その後、5才になって小学校長をしていた親父の転勤で、城南という山村に移りました。 
       
      当時山口県熊毛郡城南村。今では熊毛郡田布施町宿井。 
      幕末には血の気の多い若者が第2奇兵隊をつくって、その本部を置いたいわき山。 
      その東側の中腹に静かにたたずむ山奥のひなびた片田舎。 
       
      田んぼに囲まれた小高い土地におやじの借りた借家は立っていました。 
      Tさんという富農の離れの納屋を改造して校長住宅にしたものでした。 
       
      大家さんのところは2歳年上の男の子、妹、弟と、結構子沢山でした。 
      Tさんの親戚は近所に多く、遊び友達は事欠きませんでした。納屋の土間に船型を描いて海賊船ごっこにふけったものでした。 
       
      家から畑のあぜ道をしばらく歩いた奥のところにNという家がありました。この家はTさんの親戚ではありません。 
      Nさんのところは僕と同い年の女の子とその子の3歳上のお兄ちゃん、5歳上のおねぇちゃんが居て、 
      この家にもよく遊びに行きました。 
       
      ある日遊んでいると、お兄ちゃんが「だいちゃん、風呂の湯加減みてくれーや」。 
      その当時山口県ではどこの家でも五右衛門風呂でした。五右衛門をかまゆでにしたという鋳物の風呂おけ。 
      底板というのをふんずけて入ります。 
      『膝栗毛』で底板を知らなかった弥次さんが下駄で入って釜の底を踏み抜いたといいますが、なんの五右衛門風呂は踏み抜けません。 
       
      釜の底に底板押さえのための三本の鉄の角が出ています。 
      湯加減を見ようと風呂のふたをとってみたら、なんということでしょう。風呂にはほとんど水が入っていなかったので、 
      いまやもうもうと湯気を立てたお湯が煮立っていたのです。 
       
      横浜からもらわれてきたのが3歳のときです。 
      城南に住んでいたのは5歳から7歳まででしたからね、親父もお袋も、 
      この子に「横浜に帰りたい」といわせたくないという一心でわがままいっぱいに育てたんだそうです。 
      ほとんど家事仕事を手伝ったことなく育てられた僕のことですから、お湯が足りないのだなんて知りませんでした。 
      ただ底のほうにお湯があるんだから、手を伸ばさなきゃ届かないなと素直に考えたわけです。 
       
      手をいっぱいに伸ばしてもまだ届かない、もうちょっと伸ばさなきゃ、もうちょっと・・・ 
      それから体がずるずると滑り始めた時の感覚は今でも鮮明に覚えています。 
       
      かなり長い時間滑って、突然ガツンと顔面に激痛が走りました。 
      例の底板を引っ掛けるための角が、右目の下の頬骨に食い込んだのです。 
       
      この傷は縫わずにそのままで直しました。強烈な涙で直したというべきでしょうか。 
      田舎のことですから 
      傷跡を修正できるような器用な外科医は居なかったのです。 
       
      今50年の歳月が過ぎてようやく目立たなくなっています。 
      
  
                                             2002年6月1日(土)14:09  大二郎 
       
       
       
       
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