田万川地区資料


<西堂寺六角堂>
曹洞宗西堂寺の六角堂は山口県指定の文化財。
西堂寺の創建当時の釣鐘に応永3年と(1396年)とあった。この地方の小川地
区の鍋山長者の妻 妙清尼の建立。使用人七五郎との叶わぬ恋のために江崎湾に入
水した娘お菊を漁師総出で網で探していたとき恵比寿岬で網に掛かった地蔵をお菊
の化身として祀った。六角堂に仕立てられたのは元禄9年1696年再建時に須佐
大工のてによると考えられる。この地方ではこの話を聞いた毛利の殿様が飛騨から
大工を呼び寄せ六角堂を普請したと言い伝えられている。六角堂とその傍の石割の
松、それに恵比寿岬にその時できたと言われる浮島の話は人々の間で今でも語り継
がれている。8月24・25日は地蔵まつり。子育て地蔵と親しまれている。

飴女房

                     (田万川町役場ホームページより)
             (地元の人は一度は聞いた事がある むかしばなし)

昔、昔のある日のこと、江崎からそれほど遠くない石州美濃郡高津村の砂浜の墓地
                       で、赤子の泣き声がしました。
それからというもの、毎晩きまったころに飴を買いに来る女がいるのです。不思議
に思って飴やの爺がその後をつけてゆき墓場まで来るとその女はふっと消えてしま
いました。その近くで赤子の泣き声がするのです。飴屋の爺は寺男にいって墓を掘
りおこしました。するとオギャア、オギャア、オギャア、お棺の中には生まれたば
かりの赤子が、死んだ母親に抱かれていました。寺男はその赤子を抱き上げ 「赤子
は立派に育ててやるのでのう」 というと、母親は今まであげていた首をうなだれ安
                         らかな眠りにつきました。
その後、この赤子は村の庄屋さんで育てるよりお寺に頼むほうが良いということに
なり、その村の教西寺に預けられました。赤子は寺の住職 義うん の養子として
育てられ、立派に成長して村人に崇められました。そして石見の国の邑智に住む芳
淑院厳善もとへ預けられ、仏学・論語・易学等、学問の奥義を身につけた後、有名
な博多の龍華校の曇龍師のもとでさらに学問をつずけました。その後、育ててくれ
た庄屋の宮内家の世話で、江崎の教専寺の第十代目住職として入寺し、大厳和上と
                                なりました
天保十二年七月、教専寺の庫裡から出火し、本堂を全焼しましたが、ご本尊は辛う
じて持ち出しました。和上の母は生前、いつも変わりごとの予知をする霊力のよう
なものを持っていましたが、和上も神通力に似たものを持っていました。和上の出
生には妙に因縁めいた噂が流れていましたので、和上なればと人々は和上の神力
を信じるようになりました。
天保14年本堂を新築し、十五年の春、庫裡を再建し
てから和上は庫裡に引き篭もったまま出なくなってしまいました。それは当時、本
願寺に二つの学説があり、和上が説いていた説は本願寺では好まれない方の学説
であったことから、和上が自ら謹慎したのだと言われています。また、謹慎中、狐や
狸が和上のもとにやってくるので、これらを相手に説教していたともいわれています。
益田市高津の教西寺の境内に、和上ゆかりの由来石があります。
江崎の教専寺の裏に本堂再建を記念して和上の弟子たちが寄り集まって作った庭園
が、今も飴女房を語り伝えるかのように、円光山から流れ出る水に歴史をとどめて
 います。和上は安政三年、六十六才で一生をおえました。
                                 おしまい

田万川地区のおいたち

下田万の【塚穴古墳】は6世紀に作られた横穴式石室で奥行き7M、幅2.5M高さ
3Mある。須佐地古墳は5世紀らしい。
律令制下 上田万、下田万がおかれた。律令制は奈良・平安と続くが、ちなみに大
宝律令は701年、この頃か? 律令制下、山陽を結ぶ駅舎があった。
鎌倉期に入り 佐々木高綱が支配し小川関所を設ける。南北朝の争乱(1337
年)あり。1466年には大内政弘の支配、この地方の祥寿寺から大内政弘に御茶
餅を進上した記録あり1478年。戦国期の大内と陶(すえ)の内乱、そして毛利
との戦いでこの地方も乱れた。結局毛利かたの吉見氏が上田万の鹿ヶ岳城を支配
し、下田万の鰐防山城を益田氏が支配した。やがて益田景祥は下田万・江崎を支配した。
天保7年(1836年)に田万川の大水害があった。
江崎港は日本海の天然の良港として往古から阿武18郷の米の積み出し港として栄
えた。日本海の北から北前船をあやつり西周りで産物を運ぶ西廻り航路の発達によ
り長門国の玄関口として重要な拠点であった。江崎港よりの廻船として500石積
1隻をふくむ4隻をもち、須佐、宇田、木与などの5浦の海防を担当していた。西
廻りで萩・下関・瀬戸内航路も開けていた。石見からの米穀・半紙の積み出しも許
可され、津和野藩の御米蔵も設けられていた。
廻船誘致のため芝居が許可され、月次の定市も設けられた。天保年間は諸国の商船
の入港も頻繁になり、賑わいを極めていた。
明治・昭和と鉄道網が発達するにつれ江崎港の積み出し港としての役割は終わり、
漁業港として栄えた。ブリのオオシキ漁法、ハマチの養殖では草分け的存在であった。
漁獲量豊富であったイワシ、イカ、アジ等も水揚げが減少し、
特産的であったイワシの水産加工も貴重品となりつつある。最近は道の駅、
田万川温泉など陸の文化が動き始めている。

天保元年(1830年)から二年にかけて長州藩内で農民による大きな一揆があっ
た。藩の産物の藩による専売制に反対する一揆がおこり農民による特権商人・地
主・村役人・庄屋などへの焼き討ちが各所で起こった。防府市一帯から激発した一
揆は小郡・山口などに燎原の火の如く広がりその勢いは13万人余りに達し萩・江
崎にもおよんだ。但し一揆といえども統制がとれており無差別に攻撃の対象とした
訳ではなかった。江崎付近の一揆については次のような話がある。
      一揆勢がある家に攻撃をかけようとしたところ、付近の農民多数が「当家は
われわれの親方で恩恵を受けている。もし当家がつぶれてしまうと我々も餓死して
しまうから、どうしても一揆をかけると言うのなら、まず我々の家を皆つぶし、そ
の後この家を破却してくれ」 と頼んだのでその家は一揆の攻撃をまぬがれた、と記
されている (大谷家文書)。そこには一揆勢と地元農民とのあいだに共通の連帯意
識があったことをとにとることができると解釈されている。
この地方には、そう言う風土があったのかと本を読んで学習できた。
のちの高杉晋作による奇兵隊の編成の折り、庄屋・農民らの民衆の郷土防衛意識が
底辺にあり、この地方では江崎村の庄屋 田辺嘉三郎らが賛成し農兵隊を編成したと
ある。(幕末の長州より)

《縄文のロマン》
江崎より出土した丸木舟: 海洋型最古・最大級