武術のことU(7〜12)

2004年 7月12日 更新
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その7 尺勁  (2003 03 03)

 先日K−1ワールドMA×日本代表決定戦のテレビ放映があった。
 決勝で魔裟斗選手に判定で惜しくも敗れたムエタイの武田幸三選手。この人について少しおもしろい話を聞いたのでお知らせする。

 親しくしていただいている武術家の方からうかがったのだが、彼の打ち方(右ストレート)が南拳(白鶴拳)の尺勁にそっくりらしい。手を前に出した状態(構えた状態)からそのまま打っていく。ストレートと言うよりナチュラルフックに近い感じで打ち出すのだがその辺もそっくりとのこと。
 尺勁(しゃくけい)と言うのは発勁(中国武術独特のパワーの出し方)の一種で、30センチくらいの距離から打つもの。
 全盛期のモハメド・アリが、腰を細かく動かしながら小さくパンチを繰り出したりしたのも白鶴拳の動きに似ているらしい。武田選手の場合は一発だが、どちらも使っている勁道は似ていて、全身の強調と腰の捻りで打つようである。特に武田選手の場合は体重を預けながら打っているので当たればけっこうなダメージを与えられるという。
 実際そうやってタイ人選手を倒してきたわけで、拳を構えた位置からテイクバックなしでいきなり打ち出すので、相手はそれにとまどうようである。
 武田選手が本格的に白鶴拳の身法や打法を身につけるとおもしろいのだが・・・とのことである。念のために言うと、私がその話を伺った老師は白鶴拳の方ではない。別に自分の流派の宣伝のタネ、な話ではないので誤解なさらないでいただきたい。
 
 少しだけ付け加えると、肩とか身体がもう少し柔らかく動けばもっと速く、より以上の威力のあるパンチが出せるのに、とのことである。
 私はプロのファイターに関して芸能人だの作家だの門外漢が批判がましいことを言う「知ったか」が大嫌いなのだが(文句があるなら自分で闘え)、これは私の意見ではなくてあくまで「本職」の方からの伝聞として記す。正直言ってこの話を聞くまで同選手に関してはまるで無知だった私である。これからは興味を持って注目していきたい。


その8 昔の教授法  (2003 03 07)

 数年前聞いた話である。
 私の知り合いで中国武術を習ってる人に、お父様が日本の柔術と剣術の達人の人がいて(前にも触れたか)、その人がある時、お父様の柔術の傍流の人が出した教材ビデオを土産に帰省した。
 「父ちゃん、こんなん出てるけど見る?」
 「ふーん」
 てんで全3巻のビデオをデッキにかけると見始めたお父様の集中力がすごい。びしっと見据えたまま、お母様が食事ですよーなどと呼びにきても「うるさい!」と、相手にしない。2時間だか3時間だかの上映が終わってからやっと食事。
 そして食後。お父様が
 「おい、ちょっとやろうか」
 で、さっき見たばかりの百数十手のビデオの技を、息子相手に次々とかけていく。
 これはこうだな、これは使えない技、これはビデオではこうやっているが実戦では本当はこう使う。ぽんぽんぽんと全てを再現、実践してみせた。
 「父ちゃん、いくら親戚筋の流派とはいえ今一回見ただけの技をこんなことができるんだ?」
 「なに、ビデオも8mmもない昔はみんなそうやって覚えたもんだ。おまえこそなんでできん」
 70歳を越えた老人である。その辺の爺さんだと今食べた飯の献立さえ忘れかねない。いや、そもそも40歳の息子を八百長抜きで延々投げ飛ばしまくるなど夢のまた夢。
 「まあ一回見ただけだからな、三日もすれば忘れるが、はははは」
 そういう化け物が別段道場も開かず、何食わぬ顔でリーマンをやっていたりする。
 今は亡きお爺様は正座した状態からジャンプして部屋の天井を蹴破れたそうである。お父様は「残念なながら足跡をつけるのが精一杯でなあ」。
 ちなみにお爺様は柔術ではなくもっぱら柳生の剣を極められた方だったとか。
 私の知り合いである「息子さん」本人は
 「天井にキックなんか届きゃしませんよ」
 時代は流れてゆくことよ。


その9 桑田選手(武術的身体運用法)  (2003 03 07)

 随分以前から、プロ野球の桑田真澄選手が武術家の甲野善紀さんのアドバイスを元に、日本の古武術を応用した新しい投球フォームを駆使しているとマスコミ各社が取り上げていた。今更私ごときが触れるまでもないこと(有名なので)と思っていたが、先日、読売新聞(2003年2月22日夕刊)に掲載された桑田投手へのインタビュー記事が、武術の一面に関して非常に簡潔に言い表しているものだと思い、今更ながらではあるが一部を引用させていただくことにした。

 一般的に、野球指導者や評論家が勧めるのは、こんな投げ方だ。まず上半身をひねり、ぎりぎりまでためを作って、ボールを離す瞬間にそのエネルギーを爆発させる。しかし、桑田はそんな「ねじり」や「ひねり」が必要ないという。
 「今の僕の投球を見れば分かると思うけど。全然力んでない。ボールを離すまでの腕の振りは皆遊びなんです。どういう風にしてもよくて、最後に最大の力を出せればいい」
 その「最後」に、力を総動員するテクニックが古武術だという。
 「体全体が共同作業をするんです。例えば上り坂で車が渋滞していると。前がすべて見渡せる。信号が青になり、最初の車が行った、次が行った、行った、行った、でずーっと続いて自分の車の番になる。でも、そうじゃなくて青になった瞬間に全部の車が一斉に出るイメージ。ドミノだったら、一つずつバタバタバタって倒れていくんじゃなく、何万個のドミノがバンと同時に倒れるイメージ。足も腕も、体全部が一緒にワッと動く。それがこれまでの投げ方だと、力が、足に来て、ひざ、腰、肩、ひじ、手首と順番に来て、最後にボールに伝わる」
 瞬間的に体の力を総動員する、新たな当方は不思議な効果をもたらした。球速は変わらないのに、打者が次々とバットを折る。タイミングが取りづらいのだ。
 (中略)
 「・・・人間は(中略)予測できないことに関してはすごくもろいんです」

 いささか長い引用になって恐縮であるが、これは武術における実際の闘いでも言えることである。
 一般の格闘技やそれらを見慣れた人の頭にある動きは、ここでいうところの「従来の投法」にほかならず、伝統武術(形骸化していない)の実戦の身体運用法は桑田選手言うところの全身同時協調である。
 私がそれらを漫画で描写すると「『ため』がないので迫力がない」「つまらない」と思われる読者も少なくないようだが、それはそういうものなので、それを「おいしい」と思うか「まずい」と思うかはもう読む人の好みとしか言いようがない。
 少なくとも、人が威力を出す方法は、一般の人が思っているような「従来どおりの身体運用法」にのみ存在するものではなく、まして命がかかった戦いの場においては、後者のそれこそが生への道であると思うのである。


その10 武術に前置きなし  (2003 03 14)

 前項とも少し関係ある話である。
 武術に「前置き」は要らない。前置きって何だ?と思われるだろうが、要するに
 「これから私は攻撃しますよ、これから技を出しますよ」
 という「そぶり」のことである。
 以前武道雑誌でどなたかが伝統的な武術とスポーツの違いについての記事で、スポーツは観客に「アピール」することを求められるが武術は逆であると書いておられた(月刊空手道の新垣という方の連載だったように思うが今手元になく、未確認である)。日本の古い表現で「色に出る」といった言い方がある。攻撃する前から「色に出」てしまっては、相手に気づかれて対応される。いつ動くか攻撃するか、動いていてもどれが攻撃でいつ衝撃がくるのかなど、まったく予兆なしであった方が有利なのだ。

 簡単な例では構えた状態から出すパンチを、前に出した手から出すか後ろに引いた手から出すか。普通の人は、威力のあるパンチは後ろに引いて構えた拳、言うなれば「タメた」状態からのパンチに限ると思う。ところが中国の南拳などでは前に出した心持ち軽く曲げた状態の腕から、ちゃんと威力のあるパンチを出す。「その7」で触れた「尺勁」などもその一つと言えるだろう。ブルース・リーもこれを使う。この距離からなぜこんな威力のものが?と、初めて打たれた者は驚愕する。きちんと物理的理由はあり、けしてオカルティックなものではない。あくまで体の使い方である。タメているように見えないということと、実際にパワーをタメているか否かは別の問題なのである。
 この「前に出した手からのパンチ」については、昔うちにいたストリートファイト大好き青年のアシスタントX君を、南拳の心得のある武術関係者に引き合わせた際、実際に体験してもらいいくつかアドバイスもしていただいた。それまでは、高校時代の空手部やケンカでの経験を元に闘っていたX君、前に出した手からのパンチはあくまで牽制程度の威力しか出せないと思っていたのが、以来思わぬ威力のタメなしパンチを習得してすっかり気に入り、実戦でも使って重宝するようになった。
 これなどは「前置きのない攻撃」の初歩的な例であるが、武術にはもっともっと奥があり、様々な段階でのそれが存在している。

 ちなみに桑田投手の項でも触れた「従来どおりのスポーツ的な投げ方」は、タメがある上にパワーの伝わっていく流れが明確で、武術的にはバレバレな動きになってしまうわけだ。

 X君を引き合わせた某氏の学んだ南拳は、相手の攻撃に接触した状態、パン!と接点を取ってからの反応が実に見事で多彩な武術であった。けして天下の名人とか言う人ではなく、あくまで「修行中の身」という方であったが、お互いの右手(左手でもいい)を接触させて構えた状態から打ち合わせ抜きで思い切り両手のパンチを何十発くりだしても、触れている腕の感覚だけでこちらを見もせずに片手で全てをさばいてしまう。映画『○トリックス』のクライマックスで主人公が見せるあの動き。あれをこともなげに目の前でやられるのである(あんなコマ落としの「早送り」ではないが)(笑)。蛇足であるがあの映画、私には全然「来ない」作品であった。理由はここでは書かないが、駄目押しにあんなもの見せられても「別にこういう人知り合いにいるし、そもそも武術の世界じゃ常識じゃん」てなもんで、なんの感動も興奮もない。今更これかい、てなもんであった。
 で、本題はここからである。
 その某氏が言うにはだ。
 この○○拳のセオリーは、相手がガッと受けたりパンとはじいてくれたりする通常の格闘技や拳法相手には通用する。しかし例えば太極拳の名人などには全く通用しないのだ、と。
 なぜか。
 受けたりはじいたりしないからである。
 後日、太極拳を使う人と触れ合って得心がいった。
 攻撃に対して、まったくどこから触れ合ってどこからさばかれているのかわからない。すーっとフェイドインで入られるため、反応し対応するきっかけが掴めない。気が付いたときは天地がひっくり返されていたりする。途中できちんと抱きとめてもらったからいいようなものの、実戦でやられたら死ぬなと思った。いや、誤解されては困るのであえて付け加えるが、公園やテレビでおじさんやおばさんがゆーっくり練習している「健康体操」のスピードで思い浮かべないでいただきたい。ちゃんとまともなスピードのパンチやキックに対応できる素早さで、である。すーっと、と言うより「すっ」と言うべきか。
 これなども一種の「前置き」のない武術であろう。
 見ている人もやられている本人も「今、受けた!」「これがタメだ!」「これが攻撃だ!」とかが判別つかない。あれえええっ???と言う感じで気が付くとやられている。私にはたまらなく「おもしろい」のだが、つまらないと思う人には本当につまらないようである。

 お客は、ことに日本人は「タメ」や「前置き」が好きである。
 相撲の立会いの前もそうだし、野球だってそうだ。
 これから起こるであろう興奮の一瞬に向かって、少しずつ「盛り上がっていく」感覚をお客は楽しむ。そして「ここだーっ!」という瞬間を共有するのである。
 今でこそサッカーがあれほどに市民権を獲得しているが、昔はその「タメ」や「前置き」のなさ(相撲や野球と比べての話だが)ゆえに、日本では定着しにくいのではないかと言う人もいたくらいだ。
 プロレスにも「タメ」や「前置き」がふんだんにある。お客を楽しませるためである。
 武術にはそれがない。全くないわけではないが、極力ない方向を目指し、高度な武術になるほどそれがなくなる。
 あえて下品な例えをさせてもらうと、「どこで射精していいかタイミングがわからないエロビデオ」みたいなものを客は味わうことになる。
 私の武術漫画の殺陣を、とことん嫌う(中には馬鹿呼ばわりさえする)人が存在するのもむべなるかなである。
 でも私はわざとやっているのだ。だってそれが「素敵」だから。それこそが「伝えたい、表現したいもの」だから。いや、あくまで「武術漫画」の場合である。
 一般のお客様にも楽しんでいただける殺陣を描くために、最近はあまり達人を出さない。主人公はあくまでちょいと気のきいた闘い上手くらいに初期設定を留めておく。そうすれば、誰が見てもわかるアクションが展開される。めでたしめでたし(と口で笑って心で泣いて、いつか描きたや武術モノ)。


その11  常識と非常識  (2003 05 15)

 人間「常識」はわきまえておいた方がいい。のは無論なのであるが、問題なのはなんでもかんでも「常識」で測ってしまい、自分の限られた知識、自分の身の回りの狭い「常識」にのみ囚われて、ものごとの実際の姿を見誤ってしまう場合がある。
 今回はそんなお話。
 「武術」は、ともすると「オカルト」に次いで「トンデモ」な情報が紛れ込みやすいジャンルである。
 そもそも達人というのは言ってみれば「非常識」な技術や才能を持った人々であり、現存する人でさえ「ニセモノ」「ホンモノ」玉石混交、まして歴史上の達人ともなると実際にそんな凄い腕前だったのかタダの伝説だったのか100%証明しろと言われてもしようがない。
 まあ今回はそこまで遠い話ではないのでご安心を。

 I書店の「図書」という雑誌がある。
 いろんな識者が思い思いのエッセイを掲載している小冊子で、時々おもしろい記事があって私はけっこう好きなのであるが、ある時この本にKという某大学の先生が書いていた。1997年の12月号。タイトルは「英国武道考」。
 内容はと言うと、そのK氏がイギリスに行ったとき、あちらでオリエンタルな文化、中でも「武術」の講座や研究クラブなどがあり、なんだか見たこともない技をかけあっているのを見た。そこでK先生、その人たちに
 「日本には『武術』という用語はとっくに死語になっており(中略)現在それに代って『武道』という用語があるが、それも通例、『古武道』というふうに使われている。つまり『術(ART)』という用語が『道(WAY)』に替られたのだった。」
 といったような説明をしたが
 「これは、もしかしたら、余計なお世話だったかもしれない、と今でも思っている」
 と書いていた。
 本当に余計なおせっかいである。あるばかりか、狭い見識で世の中をわかったような顔をする半可通の教養人の典型であり、考え違いも甚だしい。
 K氏の言っていることは現実のほんの一面に過ぎず、今でも日本には何人もの「武術」伝承者、修行者がおり、道場もあれば大会も開かれ専門誌もあったりする。けして歴史の波に呑まれて消滅してしまった存在ではないのである。にもかかわらず氏は、その間違った前提に始まって長々と数ページにわたり自分の限られた知識をペダンチックに披露に及び(ホームズのバリツとか新渡部稲造の『武士道』とか今更珍しくもない)最後にご丁寧に
 「それにしても、すでにわが国には、その技と用語も残っていない『武術』が、イギリスで生きているとは、不思議と言うべきか、嬉しいような、淋しいようなとても複雑な気持である」
 とエッセイを結んでいる。
 ししし氏ねこの馬鹿たれ。
 あまりのことに思わず抗議の手紙の一通も出したくなったがやめた。時間と体力の無駄である。
 このセンセイの専門はスペイン史らしいが、その道ではそれなりの識者なのかも知れない。知れないが自分の門外なジャンルについて、ろくに調べもせず延々と己の無知ぶりを公の誌面で披露に及ぶ、愚かと言うほかはない。
 この手の縮小版みたいな人物は世の中に多い。
 昔私が『セイバーキャッツ』という武術漫画を描いた時、ある中年とおぼしき男性から手紙が来た。内容はと言うと
 「うちの中学生の息子があんたの漫画にかぶれて困っている。「ナンバ歩き」とはなんだ。昔の日本人がそんな歩き方をしていたとは思えない。あれはあんたの創作か。広辞苑にも載っていない」
 といったふうなもので、それがいかにも「漫画家がデタラメを書きやがって」なタカビーな物言いで書き連ねてあった。ここで怒っても大人気ない(多分あちらの方が年上だろうが)(笑)と思い、あの作品は私なりに取材を重ねて描いたものであり手と足が同じサイドで動く「ナンバ歩き」(と言っても大きく手を振るわけではないが)もかくかくの資料があってこのような説をこのような人々が唱えておられますと丁重に返事を出したのであるが、ついになしのつぶてであった。
 こういう事件に出くわすと私は、何か少なからぬ脱力感にとらわれ、思わず天を仰いでしまう。
 この人の「常識」というのはこの程度か、と言うか、物事の真偽を判断するのが「広辞苑」に掲載されているか否か止まり、というのがいかにも見識の狭い常識人していて嫌である。こういうやつらが良識派づらして世の中をダメにしているのだ、などと思わず拳を握り締めてしまう。ぎりぎりぎり、まあおちつけオレ。
 このサイトをお読みの皆様、どうか常識をお忘れなきように、と同時に常識の枷にも囚われませんように。山本心よりお祈り申し上げます。


その12 アーニス・エスクリマ・カリ (2003 06 05)

 なんじゃそら、と思われる方も多いと思う。
 これはフィリピンの武術の名称である。英語で書くとARNIS−ESCRIMA−KARI。私が聞いた感じでは「イ」スクリマと発音されていたよう思うのだが、日本では「イ」でなく「エ」スクリマと訳すほうが普通のようである(検索かけるとどうもそのよう);
 一般にはカリというのが通りがいいかもしれない。それぞれ3とおりの異なった流儀なのか本来一つのもののパートを表す言葉なのか浅学にして知らない。
 中国の武術と同様に素手から武器を使っての戦闘法まで全てを含む。
 私がこれと出会ったのはもう10年以上前のことである。
 若い頃自分で海外に渡ってそのシステムを学んできたという方(皆伝というレベルではないが)とお会いしていろいろ技を見せていただき、基本の動きを教えていただいた。その後は自分でも資料の収集に務め、今日に至っている。
 私の描く剣技の大半はこのシステムにのっとっており、拙著『剣の国のアーニス』のヒロインの名前はこれに由来する。
 この武術の特筆すべき点は「即習性」が高いことがまず上げられる。
 いじめられっ子がどうしても仕返ししてやりたいと夏休み死ぬ気で特訓すればかなりの確率で思いがとげられるだろう(中国武術、特に北派などではそうはいかない)。
 基本の動きはワンツースリーの3拍子で構成されている。
 相手から来た攻撃を「払う」「掴む」「攻撃する」これを両手を使って行う。例えば右手で「払う」左手で「掴む」右手で「攻撃する」といった具合である。といってもトロトロと「いちにーさん」とやるわけでなく機関銃のように「パララッ」と素早く動くのであるが。
 非常によくできたシステムで私見であるが純粋にフィリピンで生まれたものと言うよりも中国の南派武術の影響などもあるように思う。片手に棒を持って行なった訓練が素手にも剣にも応用でき、しかも両手に武器を持って動く際にまで(棒であろうが剣であろうが)使うことが出来、最終的にはヌンチャク(現地ではタバック・トヨックと言うようだが)にまで発展させられる。
 日本の柔道などは、それ自体はよくできたシステムであっても「突き蹴り」や「武器術」には応用できず、一から他のシステムを学び直さなくてはならない。
 対して中国の武術は「突き蹴り」も「投げ」も「武器術」も一つのシステムで応用できるようになっているものが多い。このフィリピンのアーニス・イスクリマ・カリもそうである。
 一般の人には馴染みがないだろうが、かのブルース・リーもこれを自分の創設したジークンドーに取り入れているのは業界では周知の事実であり、現在それを学ぶ人は必修科目の一つのはずである。
 映画『燃えよドラゴン』で、リーが短い二本の棒を持ってマシンガンのように敵を殴るシーン、あれなどはこのシステムそのものと言っていい。
 アメリカにはこの武術の道場がたくさんあり、軍の格闘術に取り入れられていたり、ハリウッド映画などにも多く登場している。簡単なちょい役、派手な動きを見せるだけのやられ役も多いが、最近ではトミー・リー・ジョーンズ主演の『ハンテッド』が、見世物色を極力排してシリアスなバトルを展開している。おそらくもっともきちんとカリの闘法を見せた作品の一つではあるまいか。
 蛇足であるが映画に出てくるガイジンが日本刀を本来の使い方とは無関係にぶんぶん振り回していたりするのは、カリのシステムを大げさに使っている場合が少なくない。

 蛇足をもう一つ。
 私は下戸である。フーゾク系も興味がない。
 昔、出版社のパーティの二次会でフィリピン人女性の多くいるお店に行った時のこと。手持ち無沙汰だった私は、女性たちにはしから聞いて歩いた。
 「故郷でカリやアーニス、イスクリマをおやりになっているお知り合いはいませんか」
 女性達は変な顔をした。知らないと言う。
 「フィリピノ・スティック・ファイティングなんですが」
 すると一人の女性が
 「ああ、わたしのおじいさんやっていたよ」
 と言って両手を動かして見せた。そのしぐさがいかにも、あのシステムを見たことのあるシロウトがマネをしたとしか思えない動きで、私はおお!と身を乗り出した。
 「おじいさんとても強かったね」
 「お父さんはやってないんですか」
 「やってないよ」
 どこの国でも伝統武術は衰退の一途にあるようだ。実際くだんの道場は発祥の地フィリピン本国よりもアメリカのほうが現在は多いくらいだとも言う。
 しかしわずかながらも残っているのも事実であり、10年くらい前だったろうか、知り合いが見た「フィリピンで刺殺された日本人の死体」の傷口が、カリのシステムで攻撃するポイントともろに一致していた例もある。
 また数年前アメリカでアーニスを学んだという人と会って、そのシステムを見せて(いくつかは技をかけて)いただいた。その人もカリやイスクリマとの相違点はわからないという話だったが、微妙に見たことのない技が含まれていてなかなか興味深かった。

 よくできたシステムとは書いたが、無論カリにはカリの弱点もある。
 その辺はまたおいおい作品の中で描いていきたい。

補足 (2004 07 12)

 この項についてある方よりメールをいただいた。
 その中で
 「当方は、1994〜97年、マニラに在住しましたが、リサールパークに日曜の朝行けば、3〜4チームほどが常に練習していました。チームごとに特色があり、武術色の強いところとスポーツ色が強いところがあります。また、後者のスポーツ競技化の進んだ、Modern Arnisに関しては、結構、全国に活動を展開しているようです。なので、純粋な武術として細々生き残っているというのは、少々、事実と異なると思います」
 とのご指摘をいただいた。
 大変貴重な情報、心より感謝いたします。
 と同時に、本国でもまだそのように盛んであると聞いて、とてもうれしく思いました。


武術のこと V へ続く

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