山本貴嗣の原点

武部本一郎(たけべもといちろう)のこと

(2003 06 24)


 武部本一郎は画家である。
 武部などと呼び捨てで書いているが私にとっては大先生、大画伯、雲の上の御人である。
 20世紀の初頭に生まれ1980年に亡くなった。
 詳しい履歴は割愛するが、私が子供の頃、多くのSF小説のイラストを見事なタッチで描きまくり、この目を楽しませてくださった稀代のイラストレーターであった。

 この「あつじ屋」サイトの他のページで触れた私の原点、バローズの「火星シリーズ」もハワードの「コナン・シリーズ」も、多くが画伯の手によるものであった。
 ローティーンの私がそれらの作品群に一目で惹きつけられたのは、そのイラストあってのことである。

 火星や金星、異世界や超古代に生きるうるわしい美女たち、たくましい戦士たち、怪しい魔道士、異形のモンスターから不思議な飛行艇まで、ありとあらゆるものを画伯は描いた。そしてどれもが素晴らしかった。
 火星シリーズの翻訳家、厚木淳氏のインタビュー記事に、当時武部氏はSFなど読んだことも無く「初体験」であの絵を描いたとあったように思うが、事実とすれば恐るべきセンスである。武部画伯以外にもそれらのイラストを描いた人は何人もいたが、どれも画伯には及ばなかった。少なくとも日本においては、他の絵描きを何馬身も引き離した独走態勢だったと思う。
 バローズやハワードのカヴァーを描いた絵描きは海外ではかのフランク・フラゼッタを始め様々な名人がおり、ある部分では武部画伯を凌駕しているとは思うが、こと火星のプリンセス・デジャー・ソリスを始めとする乙女達に関しては、私は武部画伯に軍配を上げる。
 武部画伯を凌ぐ技術や画力を持った人は他にもいるし、これからもまた出るだろう。しかしあの人の描く絵。そこにいるキャラクターたちに漂うなんと言うか独特の「品」とでも言うもの。あれは誰にもマネできまい。あれは、あの人ならではのもの。
 知り合いのイラストレーター今井修司氏が
 「あれは武部さんの「品格」ですよ」
 と言ったが実に言いえて妙である。誰にも継承することの出来ないあの人独自の輝きを持った、唯一無二の絵描きさんであったと私は思う。

 先日、30代の友人と話していたら、画伯の原画展に同行した20代の知り合いが
 「変な絵ですね」
 と言ったという。
 人の好みは様々であるが「変な絵」とはまた失礼な言である。
 前述の今井氏はその話を聞いて
 「最近の若い人は美術における一般教養というものがないから、ああいう『面で物体を捉えて塗っていくスタイル』が奇異に見えるのかも知れませんね」
 と分析した。
 漫画やアニメしかふだん目にせず、そこから間を飛ばして3DCGに行ってしまう。他の絵画の知識が無い。そんな基本も知らない人間に絵を論じる資格は無い。知らないことは仕方がないがそんならそれで黙ってろ、口をきくなと言いたくなる。
 80年代くらいからか「感性を大事にしよう」などという美名に隠れて、知性よりも感覚ばかりを優先する教育が一部にはびこったが、その弊害の一端かもしれない。
 右脳礼賛の記事がもてはやされたのも同じ頃だったか記憶は定かではないが、脳は左右使ってこその脳であり、どちらが優れてどちらが劣るというようなものではないと私は思う。片側だけ使って描くのも見るのも愚かしい事ではあるまいか。
 画伯の絵が完全無欠などと言う気はない。私はいわゆる「信者」ではないので、無条件に礼賛する気はないし、実際気になる点は子どもの頃からあった。ただそれを補ってあまりある魅力があったのである。
 「古い」
 という意見も聞く。
 一理ある。
 しかしいかなる物も時の流れと共に移ろっていくのがこの世の定め。古今東西どんな名画でも時の隔たりを感じさせないものはない。しかし「古い」がどうした?
 必ずしも「新しい」=「良い」ではないことは高度成長期の公害を始め、最新科学が必ずしも世界に恩恵ばかりをもたらすわけではない事を見ても明らかである。
 古かろうと新しかろうと良いものは良いしダメなものはダメである。
 新しくないとフラグが立たないというのは、見識の狭い愚か者の感覚である。
 高校時代、私はドラクロアの絵画をオカズに「かいた」こともある。「かいた」のは無論絵ではない。昔のものでも「来る」ものは「来る」のだ。
 私憤に駆られ、いささか話が脱線したが、
 武部本一郎よ永遠なれ。
 画伯の果たされた功績は、日本SF絵画史上になお燦然と輝いている。


 武部画伯のイラストに興味を持たれた方は下記のサイト、長田秀樹氏の
 「エドガー・ライス・バローズのSF冒険世界へようこそ!
 をご覧になるといい(タイトル文字をクリック)。おススメである。リンクをお許しいただいた長田氏に感謝!


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