きのう

::::過ぎ去った きのうたち::::

あしあと

     生まれは 相州横浜 在。      1944 昭和19年 4月5日 


        近代競馬場としては日本最古の根岸台が、わが生誕の地。

    
戦後すぐ進駐軍が入ってきてアメリカ陸軍工兵隊が根岸台壊して兵舎を建てた
    
おばあちゃんに背負われて、工兵隊のブルドーザーを、見に行ったよ。

     ○1948 昭和23年 ころ 伯父(親父の兄貴)の原田厳岐と養子縁組。
        養父に連れられて 山口県熊毛郡上関町八島へ
          上関の港からポンポン船で40分。瀬戸内海沖合の小さな島でした。この島に2年ほど。
           小学校長の親父の転勤で移住。

     ○1950 昭和25年 ころ  山口県熊毛郡城南村へ
           ここは、また草深い山村でした。ここも3年ほど。小学校1年まで。

学生として、くらした場所
     1951  昭和26年4月 山口県城南村立城南小学校入学

      1952  昭和27年4月 山口県佐賀村立佐賀小学校転入 
 
    ○ 山口県熊毛郡佐賀村へ移転。漁村だ。
     親父の買ってくれた伝馬船で、瀬戸内海にこぎ出す毎日
     
     1957  昭和32年3月 山口県佐賀村立佐賀小学校卒業
        
小学校5年6年で図書館の本400冊完読。

     1957  昭和32年4月 山口県佐賀村立佐賀中学校入学

        
弁論大会。生徒会長。このころが得意の絶頂だね。
         ○ 佐賀村は平生町と併合 山口県熊毛郡平生町佐賀となる
     1960  昭和35年3月 山口県平生町立佐賀中学校卒業

    ○ 1960  昭和35年4月 山口県立 熊毛南高等学校入学
      
         翌年、父親の定年退職にともなって、
         本家(母方の実家)のある光市に家を新築。山口県光市へ移転。
     1963  昭和38年3月 山口県立 熊毛南高等学校卒業
         
国語は模擬テスト県下一の成績だったこともあるけど、数学、物理は再履修。不合格ってこと。
    
    ○ 1963  昭和38年4月 私立 明治大学法学部 入学

        ○ 最初、横浜の実家より通学。
        ○ 横浜の実家のそばにアパートを借りる。独り立ちへの準備?
      
        ○ 東京都渋谷区幡ヶ谷のアパートへ。3畳一間で独立。
           
 大家さんは渋谷署の刑事さん。
               ここに英語部の同級生11人が、宴会の帰り、酔って寝た3畳の部屋だぜ。

        ○ 
その後、一時横浜の実家に帰る
        ○ 
大学3年芝居をはじめるようになって、親戚の足立区の建設会社でアルバイト
        ○ 
東京都足立区本木の姉の家(嫁ぎ先)へ居候。

        ○ 
大学4年。東京都港区麻布こうがい町の先輩宅(学生劇団主宰者)で
          六ヶ月の居候生活。書生生活ってやつだね。

        ○ 
それから東京都新宿区柏木、成子坂下のアパートへ
          
 三畳一間。南向きの窓の広い居心地のいいところ。 アパートの、その名も新星荘。
           
ここは長かった。 
           
名曲「神田川」の青春、そのものだった。
           
映画「裸の十九才」の撮影は、このアパートから始まった
     
    ○ 1967  昭和42年3月 私立 明治大学法学部 卒業
                     
                      
俳優としての足跡

     1967  昭和42年4月 劇団文学座 付属演劇研究所 入所
     1968  昭和43年3月 劇団文学座に入座 研究生となる
                       
        ○  
結婚前の1年半、東京都世田谷区経堂の
              鴎友学園という女学校のグランドを窓の外に見るアパートに。
           
北向きのアパートで、広かったけど、かび臭かった。
              引っ越しの時、タンスの裏になっていた壁にカビの花が咲いていた。
                                  
     1973  昭和48年3月 劇団文学座 退座 
     1973〜1980 俳優紹介事務所 プロデューサー・プレイヤーズ  に参加

        ○ 結婚して東京都世田谷区砧のアパートへ 
            
間取りも充分のアパート風呂のナイのが「玉に瑕」。
               偶然、映画監督の市川昆さんが大家さんだった。
        ○  ドラマで1ヶ月に渡るデンマーク・ロケ。

        ○ 子供(虎太郎)ができたので 
           東京都世田谷区成城のマンションへ。1974年のこと。

           
Gメン75

        ○ 東京都世田谷区成城の一軒家へ。
        ○ 東京都世田谷区成城で別の一軒家を借りて移転。

           1980〜1988 俳優紹介事務所 舞プロモーション  に参加
        ○ 子供の通学の利便のため東京都杉並区浜田山の一軒家へ。

     1988 12月    俳優紹介事務所 ロビンフッド・アーチスツ を四ッ谷に 設立 

    
  2002  8月    事務所を成城に移転、現在に至る

         
        ○ 料理番組「地球おいしいぞ」のMCで世界中を回る。
        ○ 中国西域の敦煌で6ヶ月撮影のため滞在。 毎日、砂漠で乗馬。

        ○ 東京都世田谷区成城に安住の地(カナ?)を定む



なに?これ・・・なにかな?











ふるさと

横浜生まれの山口県育ち。先祖は長州人。おれも、れっきとした長州人ダー!


人間至る所青山アリ。は勤王僧の月性(山口県大島の人)の讃。

男児立志出郷関      男児 こころざしをたて 郷関をいづ
学若無成不復還      学 もしなるなくんば 又還らず
埋骨何期墳墓地      骨をうずむる なんぞ 期せん 墳墓の地
人間到処有青山      人間至る処 青山あり 

そこで私も青山の志。はるばる東京へと出た。





海と伝馬船。これが俺のフルサトだ。

小学校1年生が終わった春、父は佐賀小学校に転任になった。父の大好きな海のそばだ!
父は早速、伝馬船を買ってくれた。船を造ってくれたのは飲んだくれの、それでも腕は確かな船大工だった。
高校1年の春まで船を漕いで育った。


草深い山村は明治維新のフルサト

その前、熊毛郡城南村という山村で3年ほどの時間を送っている。
維新史の中で周防の人たちがしめる割合は大きい。
第二奇兵隊(南奇兵隊)が駐屯していた、石城山(いわきさん)のふもと。
田に入れば、足にヒルが吸い付いているというありさまだった。


八島が見せる暗い過去

山口県熊毛郡上関町八島。室津半島からポンポン船で瀬戸内海の真ん中に乗り出していくと
八島が見えてくる。西北に開いた島の船着き場は、人家から離れて暗く、一度フルサト探訪で訪れたとき、
あ〜自分の中にある暗い面は、この船着き場の風景だと悟った。
 
現在山口県柳井市にあって郷里山口県の古い家並を素晴らしいタッチで描いていらっしゃる、
画家川口健治さんは私の6歳年上。八島の出身だ。




生まれたところがフルサトなのか

昭和19年、戦争もようやく負けが見え始めた4月、横浜根岸台で生まれた。
兄と姉二人。親父、お袋、おばあちゃん。小さな家に大家族だった。
昭和20年4月の東京大空襲(川崎、鶴見地区の工場の爆撃)を、防空壕の中で眺めた記憶がある。

3才上の姉(毬子)と、いつも一緒に遊んでいたらしい。
裸になるのが好きで
裸で芋畑の中を走り回っていた、というのが横浜のお袋の記憶に残っている印象。

戦争が終わると横浜にアメリカ陸軍の工兵隊が進駐してきて、
とてつもなくでっかい、緑色のブルドーザーで根岸台の競馬場を崩し始めた。
おばあちゃんの背に負われて、工事を見に行った。
カーキ色のフランネルのGIジャンパーの軍服を着た赤ら顔の兵隊がゆっくりとやってきて、
おばあちゃんと訳のわからん言葉でペラペラ喋っている。
おばあちゃんも訳のわからん言葉で、ペラペラ返事をしている。中年の兵隊はボクの顔をのぞき込んだ。

彼が、軍服の胸のポケットを不器用に叩きながら
「キョウ、チョコレートナイ・・・キョウ、チョコレートナイ・・・」
怖かった。今もその声が耳に響いている。恐ろしい思い出である。


昭和23年のことか。
横浜の親父のお兄さんが、山口県の八島という小さな島で小学校の校長をやっていた。
その人のところに養子に行くことになった。
岩国の田圃が空襲でやられて、爆弾の破裂でたこつぼみたいなタメ池が
                                        そこら中にできていた。
1年後に横浜の親父が毬子を連れて遊びに来たとき、
「オジチャン、マリコチャン」と、連発して
毬子はとてもがっかりしたらしい。
1年前までは「オネエチャン、オネエチャン」と、後を追っかけていたんだから・・・



祖父のことなど

母方の実家のある山口県光市は戦後の町村合併でできた町。
もとは、この地方に海軍工廠(人間魚雷回天)があって、その工廠を「光海軍工廠」と、呼んでいたもの。

原田家は、海軍工廠設立で、部落中がその田畑家屋敷すべて接収されて
戎町の地に移り住んでいた。

亀二郎(上の兄は早世したんだ)が家を継ぎ、百姓をやっていた。
その次男竹二郎(この人がわが祖父だ)は、青山(セイザン)の志で東京にあがり
                      美術学校(今の東京芸術大学)の1期生となった。

祖父が残した履歴書を見ると、そのころの履歴というものは、かなりハチャメチャである。
漢文、英語、数学などを、あちこちの寺子屋で修業している。
尋常小学校卒業が18才の時。その後、大坂の商業学校に入り24才の時美術学校(芸大)1期生として入学している。
美術学校を卒業して土浦の中学校教師をやっていたが
祖母のツテ(祖母の親元は海軍中将らしい)があったのだろう。
海軍に奉職し江田島の海軍兵学校で美術史や海図製作を教えたりしていたようだ。
祖父が残した履歴書は、そのとき使ったもののようだ。

祖父の志半ばに長男が死んだのだろう。祖父は相続放棄して三男の定平サンが原田を継いだ。
定平サンの長女が、イツキさんと結婚して、わが養母。いくサン。

兵学校時代の祖父の記録は、戦後すぐ焼却して兵学校には現在残っていない。
のち東京に出た祖父は、若く死んだ祖母(享年37)の跡を追うようにして、翌年逝く(享年52)。
おしどり夫婦だったんだ。
祖父は中学生をアタマとする幼い4児に心を残して死んでいった。

長子(イツキさん)は中学卒業後、山口県の本家の後見を受けて山口師範の2部(山口大学教育学部)へ進学。
本家の娘(いとこ同士)と結婚。
若くして小学校長となって、俺を養子にとった。

次男(マサキさん)は東京にのこってIBMの金銭登録機に就職していた。
やがて大東亜戦争に突入。アメリカ資本はやばいとサッサとやめてしまった。
これが俺の実の親父。

下の弟(祝平サン)は軍人になったが、体が弱くて陸軍病院で死んだ。
末は女(よし子さん)。
この人は結婚したらしいが詳しくは分からない。

嫁ぎ先で「立ってるものは、親でも使え」と、口を滑らして離縁されたらしい。
舌禍事件の家系なんだ。


できごと

2004年、ひきつづき法学部特別招聘教授を拝命。
11月の学生によるシェイクスピア『ヴェニスの商人』上演にむけて邁進。

2003年。特別招聘教授の場を法学部に移す。
明治大学にシェイクスピア研究の講座開講を上申。企画が通り来年から全学部共通の教養講座として
『シェイクスピア学』を十数名の教師によって教える手はずが整う。(コーディネーター佐藤正紀教授)。
文学部演劇学専攻に、演劇に親しむ気運の盛り上がりが見られる。


2002年。演劇学専攻の1年生に『朗読』を教え、朗読劇『夏の夜の夢』上演。
千葉県八街(ヤチマタ)高校でも朗読を教える。
明治大学社会人公開講座で『朗読』を開講。

2001年春。友人佐藤正紀教授のお手伝いということで
明治大学文学部演劇学専攻の特別招聘教授を引き受け、3年生に『朗読』を教える。
これが大成功。シェイクスピアの朗読劇『ロミオとジュリエット』上演につながる。

近過去トップのニュースは落馬事件による左膝脛骨粉砕骨折。
『猿回しのルーツを訪ねて』という番組でインド、プシュカールの峠で水牛に突っかけられたこと。
その前はGメン、船ハッチ落下事件。

新藤兼人監督の『裸の19才』で映画デビュー。その後はトントン拍子。

明治大学2年。英語劇をやって人生観が180度転換。すっかり俳優を志すことになった。

ろくな受験勉強もせずに明治大学法学部に入学。よほど試験問題と相性がよかったのだろう。
成績優秀だったらしく、1年からクラス委員。

瀬戸内海で毎日伝馬船漕ぎ。
ブリキとセメントでバーベルつくってからだづくり。

親父とよく行った、広島、原爆ドーム。宮島の厳島神社。秋吉台と秋芳洞。
それに下関の自衛隊祭り。装甲車の機関銃にとりついて離れなかった。
オレって「隠れ右翼」かも。

子供の時は「10年ぶりに村が送り出す東大型秀才」と呼ばれた。
長じてはデビューの時「10年に一人の大型新人(朝日新聞)」と書かれた。
あれは「O”型新人」の間違いだったんだろうか。ちなみにボクの血液型はO”型です。

トトー、トトーと
瀬戸内海の岩場に打ち寄せる波を、あじわって御覧。
子供心にも、「人生、決してあくせくするこたぁない」ってことが、よく分かるよ。
だから僕ら瀬戸内海育ちは、どこか悠々しているのさ。

不思議に北海道気質と合うんだ。
「なんとか、なるっしょう」・・・ね。
北海道の雪の降り方が、瀬戸内海の打ち寄せる波の具合と似ているのかもしれないね。

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