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思い出の片隅に…
「ただいまー。」
珍しく家には誰もいなかった。僕の声がむなしく家の中に響いた。今日も一日忙しかった。バイトがあったせいか、疲れはすでにピークに達していた。靴を脱ぎ捨て、部屋の電気もつけずにベッドに倒れこんだ。後はもう何も考えることはなかった。
(ああ、まだコギトの原稿ができていないんだった…。早く仕上げないと……。)
* * *
…コンコン…
ドアをたたく音がする。
(誰だ?こんな時間に…)
不思議に思いながらもドアを開けると、そこには小さな女の子がニコニコしながら僕を見上げていた。
「どうしたの?何か用??」
「えーとね、なんて言ったらいいのかな…」と、少女はすばやく僕の手を引っ張っていた。
「とりあえず、あそこの公園まで一緒にきて。」
(何なんだ、この子は…)
そう思いながら、僕は手を引っ張られて公園へと走っていった。
公園についてベンチに座った。気づかなかったけど、夜もずいぶん冷えてきたんだな…。
「はい、どーぞ。」
少女は僕の目の前で手を広げて見せた。その小さな手のひらにはあめ玉がのっている。
「これは?」
「お兄さんにあげる。」
僕はあめ玉を口の中にほうりこんだ。そのときだった。
味が口の中に広がったとき、不思議な感覚に包まれた。
「このあめ玉はね、今まで自分が気づいていなかったものを気づかせるものなの。」
少女は続けた。
「瞳を閉じるとよくわかるよ。」
言われたとおりに、僕は瞳を閉じた。すると、なにやら見覚えのある顔が浮かんできた。
(この人たちは…)
そう、間違いなく僕が今まで会ってきた人たちだった。そして、次から次へと知っている顔が出てきては通り過ぎていく。でも、誰も僕の前で立ち止まってはくれなかった。
「みんな、どうして……どうして誰も僕に気づいてくれないんだ!」
僕はいつしか叫んでいた。だけど、ひとつだけ思い当たることがあった。
もしかすると、僕は今までその場限りの付き合いしかしていなかったのかもしれない。でも、今更それを知ったところで、僕にはどうすることもできなかった。相手に印象を残すことなく距離は開いていってしまったのだから。僕は愕然とした。もうこれ以上見ていられなかった。悔しかった。そして目からこぼれるものがあった。
しばらくして、一人の女性が僕の目の前で立ち止まった。僕は顔をあげた。
「君は……」
「お兄さん、なにか気づいた?」
少女は笑顔で聞いてきた。
「ああ、自分に欠けているもの、自分の嫌なところ…、全部分かった気がするよ。だけど、最後に出てきた人が誰なのか分からないんだ。」
「よかったぁ。その気づいたこと、絶対に忘れないでね。じゃあね、お兄さん!」
少女は走っていってしまった。
「そうだ、最後に立ち止まった人って、きっとお兄さんの印象が一番ある人だよっ!」
少女は去り際に振り返ってさけんだ。
「待って!君はいったい何者なんだ!!」
僕は追いかけていた…はずだった。
* * *
気がつくと、僕はベッドの上にいた。時間は……帰ってきてから30分も経っていない。
(なんだ、夢だったのか…)
僕は髪をかきながら、水を飲みに部屋を出た。
そのときの僕は、机の上にあるものにはまったく気づいていなかった。机の上には、あのあめ玉と、一枚の紙が置かれていた。そして月明かりが紙を照らしたとき、紙にうっすらと文字が浮かび上がった。そこにはこう書かれていた。
“一分一秒の想い出を大切に…”
先日、10年近くの付き合いのある友人からメールが届きました。そのメールには、ただひとこと「そんなもののために生まれてきたんじゃない」と書かれてあった。彼の真意はまったくわかりません。でも、僕はこのひとことに深く考えさせられました。頭の中で、いろんな状況下に置かれた自分を考えてみたりしました。その結果、今の自分は周りの人にとってどんな存在なのか、という結論が出たのです。そして思いました。自分には欠けているものがまだまだあるな、と。
だから、僕は身近な人たちとできるだけ長い時間を一緒に過ごしたいと思っています。そこではいろいろな思い出が作られることでしょう。嫌な思い出があるからこそ、いい思い出が存在するのだと思います。そして、そのいい思い出の片隅に僕の存在があったとすれば…、これほど嬉しいことはないのだから。
相手の思い出に残る、さり気なく小粋な存在……、そんな人に僕はなりたい。