英国史

シェイクスピアに、興味を持った人たちのための英国史


ブリテン島の人々
ユーラシア大陸の東のはずれに日本があると表現すれば、大陸の西端にはイギリスがある。ブリテン島である。
日本が大昔そうであったように、イギリスももとは大陸と陸続きであったらしい。何かと共通点が多い。
ドーヴァー海峡ができたのは紀元前5000年頃といわれている。

紀元前4000年頃、この島に最初に入ってきたのは、
イベリア半島(スペイン、ポルトガル)の人々
だと考えられている。
発掘される土器や道具が同じものだからなのだろうか。誰もそんなこと、見ていたやつはいないのによくも断定したものである。
ウェールズからは、木の枠に獣の皮を張ったボートが掘り出されている。


イベリア半島からフランスのノルマンディーにかけての土地にすんでいた人々が入ってきただろうというのは、まぁ,まちがいないところである。

紀元前1000年ころ、ソールズベリーのストーンヘンジはつくられただろう。

紀元前650年頃
中央ヨーロッパ(ドイツあたり)からケルト人がヨーロッパ全土に広がって、
ブリテン島にも押し寄せてくる。ケルト人はスペイン、イタリア、トルコなどにも
その足跡を残している。

原ブリトン人とケルト人は混血してブリトン人を形づくったのだろう。
ケルト人はアイルランドからはいってきたのだろうという意見がある。アイルランド、ウエールズそしてスコットランドにはケルト人の強い形跡が残っている。
ドルイド教と呼ばれる土着の宗教は,このケルト人の宗教ではないかと考えられている。

紀元前325年ギリシャ人探検家ピュテアスがコーンウォールやケントを歩き回って、紀行文を残した。


ローマン・ブリテン
BC(紀元前)55年、シーザーが、ガリア地方に遠征してイギリスをうかがったー『がリア戦記』。 翌年、BC54年シーザーはついにイギリス侵入に成功する。
そのころのブリテン王はレックスと呼ばれていた・・・。きっと、集落ごとにレックスがいたんだろ。


ジュリアスシーザーアントニーとクレオパトラがこのころの話。

また
シンベリーンのクノベリヌス(AD5〜40のレックス・ブリトン)は、このころのブリトン人の族長の一人。

紀元61年、イケニ族の女王ボアディケア(=ブーディッカ。乱暴な女性で、ロンドンを焼き払ったりしていた)を
自殺におい込んだ、ローマ皇帝クラウディウスによってイングランドはローマに征服される

このころすでにロンドンは都市として存在していた。アテネ、スパルタ、ローマ、パリなんかもそうだ。それってすごいよね。

ローマ帝国に支配されたローマン・ブリテンは、その後4世紀くらいまで
続く
キリスト教が入ってきて、イギリス人は文明国家の恩恵に浸った。

スコットランド奥地はピクト族と呼ばれる蛮族の土地だった。
このピクト族はローマの支配を受けるのをよしとしなかったケルト人の一部族だと考えられる。

ヘイドリアン・ウォール

 紀元 130年
皇帝ハドリアヌスはイングランド中央部東岸のタイン河畔、ニューキャッスル・アポン・タインから西岸のソルウェイ湾、カーライルまで100キロあまり続く、土の壁(石垣)を造ってピクト族に対抗した。
この壁のために使った石は、やがてちゃっかり屋の近所の農夫に持ち去られて、イングランド中央部の牧草地の風よけに使われている。

 いま、イギリスをドライブしていると、まっすぐな道路にぶつかる。
沿道に古木を残して雰囲気のあるまっすぐな路がどこまでも続く。
イングランド中に、張り巡らされている。
「すべての道はローマに通ず」
ローマ軍道である。ストラットフォードのストラートもローマ軍道の意味である。

 イングランドだけではない
フランスにもベルギーにもドイツにもそしてスペインにも
ローマがヨーロッパ中にひいたローマ軍道は、「素晴らしい遺跡」としての
顔を残している。
のちにローマ皇帝アントニウスによってエジンバラからグラスゴーまで『アントニー・ウォール』が、造られた。

 「人々の心を結びつけるのは道路だ」と確信し
狂ったように道路を造って、ヨーロッパを統合しようとし、そのあげく疲弊して亡びていった。
それがローマ帝国である。


さてイングランドに戻ろう。

イングランドは、100年の長い間、バイキングの侵入を受ける。

3世紀頃からバイキングの活躍する時代が始まる。
大陸にはゲルマン民族の大移動、海には北海の荒波を乗り越えてやってきたバイキング。
金髪たちの圧力に負けて、
茶髪のローマ人は367年、ブリテン島から撤退を始めた。

デンマーク、ドイツ地方からサクソン族、アングル族、ジュート族がやってくる。
ブリトン人はウェールズやコーンウォールに閉じこめられ、海を渡って大陸に逃げ、ブルターニュ(リトル・ブリテン)地方を形成した。
リトル・ブリテンに対してイングランドをグレート・ブリテンと呼ぶようになった。

407年、ローマは完全にブリトンを放棄する。
(ただしローマ人は持ってきたものは、みんな持って帰った。日本人もピクニックの時に見習うべきである)

キリスト教徒に改宗したケルト人である「アーサー王伝説」はこのころのものだ。



520年 セヴン・ヘプターキー


6世紀になると、侵略者たちによって
ケント・サセックス・エセックス・
ウェセックス(南)・ノーサンブリア・
東アングリア・マーシア(中部)

の7王国が成立。
セヴン・ヘプターキーという。

最初はケント(ジュート族)が強大で、
ブレトワルダ(大王)エセルバードは最初の法典を作った。
東アングリア(東アングル族)、ノーサンブリア(アングル族。大王エドウィンがエジンバラをつくった)、マーシャ(アングル族)、ウェセックス(西サクソン族)と11世紀半ばまで
7王国の、ときどきの勢いに応じてイギリスの統治者は変わった。

エセックスは東サクソン族、サセックスはサクソン族である。

悲劇の老王 リア王はこのころなんじゃないかな。

9世紀になるとデーン人の侵入が始まり東アングリア、ノーサンブリア、マーシャは亡ぼされた。


北からやってきたデーン人と東方から来たキリスト教

596年、聖アウグスティヌスが、キリスト教ひっさげてローマからやってくる。

750頃 ウェセックスのブレトワルダ、エグバード治世の頃、ノルウエーからバイキングがスコットランド北部から南下。
デンマークからは、デーン人がイングランド東部をおそう。

このころを描いたシェイクスピアの戯曲
デンマークの王子、ハムレットイギリスはデンマークの属国扱いだ

871年、ウェセックスのアルフレッド大王、ウェドモアの講和条約
イングランドの半分はデーン人のもの

899年(一説に901年)アルフレッド大王死去
アルフレッドの息子エドワード長兄王とその息子アセルスタンによってデーン人駆逐。

ノルマンディーに逃げたデーン人は再びイングランドに押し寄せる。
975年、無策王エセルレッドが、デーン人を征討するも失敗。初めて税金を徴収してこれをデーン人に与える。
1002年、デーン人を大虐殺。
1013年、デーン王スウエイン・フォークビアード反撃。エセルレッド亡命。
1014年スウエイン死去。スウエインの第二子クヌート、エセルレッドの妻と結婚。
全スカンジナビア領とイギリスの王になる。


良王クヌートは四太守(ノーサンブリアと東アングルはデーン人太守、マーシアとウェセックスはイングランド人)を定めてから
国政がおかしくなった。

1042年 エセルレッドの息子エドワード懺悔王(クヌートの妻の子)が後継者となった。
エドワードはウェセックス伯(太守)ハロルドの助けを借りて国を統一するも、統治権をハロルドに奪われる。

エドワードの従兄弟、ウイリアム征服王、ノルマンデイから攻め込む


そして、スコットランドの王位簒奪者マクベスは、どうやらこのころだね。

マクベス スコットランド王1040〜1057
シェイクスピアの戯曲と違ってダンカンは強情な男。しかも若いんだ。24才から6年間王位にあってマクベスに殺された。
マクベスは、なんと安定した国をつくった、いい王様だった。
イングランドで成長した、ダンカンの息子(マルカム3世=乱暴、野卑、大酒のみ)に殺されたんだけど、
マルカム3世はアングロサクソン族の王女マーガレットと結婚してイングランドの統治権も持とうとしたが、
そのころすでに
イングランドではノルマン・コンクエスト(ノルマンの征服)が成就していた。



これに至るまでの歴史上の人々

◎ 女王ブーディッカ (古代ブリテン)
◎ ローマ皇帝ヘイドリアン (ローマン・ブリテン)
◎ アルフレッド大王 (アングロ・サクソン)
◎ ヴィリアム一世 (ノーマン・ブリテン)




1066年 征服王ウイリアム1世 封建制を始める

強力にして巨大な男 ウイリアム 】 @  血塗られたイギリス王室の壮大な叙事詩の幕開けだ
ドウムズデイ・ブック(土地台帳)を制定。フランス語をイギリスに持ち込む

アングロサクソンの太守から土地を取り上げ、ノルマンの家来たちに分け与える。
家来たちはノルマンの騎士に転貸し。騎士たちはサクソン人の小作人を使って土地を耕した。

ロビンフッドはこのころの物語だ。


1087年、ウイリアム死去


ウイリアムに3人の男の子
ロバート、ルーファス、ヘンリー。このパターンが多いんだよ。イギリス王室。
特徴的なのは、兄弟がみんな王様になりたがる

さてウイリアムは死ぬ前に
ロバートにノルマンディーを統治させ、
ルーファス(赤毛という意味のラテン語)にイギリスを与えた。

だから第2代のイングランド王は【ルーファス】Aヘンリーはルーファス兄さんの居候で一緒に生活していた。

それで13年後、フランス・ノルマンディーのロバートがイングランドも自分のものにと
攻め寄せてきた1100年のこと、森の中で赤毛のルーファスが変死した。狐狩りしてたんだって・・・。
一緒に狩りをしていたヘンリーが王位をつぎ【ヘンリー1世】B

ヘンリーは攻め寄せたロバートをなんとか懐柔。
やがてロバートをだまして地下牢に幽閉。
ロバートは長生きしちゃったもんだから苦悩も倍増だったろう。28年間も閉じこめられてたらしいぞ。80歳まで生きてロバート獄死。
このヘンリーオジサンのまがまがしい血なんだなぁ。イギリス王室に延々とつながっているのは。

1135年の内乱

親父、征服王ウイリアムの奥さんがマチルダという名前だった。
ところが
ヘンリー1世の奥さんもマチルダ。二人の間に娘ができたのだが、その名を、マチルダ。・・・ナンデ!???!
他に名前つける気、なかったの?
バーさんマチルダ、母さんマチルダ、娘マチルダ・・・。

娘マチルダが結婚したんだけど、結婚相手はすぐに死んだので、
ヘンリー1世は
ノルマンディーのお隣の国アンジューの殿様、ジェフリー・プランタジネット・フルク・オブ・アンジュー
結婚させちゃった。

ノルマンディーはロバートからいただいたから、アンジューもいただいちゃおうというわけ。

ジェフリーくん、まだ15歳になったばかりで、結婚相手のマチルダよりもちろん年下。
それでも夫婦円満に暮らしましたとさ。年の差なんて・・・ね。 

そのころフランス王の統治権の及ぶ地域はそんなに大きくなかった。
アンジュー、ノルマンディーはそれぞれ大公が治めていたんだ。
もっともアンジュー公もノルマンディー公も、それからフランス国王もみんなプランタジネット家なんだからね。

それで、
ヘンリー1世の娘マチルダとアンジューの殿様ジェフリーとの間に
子供ができてこれがやっぱりヘンリー。
それでこの子が、ヘンリー2世になっていくわけよ。

ヘンリー1世と、その孫のヘンリー2世の間にヘンリー1世の甥、スティーブンが王位継承者の列にはいってくる。

ヘンリー2世はフランス育ち。
フランス王ルイ7世の奥さん、アキテーヌのアリエノールと不倫して、
彼女のこととても気に入ったもんだから、そのまま結婚しちまった。
ルイ7世怒ったの、怒らなかったの・・・。・・・どっちだい?

1135年、ヘンリー1世が死んだとき
 甥のスティーヴン
「オジサンが死の床で『あとのことはおまえに任せる』と、耳打ちしてくれたよ。だから、ボクが王様」と主張、
王位簒奪。【スティーブンC

「なに言ってンのよー。聞いたことないわよ。そんなはずナイでしょ!!!」と、
ヘンリーの娘マチルダがこれに反対して、戦争になる。
マチルダの大きなお尻にジェフリーもヘンリーも敷かれっぱなしで、言いなり・・・。
よっぽど、体重のある怖い女だったんだぜ。

やがてジェフリーは死に、息子のヘンリーが戦争を受け継ぐ。これが1135年の内乱。
例の、ヘンリー2世に妻をとられたフランス国王ルイ7世はこのときとばかりスティーヴンに味方。

12世紀のイギリス王位争奪の、この戦争は
アンジュー、ノルマンディー対フランスの戦いでもあったね。

ところで全然関係ない話。・:・・1140イギリスで初めてスパイスや胡椒が使われたらしいよ。


いつまでも戦っていられない。19年後、ヘンリーとスティーヴンの間に約束が成立した。
ウエストミンスター条約(又はウインチェスター条約=1153)
スティーヴンの王位はこのままで、スティーヴンが死んだらヘンリーが王位につく。ってもの。
やって見りゃ、うまくいくもんだ。ヘンリー大喜び。1年後にスティーヴンは死亡しちまったんだから。
え?ヘンリーをうたがえって?ま〜ね。

【ヘンリー2世】
D即位。1154〜1189フランス西部とイングランドの国王となる。

オールズ・ウエル・ザッツ・エンヅ・ウエルってやつかぁ。

州長官制度取りやめ。裁判中央集中。
アイルランド攻め。
トマス・ベケットとの確執
このとき殺されたベケットはのちにヘンリー8世に墓から掘り出されて、ふたたび裁判にかけられる。

もう一度関係ない話を聞いてチョーダイ
1180初めてガラス窓が使われるようになった。
この知識、なにかの足しになるかもね。

1185オックスフォード大学創立。頼朝が幕府を開く7年も前だぜ。


さて
ヘンリー2世には4人の子があった。2人の子は、早く死んでしまって
残ったのが
長男の「勇気で親切」獅子心王リチャード
「残酷臆病な」末っ子のジョン。


リチャード1世】E(1189〜1199)は、評判のいい王様だったけど
王位にあった10年間、イギリスをほったらかして、アラブの王様サラディンを相手に十字軍活動。
留守だったから評判よかったのか。「亭主元気で、留守がいい」ってか。
今のイラクあたりでサラディンと戦っていたリチャード、
アイルランドの一部を治めていたジョンがイングランドに帰ってきて反乱を起こしたと聞いて、
イギリスに引き返そうとして、
ドイツ(そのころドイツって国はなかったけどね)を通りすぎようとしたとき、
捕虜になっちゃった。だって、アラブからイングランドに帰るのにドイツを回るってのは、かなりな道草だぜ。
リチャードは捕縛され300ポンドの身代金で、ようやく帰国。狂言でしょうって?
ジョンはリチャードの帰国を聞いてすぐにおとなしくなった。
その後
フランスの領土を保全するため出兵したところで、フランス軍の石弓に殺される。


マグナ・カルタ

ジョン王
1199〜
1216 リチャードがフランスで死んだので、弟の【ジョン】Fが王位につく。
       1203、ジョンはリチャードの子アーサーを殺した。これがジョン王の数々の失敗の始まり。
       このため国が乱れ、イギリスはフランス領の大半を失う。
       ジョンは失地王、酷税王と評判すこぶる悪く。教会税のとりすぎで教会にも破門される。
       1215貴族に反乱を起こされロンドンを占拠される。
       なんて王様だよ。
       貴族たちに強要されて
マグナカルタを認めさせられた。
               
  ジョン王
という戯曲が、この時代を書いている話さ

そう、そう
1209ケンブリッジ大学創立。オックスフォードに遅れること24年。それでもボートは強いよ。

1216 貴族たちはジョンの治世に反対。フランスの【ルイ王子】Gを呼んできて王位にすわらせる。


     やがてジョンは死ぬが内乱は続いている。
     ジョンの息子ヘンリー(9歳)がヘンリー3世Hとなる。
     ヘンリー3世は成長すると戦争上手になった。
     「トンビがタカを生んだ」ってやつ。

     この人の奥さんが、またアリエノール。
     懲りないんだねぇ。おじいちゃんヘンリーの奥さんもアリエノールだったじゃないか。
     ヘンリーは奥さんの親戚を高官にする。
     これには貴族たち猛反対。でも、ヘンリー3世、戦争が強いからねぇ。

    ヘンリー3世の息子が二人。エドモンドとエドワード。
    エドモンドは子供時分にシシリー島を貰った。
    これは昔ノルマンディー公が所有していたものを、ヘンリーがローマ教皇から安堵されたものだが、
    まずいことに、この時この島にはローマ皇帝フレデリックの息子が住んでいた。
    この島を
    征服するのに金がかかりすぎて議会はヘンリーから軍隊を動かす権限を取り上げる。

     内乱になって、シモン・ド・モンフォールが実権を奪ったのさ。

     王位を継いだのはエドワード。
1272年 イーヴシャムの戦いでヘンリーの息子エドワードが、シモンをバラバラにしてしまう。
     エドモンドは結局役立たずだったのさ。
     エドワードは【エドワード1世】Iとなって国を継ぐ。
     エドワード1世の国粋主義。羊毛税。ウエールズのケルト人レヴェリン誅殺。

1290年 めがねが発明される。

1305年 エドワード、スコットランドに侵入
       ウイリアム・ウォレスを絞首刑に。ブルースのロバート、フランスと結んでスコットランド王となる。

1307   戦乱にあけ戦乱にくれたエドワード1世、68歳にして遠征先カーライルで戦死。
       息子はエドワード2世J。これはできそこない。
       ピアズ・ギャビストンとヒュー・ディスペンサーという二人の不良と組んで国費をさんざん無駄遣い。
       腰巾着の二人はついに殺され
       貴族たちが政府をのっとった。

     
 スコットランドでブルースのロバートがイギリス北部に反撃ののろし。
       1314バノックバーンの戦い
       イングランド軍の名将ヘンリー・ド・ブーンを、斧で真っ向唐竹割り。

1322    エドワード2世の反撃。
        スコットランド貴族を駆逐する。ところが翌年反撃される。

1327年  失意のエドワード2世退位。

       王妃がボーイフレンドと語らって古井戸に閉じこめてエドワードを殺した。とんでもない女だ。
       でも、殺される方も、殺される方だよね。
       
       息子、15歳のエドワード3世】K登場。
       この男、戦争好き。仮装大会や、馬上試合に明け暮れた。

     ◎ジョンの息子が9才で王様になって、この人がヘンリー3世。
     ここまでのヘンリーはずーっとおじいちゃんの名前を孫が継ぐという法則を続けた。
     例のマチルダたちに見習わせてやりたいね。

       それはいいけど3人のエドワードがそれぞれ戦争好きだったもんだからイギリスはずーと戦争状態。
       お金が、かかるんだよ。戦争って。


1337年 フランスとの百年戦争 始まる。

    
 やがてエドワード3世に二人の息子
     黒太子
(黒い鎧を着ていた)と、ジョン・オブ・ゴーントが生まれた
    
 エドワード3世は黒太子を連れて、フランスに出兵。
      最初の20年を勝ち進む。ただし財政的にはイングランド破綻。


1348年 黒死病 ペスト 蔓延

         
イギリス人の半分(200万人)が死んだ。  真っ黒になって死んでいく。


      1377フランスにワイト島を奪われる。
      黒太子は戦死、
      エドワード3世はぼけが始まり、後妻のアリス・ペラーズの言いなり。

      黒太子の弟ジョン・オブ・ゴーントが政治の実権を掌握した。

      イギリスはカレーをのぞくフランス領のことごとくを放棄。
      ジョン・オブ・ゴーントは公爵制度を作ってランカスター公爵になった。ランカスター王朝の始祖。

1377  黒太子(ブラック・プリンス)の10歳の息子リトル・リチャードの即位。
       これが【リチャード2世Lだ。
       1世は・・・ジョン王の兄貴、獅子心王リチャードだぜ。
                
シェイクスピアの リチャード2世   読んでみてね。

      リチャード2世は
       叔父さんのジョン・オブ・ゴーントの差し金で人頭税をとってフランスとの戦争続行。
       民衆に恨まれたんだね。
       税金取り立ての役人が
、リチャード2世の身代わりとなって各地で火あぶりにされたり、首を切られたりした。

1381年  
 ケント州のワット・タイラーの乱
       群衆蜂起。指導者ワット、みんなでワッと、ロンドンに押し寄せ、放火、略奪、乱暴のかぎり。
    
  国王と交渉の席で、ロンドン市長がワットを刺し殺す。
       ワットはワッと叫んで死んでいった。

     ◎リチャード2世は男色趣味で有名。ボヘミアのアンと結婚したが子供はできなかった。

     請願卿って知ってる? 
          ランカスター公爵ゴーントのジョンの息子がヘンリー。
          ヘンリー(ボリングブルック)は     
          グロスター公と組んで請願卿と呼ばれるグループを作り、
          リチャード2世のゲイ仲間を一人残らず追放するよう迫った。
     
     一度はいうことを聞いたリチャード
     9年後、仲間を引き連れて議会に乗り込み、形勢を逆転した。
     な、なんと。グロスター公を絞め殺し、ヘンリーを追放
     ゲイもやるじゃん!
     叔父ゴーントのジョンが死ぬと、リチャードは広大なランカスター領を奪ってしまった。
      
     リチャード2世は、あまり人望の高い国王ではなかったとみえる。
     議会に乗り込んだ仲間が次々に離反。彼らは
     領土を取り返そうと、追放の地から帰ってきたヘンリーの軍に
     参加していった。

     リチャード2世は王冠を取り上げられ、ロンドン塔に投獄され殺された。
     その後、
     正装のまま香油づけになって公開され、
     ウエストミンスター寺院に葬られたという。

1399 ヘンリーは【ヘンリー4世】Mとして即位(王朝にヘンリーが8人もいるんだからね)。
     この人のおじいさんはエドワード(法則が崩れた)!。
     でもエドワード3世の孫ということはリチャード2世と対等の血筋だってことだね。


 
1400年 ジェフ・チョーサーの『カンタベリー物語が書かれた
       
 
シェイクスピアの生まれる164年前のことだね

     さて
     ヘンリー4世を王位につけたのはパーシー卿だ。
     
     このパーシー一族(北国の殿様)
     ヘンリー・パーシーJr(ホット・スパー=燃える拍車)、ウスター伯トマス・パーシー、
     ノーサンバーランド伯ヘンリー・パーシーたちが、
     やがてヨーク大司教たちと組んで反乱を起こす。
     「彼が王位につけたのは、俺たちのおかげだ」なんて考えてるからね、最初から反乱の芽はあったわけさ
 

     王位についてもヘンリー4世は憂鬱だったらしいね。
     それで
     シュールズベリーの戦いでノーサンバーランド公ヘンリー・パーシーと戦って
     ヘンリー・ホットスパーをなぶり殺し・・・。
     フランスとの戦いは、しばらくやめて国中走り回って戦争していたって。

1413年
 ハル王子が【ヘンリー5世Nとなって即位フランスと戦ってアザンクールの戦いに勝利。
     そのころフランス王はシャルル6世(気違いシャルル)。
     ヘンリー5世はこの王様の娘と結婚して
     フランスの摂政(王様に代わって政治したわけだ)になったが、35才で変な病気(どんな?)にかかって死ンじまったって。


      ヘンリー4世 第1部
パーシーの謀反とシュールズベリーの戦い)フォルスタッフの活躍。1596−97

     謀反人、ホット・スパーは北国出身だから、イギリスの舞台でも北国訛りで演じるのが普通さ。
     日本ならさしずめ東北弁だぜ。岩手訛りってとこかなぁ。
     2幕3場の奥さんのパーシー夫人も、ホットスパーの父親ノーサンバーランド公も東北弁、喋らせるといいだろうね。

     謀反人とはいっても3人の主役の一人(他の二人はハル王子、フォルスタッフ)だからね。悪者で演じちゃダメだよ。
     ハル王子(ロイヤル・プロディカル=放蕩王子)というのはのちのヘンリー5世。
     フォルスタッフ達と組んでどうしようもないワルだったのが、すっかり改心。

     フォルスタッフは郷士なんだけど、いいとこも、悪いとこも庶民の代表だね。
     すっごいふとってて生命力の固まり。
     これ観たエリザベスが「あのものを主役にして演じさせよ」と一声。
     それで『ウインザーの陽気な女房たち』が生まれたっていう、いわくつきの役さ。

     ホットスパーの待ちうけるシュールズベリーの戦いに臨む。
     5幕1場に歩兵隊長フォルスタッフの「名誉の演説(オナー・スピーチ)」と呼ばれる名ぜりふがあるよ。  
     戦場を探し回った二人の若武者は、ついに遭遇。ハルがホットスパーを倒す。
     ここは『マクベス』でも同じ手法をとってるね。

     それから、戦場で死んだフリをして倒れていたフォルスタッフの件りが、さんざん客を楽しませる。

     最後にヘンリー4世が観客に向かって
     「今日のところはうまくことが運んだが、われらが完全勝利のその日まで、見捨てずやってゆこうぞよ」と、念を押し
     続編のあることを予感させるセリフで幕となる。

        ヘンリー4世 第2部
ノーサンバランド伯、ヨーク大司教の蜂起とヘンリー5世の即位1598 か

     幕あきに口上役が登場するが、その名も「流言」ホットスパーが勝利したという嘘の情報。
     ロンドンでは少し老けたフォルスタッフが相も変わらずの軽口。
     猪首亭の女将クイックリーと結婚の約束。うまく手なずけ、軍資金を調達する。

     今回はフォルスタッフとその仲間の独り舞台。猪首亭を舞台にピストルとの間で大立ち回りだ。
     それから王位簒奪者としてのヘンリー4世の苦悩。今回王を助けるのはウオリック伯だ。
     ヨークシャー、ゴールトリーの森に
     ヨーク大司教、 VS ジョン王子の戦いの幕は切っておとされた。
     ノーサンバーランド伯は結局、ヨーク大司教に参戦しなかった。

     第1部のような派手な決戦はない。今回は心理戦である。
     第4幕第1場、第2場で 戦場における使者(ウエストマランド伯)の駆け引きが繰り広げられる。

     ハルの弟ランカスター公ジョンは、なかなかの策士。
     ヨーク大司教、モーブレー卿を大逆罪のかどで
     ヘイスティングス卿を反逆罪のかどで、武装解除させた上で逮捕する。

     病床のヘンリー4世は事件解決の朗報を聞くが、容態が急変して悪化する。
     ハルがやってきて雄弁に自己弁護する。二人は和解する。

     新王ヘンリー5世が誕生する。
     昔ハルを投獄したことを後悔しながらも、理路整然と法の公明正大を説く法院長を、
     ハルは自分の「指南役」に指名する。
     フォルスタッフはシャロー判事の元におもむき、ヘンリー4世の崩御を知る。
     ロンドンの戴冠式に出てみると仲間は次々と逮捕されフリート監獄に送られ、
     ハルにはシカとされるのだった。

     口上役が出てきて、今回の芝居がつたなかったことを詫び、
     フォールスタッフの登場する続編の近いことを告げる。

     ただし、『ヘンリー5世』の中ではフォルスタッフの死が噂されるだけだった。
     やがて『ウィンザーの陽気な女房たち』で、フォルスタッフは甦る。

        
ヘンリー5世()      



さてイギリス史に戻ろう

1422年
ヘンリー5世の子供、【ヘンリー6世】O生後9ヶ月で即位。
本人には、なにがなんだか分からないままに戴冠式。
しかも、おかあさんはフランス王の娘だからね。イギリス、フランス両国、ふたつの王冠だ。

イングランドの旗の下になることを嫌ったフランス人たちの一部は抵抗を続けていた。

ジャンヌ・ダーク出現
フランス軍、イギリス軍を駆逐。

1455年 

バラ戦争。
ヘンリー6世(エドワード3世曾孫の子)の妻、マーガレット(このあたりの時期は、このマーガレットという名前が幅を利かすんだ)が
ランカスター派(ジョン・オブ・ゴーントから始まったんだよ)と組んで赤いバラ。
ヨーク公(リチャード・プランタジネット=エドワード3世の曾孫)やウォリック伯たちは白いバラ。


        へンリー6世 第1部
()





        ヘンリー6世 第2部





        ヘンリー6世 第3部
()






ヘンリー4世1399-1413から
ヘンリー5世1413-22、
そしてヘンリー6世1422-61はめでたし、めでたし。名前は父から子への世襲だ
ね。

1461年

赤いバラの象徴、ヘンリー6世(エドワード3世曾孫の子ども=赤)も、もうおじいさん。
ヨーク公(エドワード3世曾孫=白)が殺されて戦争も一段落。
この戦争、白バラ組が最終的な勝ちを収める。

ヨークの息子エドワードがヨーク公を継いで、
ついでに王位簒奪。
これが【エドワード4世】P1461-70
エドワード3世の曾孫の子だから、血統的にはヘンリー6世と同列。

1470年、ヘンリー6世Qが王冠を奪い返す。

翌年再び王冠はエドワード4世R1471-83のものとなる。タウトンの戦い
ヘンリーはロンドン塔で殺される。

エドワードに、味方だったはずのウォリック伯が、ヘンリー6世の妃マーガレットと組んでエドワードに挑戦する。バーネットの戦い 
エドワードが勝って、ウォリックは死に、マーガレットはフランスへ逃亡する。

エドワード4世が死ぬと、
幼い【エドワード5世】S1483が12才で即位する。

エドワード4世の弟グロスター公リチャード(背中に大きなこぶがあった)が摂政となる。

エドワード5世とその弟をロンドン塔に閉じこめた。
リチャードは自分の兄さんもロンドン塔に送り、王位を簒奪。
リチャード3世】(征服王ウイリアムから数えて21代)となった。

エドワードの姉エリザベスは、
リッチモンド伯ヘンリー(エドワード3世の曾孫の子)と結婚していたので
リチャードに復讐を誓う。
ボズワースの戦いでリチャードの首をちょんぎった。
 
このリッチモンド伯ヘンリーが
チューダー朝の始祖、【ヘンリー7世】(22代)である。
白バラと赤バラがひとつになって、近世が始まる。



        
リチャード3世()










近世の始まり・・・火薬の発明・・・大航海時代

    ヘンリー7世は子供たちを政治的に利用しようとした。

    
娘をスコットランド王ジェームズ2世の息子と結婚させる。
     息子アーサーにスペイン王の娘アラゴンのキャサリンをあてがう。

     当時スコットランドはフランス領だったからフランスとも親戚になる。
     スペインのアルマダ(無敵艦隊)は世界一の海軍力とされていた。
     スペインとも仲良くなれる。

    
ところが大事なところでとんだ計算狂い。
     アーサーは結婚したあと、すぐに死んでしまった。
     あわてて弟のヘンリーにキャサリンをあてがう。こいつがヘンリー8世さ。
       
    
1502年 
     ヘンリー7世崩御。ヘンリーは【ヘンリー8世】(23代)として即位。

    
スポーツマン、音楽家、詩人の国王誕生。
     征服王ウイリアムに一番似ているかもしれないと噂されるほどの
     勇壮な体格。もう、とんでもない大男。

     ヨーク大司教、大金持ちの枢機卿トーマス・ウルジーに乗せられて
     大海軍づくりにいそしむ。

     スペイン王の娘、アラゴンのキャサリンは5人の王女を生んだが育ったのはメアリー一人だった。
     1509年、キャサリンと離婚しようとしてローマ教皇の反対にあう。
     離婚に反対したフィッシャー司教、トーマス・モア卿の首をはね
     教皇との交渉に失敗したウルジーをロンドン塔に送り
     トーマス・クロムウェル(17世紀の清教徒はオリバー・クロムウェル)を登用した。

     教皇はヘンリーを破門、ヘンリーかまわず「宗教改革だ」と、うそぶいて英国教会の強化に専念した。

     キャサリンと離婚して、その侍女だったアン・ブリーンと結婚
    1533年 エリザベスが生まれた。

     ヘンリーはアン・ブリーンの男性関係を疑ってボーイ・フレンド共々アンの首を切る。

     1536年、今度はジェイン・シーモア
     これはうまく男の子を生んだが産んだ途端に死んでしまう。「産後の肥立ちが悪くって・・・」ってやつだな。

     1540年、「フランドルの雌馬」と謳われたアン・オブ・グレースと結婚しようとして破談。
     それが原因でクロムウェルは処刑された。

     女官キャサリン・ハワードにも思いをかけるが、キャサリンは賢すぎて王の不興を買い首を切られる。

     1543年、病気のせいで、ヨイヨイだったが、キャサリン・パーと結婚。
     1547年、長の患いが元で、56才の生涯を閉じる。 

        ヘンリー8世
()






        1547年、9才のエドワードが【エドワード6世】(24代)となる。
        サマーセット伯(筋金入りのプロテスタント)とトーマス・クランマーが補佐したが国庫は破綻。
        サマーセットから相談役を引き継いだノーサンバーランド公によると
        金はプロテスタントの教会にしか残っていない。
        教会を擁護したうえで、金を巻き上げた。

     ノーサンバーランドは息子のダドリーをレディ・ジェーン・グレイの夫にしたうえで 
     病弱のエドワードにレディ・ジェーン・グレイにすべてを遺贈するという遺言状を書かせた。

     1553年、エドワードは死に、レディ・ジェーン・グレイが女王になった。【ジェーン・グレイ】(25代)
     ジェーンが女王だったのは9日間。
     すぐに夫ダドリーと共にロンドン塔に送られた。
   
     メアリー・チューダーが呼び戻されて女王になった。【メアリー1世】(26代)
     メアリーはカソリックだったから、レディ・ジェーンとダドリーを処刑。
     スペイン王フェリペ2世と結婚したり、
     オックスフォードの司教ラティマーを始め、
     プロテスタント教徒を片っ端から火あぶりにしたりやりたい放題。
        
     1558年5年間の治世ののち、42才で死亡。ん?誰か薬を調合した?

1558年

     25才のエリザベスが担ぎ出された。 【エリザベス1世】 (27代)
     美人じゃなくてガリガリの赤毛。
     本当にめちゃくちゃになってしまったイギリスを引き継いで
     エリザベスは10年ほどで国を立て直した。小泉!竹中!見習えよ!
        
     徒弟制度を始め、
     貧民救済制度で貧しいものを助け、
     貿易と工業がやたら大きくなり、イギリスは立ち直った。


     1567年、フランシス・ドレイク(28才)サー・ジョン・ホーキンスと新世界探検に旅立つ。

     従姉妹の元スコットランド女王メアリー・スチュアート、夫を爆弾で殺させたかどで追放。
     息子のジェームズ6世を、スコットランドに残したままメアリーはイングランドに逃げ込んだ。

     1587年、エリザベスはメアリーの首をばっさり。
     このときシェイクスピア、23才。

1588年 無敵艦隊撃破        

       どうも、このメアリーの処刑が動機だったんだろうか。スペインの無敵艦隊が動き出した。
       私掠船(海賊)船長 ドレイク、カディスのスペイン船を焼き払って、英雄になる。

       アルマダは72隻の船を失ってスペインに逃げ帰った。

     エリザベスのお気に入りはエセックス伯サー・ウォルター・ローリー
     エセックスはアイルランド遠征に失敗して、不興を買い1601年、大逆事件を起こす。

     ぬかるみに自分のマントを敷いて女王を渡らせ、アメリカからたばこを持ち帰った
     ローリー卿は
     エリザベスの死後、悪運尽きて1606年ロンドン塔に送られ
     1618年死刑になった。

     1603年エリザベスが死ぬと(なにしろ処女王だったから)、
     跡を継ぐのはスコットランド王ジェイムズ6世(37才)だということになった。
     ジェイムズの父ジェイムズ5世は
     ジョン・オブ・ゴーントから流れを組むヘンリー7世の孫(エリザベスもそうだ)。
     ジェイムズ5世のおばあさまのエリザベス(ヘンリー7世の妻)は、
     エドワード4世の娘だったから血としてはこっちの方が正統だったかも。
     ともかく
     おとなしく4つの国の王様になった、ジェイムズ6世は
     イングランド王として【ジェームズ1世】(28代)と改名した。
     このジェイムズにも男色傾向があったみたい。


          ガイ・フォークス事件
             1605年、
           英国教会、カソリック、ピューリタン(プロテスタント)は、ずーっと言い争ってきた。
           カソリックのガイ・フォークスが国会議事堂を爆弾で吹き飛ばそうとして逮捕された。


シェイクスピア死後の英国の歴史もかいま見ておこう。

          1620年、
             ん・・・、シェイクスピアが死んで4年目。
            ジェイムズに改宗を迫られた清教徒(ピューリタン)がメイ・フラワー号でアメリカに逃げた。
           彼らはアメリカのヴァージニアに行きたかったんだ。 
           ずっと北の方についたので、そこをニュー・イングランドと名付けた。

             (ヴァージニアってのは分かるよね。処女王エリザベスのことだぜ
              アトランタのあるジョージア州は1732年ジョージ2世の植民許可から、
              カロライナ州はチャールズ1世のラテン名、カロルスにちなんでるんだって。
              キャンプ・デービットのあるメリーランド州は、チャールズ1世からこの土地を貰ったボルチモア男爵が
              王姫ヘンリエッタ・メリアを記念してつけたんだと。この州は合衆国高級官僚の住宅地。
              ルイジアナ州はフランスの太陽王ルイ14世にちなむんだってさ

           

     つぎの【チャールズ1世】(29代)1625−1649の御代。ついにピューリタン革命が起きて国王廃位だよ。



     

     護国卿オリバー・クロムウェルの登場。イギリス共和制1649−1660

        
クロムウェルが指揮したニュー・モデル・アーミー。人民軍。奇兵隊みたいなもんだ。

          1646年。チャールズ1世廃位。
          議会はオリバーに王位につくようにとの議案を提出したが
          クロムウェルはイングランド、スコットランド、アイルランド及び植民地連合国家護国卿に就任。
          王様の権限を持ちながら、王位簒奪はしなかった。
     
           1558年、オリバーが死ぬと息子のリチャードが新護民官に就任。
           9ヶ月で辞任。
           スコットランド軍司令官モンクがロンドン入り。

           そのあと押しで
     
1660年、チャールズ2世(30代)1660ー1685が復位    王政復古
            (1651年に一度、チャールズはスコットランドで即位式をやっていた)。

             フランス帰りの王様

     
   
          1665年、ペスト発生。ロンドン人口の5分の1が死亡。
            ロビンソン・クルーソーの作者サミュエル・デュフォーがこのころのロンドンのペストのことを書いている。

          1666年 オランダとの間で戦争
          1668年 デンマーク、スエーデンとのプロテスタント三国協定で議会から80万ポンド
          1670年 フランス、ルイ14世とのドーヴァー条約(チャールスはイギリスをカソリックに戻したかった)で
            50万ポンドを手に入れる。

           チャールズは弟ヨーク公ジェイムズの娘メアリーと、オランダのオレンジ公ウイリアムとを結婚させた。

          議会に二大政党   民権派(シャフツベリー):地方党→ホイッグ党
                       騎士派(ダンビー):宮廷党→トーリー党                       
           チャールズはホイッグ党の横暴を許しトーリー党が自然に立ち上がるようにし向けた。 


    ジェイムズ2世(31代)は、チャールズの弟。1685−1702 カソリック教徒。
           トーリー党の忠誠に支えられたが、ホイッグは地下で革命の準備にいそしんだ。
           チャールズの庶子、モンマス公が王位継承を主張してイングランド西部に蜂起。セッジムーアの激戦

           高齢のジェイムズに王子が生まれたため、カソリックが恒久的なものになることをおそれた
          貴族たちは
1688年オレンジ公ウイリァムを担ぎ出した。
           ジェイムズはフランスに亡命。

          
1689年 ウイリアム3世(32代)メアリー2世(32代)の共同統治による名誉革命。
           
               
 権利章典   議会制立憲君主国成立。  イギリス王政の事実上の終焉




          その後の王朝の推移もちょっとふれておこう。

           アイルランドのカソリックによるジェイムズ支持派を鎮圧。
           英蘭西奥連合軍の対仏戦争 1697年ルイ14世との間にライスウイックの和約。   

           1694年イングランド銀行発足

           1699年ウイリアム・ダンビアによるオーストラリア探検 

    アン王女の即位(33代)1702−1714
           親友モールバラ夫人の夫、モールバラ公爵(ホイッグ党)による摂政


           1707年スコットランドのイングランドからの分離独立の動きに対応して、スコットランド統合(大ブリテン連合王国)
          
           スペイン継承戦争 ルイ14世が自分の孫をスペイン国王につけようとしたのを阻止する連合軍
           夫人が女王の寵愛を失ってモールバラ失脚。トーリー党のボーリングブルックが和平を目指す。

                  1713年 
ユトレヒト平和条約   イギリスの植民地拡大  

           1714年 アンに跡継ぎなく突然死去。
           ドイツハノーヴァー選挙候だったジョージ【粗野で愚か、ドイツ語しかしゃべらない】
     ジョージ1世(34代)1714−1727 :ジェイムズ1世の孫ソフィア・ドロティアの息子:が即位。

           ホイッグ党が政権を握り繁栄した。

    ジョージ1世の子、ジョージ2世(35代)1727−1760、まだまだ満足な英語は喋らない。
           
イギリス、プロイセン対オーストリア、ロシア、フランスの7年戦争。ケベック奪取

     ジョージ2世の子ジョージ3世(36代)1760−1820ようやく英語を喋る王様が生まれた。

           1769フランス、キュニョの自動車(実用化は1802)


           1775−1783 アメリカ独立戦争
           1789フランス革命 バスチーユ襲撃ルイ16世処刑
           1793英仏戦争でナポレオン・ボナパルト台頭
           1796イタリア進軍、その後クーデターで皇帝となる。法典を定める。
           
           1802アミアン条約 イギリス、オランダ、フランス及びスペイン間で結ばれた。翌年、戦争再発。
           1802、重量2トンの蒸気自動車の発明。蒸気汽船のクライド河試験走行。

           1810ジョージ3世精神に異常をきたし息子ジョージ4世がプリンス・リージェント(摂政)として就任。

           1812アメリカ合衆国イギリスに宣戦布告。カナダ攻撃失敗で講和(1814)。以後両国は蜜月となる。

           1814ナポレオン、エルバ島に引退。 
           ナポレオンと対決したのは首相ピット。とオーストリア軍ロシア軍プロイセン軍。
           ナポレオン軍を撃破したのはネルソン提督(トラファルガーの海戦)。
           そしてスペイン半島でフランス軍と戦ったウェリントン公爵。

           何よりの味方はロシアの雪嵐。
           1815ナポレオン再起し、ワーテルローの決戦。ウエリントンに敗北する。

           1821ナポレオン、セント・ヘレナで没す。


     ジョージ3世の子ジョージ4世(37代)1820−1830

           容姿端麗。社交界の鬼。
           社会は失業者。貧困。革命思想。


       
    
 ジョージ4世の弟ウイリアム4世(38代)1830−1837   

           1830年代 鉄道

     
そしてヴィクトリア女王18才で即位(39代)1837−1901
          
 
           1837バーミンガムとリヴァプール、マンチェスター間に鉄道。蒸気自動車、乗合自動車の発明。
産業革命
           1840アルバート・オブ・コバーク(プリンス・コンソート)との結婚

           チャーチスト運動(普通選挙法要求)

           新聞発行、歴史家輩出。
           テニスン、ブラウニング、チャールズ・ディッケンズ、トマス・ハーディ、バーナード・ショー
           1859チャールズ・ダーウイン種の起源



           1854ー1856
クリミア戦争  イギリス、フランス対ロシア
           1857  セポイ(傭兵連隊)の乱

           1860年代 伊藤博文、井上馨などがイギリスの秘密留学したのがこのころだ。

           1867カナダがイギリスの旗の元に
           オーストラリア、ニュージーランド、ビルマ、アフリカ諸国など相次ぐ

           1899ボーア戦争

           



     ヴィクトリアの息子エドワード7世(40代) 1901−1910

     エドワード7世の息子ジョージ5世(41代)1910−1936

          
 第1次世界大戦
           1919ヴェルサイユ講和会議

     1936年ジョージ5世の子エドワード8世(42代)  アメリカのシンプソン夫人との恋。退位。

     エドワード8世の弟アルバートがジョージ6世として即位(43代)1936−1952 

           
第2次世界大戦
           
           1950ー1953 朝鮮戦争勃発

     ジョージ6世の娘 
エリザベス2世 (44代)即位1952ー、夫エディンバラ公

           1955チャーチル引退
          

           
英連邦の崩壊

           スエズ紛争

           ビートルズ、
           テディ(エドワード)・ボーイ:エドワード時代風の細ズボン、長上着、細タイの不良
           ツイッギーのミニスカート 
           1969ベルファストのアイルランド紛争

           1979年 マーガレット・サッチャー、首相になる

           
フォークランド紛争

           1981チャールズ皇太子とダイアナ・スペンサーの結婚 
           1986次男ヨーク公アンドルーとセーラの結婚

           
ダイアナ妃の悲劇










                                           トップページに戻る