  


 とうとう、約束の日が来てしまった。
 咲子は、悔いていた。
 《どうしてあんな軽はずみな約束をしてしまったのだろう。すべてはあの夜の、あの雨のせいだわ》

 突然の雨で、どうしようもなかった。バス停からアパートまで駆け出した。
 帰り着いたときは、ずぶ濡れになっていた。
 バスタブに湯を入れ、コーヒーを沸かし、バッグから煙草を取り出そうとしたとき、ティッシュペーパーが
落ちた。渋谷の駅で配っていたっけ。無意識に受け取り、バッグにしまいこんだのだろう。
 [テレフォンクラブ・アイリス お気軽にお電話ください]
 ほんの気の迷いだった。ずぶ濡れの野良猫が車の下に潜り込むように、咲子はふと電話機に手を伸ば
してしまった。

 《真面目に考えることはないわ。相手だって来るかどうかわかったもじゃないし・・・、テレフォンクラブの
約束なんて、そんなものよ。やめた! やめた!》

 鏡の前に座る咲子。そこには三十七歳の少々くたびれた女の顔が写っていた。
 鏡の中のその女が、いやらしい笑いを浮かべて咲子にささやく。

 《あんたもたいした物ね。十歳もさば読んでさ。本当は行きたいんでしょう? どんな男か興味あるんで
しょう。見栄なんか張らなきゃよかったのよ。正直に言えばよかったのに。もうすぐ四十になる、寂しい普通
の事務員ですって・・・》

 その頃、一郎はベッドで煙草をくゆらせながら、想像をめぐらせていた。
 《年齢、二十七歳。外資系会社の社長秘書か・・・。声の感じからいったって、細面だろうな。色は小麦
色、ハワイ焼けか、それともグァム焼けかな・・・》

 一郎はシャワーの後、洗面所の鏡に写った自分を見てしみじみ思った。
 《俺もずうずうしいよな、この腹じゃどう見ても三十になんか見えるはずないのに・・・。行くべきか、行か
ざるべきか、それが問題だ。彼女の夢を壊すなんて罪だよな。やっぱり止めておこう。》

 それから三時間後、咲子と一郎は渋谷のモアイ像の前で、背中合わせに立ち、二十七歳の社長秘書
と、三十歳の歯科医を探していた。  

                                                            

おわり

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