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〜特別編〜

FIFAワールドカップ in YOKOHAMA
開幕1年前カウントダウンシンポジウム

日時 2001年6月6日(水)18:30-21:20
場所 パシフィコ横浜
構成 形式 タイトル 出演者
第1部 基調講演 W杯の歴史 川淵三郎
特別講演 フランスサッカーの現状 ジェラール・ウリエ
第2部 シンポジウム 決勝の地、横浜から感動を世界へ 高秀秀信、水沼貴史、小松成美
斉藤史朗、白石美帆、田中基之
コーディネーター 西田善夫                           (以上、敬称略)
主催 横浜市、2002年FIFAワールドカップ横浜開催推進委員会
共催 朝日新聞
後援 JAWOC横浜支部
特別協力 アディダスジャパン株式会社
協力 TVKテレビ、FMヨコハマ

コンフェデ杯準決勝を1日前に控えた6月6日(水)、18:30からパシフィコ横浜で開催された、「FIFAワールドカップ in YOKOHAMA〜開幕1年前カウントダウンシンポジウム」に行ってきた。朝日新聞の応募枠に当選し、招待状が来たため。(会場は8割程度の入り)

構成は2部構成。

第1部で川淵三郎氏(Jリーグチェアマン、日本サッカー協会副会長)とジェラール・ウリエ氏(リバプールFC監督、元フランス代表監督)の講演が1時間行われた。

15分の休憩後、第2部はパネリストによる、シンポジウムが行われた。
パネリストは以下の方々。
高秀秀信氏(横浜市長)、水沼貴史氏(サッカー解説者、元日本代表)、小松成美氏(作家)、斉藤史朗氏(日本サポーター協会代表)、白石美帆氏(タレント、TBSスーパーサッカー出演中)、田中基之氏(朝日新聞運動部記者)。
コーディネーターは西田善夫氏(横浜国際総合競技場長、元NHK解説委員)


最後にプレゼント抽選(1等:コンフェデ杯準決勝3人分チケット)が行われ、3時間弱のイベントは拍手のうちに幕を閉じた。


第1部 基調講演 「W杯の歴史」 川淵三郎氏

ホワイトボードを使い、時系列に沿って講演。
まず最初にサッカーの歴史を述べた上で、次に彼自身の記憶とともにW杯の歴史を講演した。

【サッカーの歴史】
1863年 FA設立(Football Association=イングランド協会のこと。オリジナルのため、地名を付けない)。フットボールのルールを作成。フットボールには7つあり、サッカー、ラグビー、アメリカン、オーストラリアン、ゲーリック(アイルランド)、カナディアンである。
その中で、丸球は、サッカーとゲーリック。手での使用を禁じたものはサッカーだけだった。

日本には1873年に伝来
1903年FIFA(国際サッカー連盟)設立。フランス人のジュール・リメを中心に7ヶ国が参加。(最初のワールドカップのトロフィーは彼の名前を取って「ジュール・リメ杯」と呼ばれている。)
1919年 FAから銀杯が日本に送られる
1921年 大日本蹴球協会設立
1929年 日本、FIFA加盟
(現在、FIFA加盟国は国連加盟国より多い、204ヶ国。新しく独立した国などは国民にそのことを知らしめるためには、最もポピュラーなスポーツ・サッカーで国際親善試合を行うことが一番有効とのこと。)

【W杯の歴史】
1930年 第1回ウルグアイ大会。地元ウルグアイが優勝。13ヶ国が参加
1934年 第2回イタリア大会。ムッソリーニの独裁政権下で地元・イタリアが初優勝
1938年 第3回フランス大会。イタリアが2連覇

1950年 第4回ブラジル大会。第2次世界大戦の影響で、12年ぶりに開催。優勝はウルグアイ
      決勝の「ブラジル×ウルグアイ」戦のマラカナンスタジアムには199,854人、一説には25万人もの人が観戦に訪れたとされている。
      地元・ブラジルが敗れたために7人がショック死、自殺などで死亡

1954年 第5回スイス大会。西ドイツ初優勝。日本が初めて予選に参加。韓国と出場権を争い、敗退
      当時、日本の民間人は韓国に入国できず、試合は日本のみで行われた。
      韓国は時の大統領・季承晩が植民地時代の日本にだけは負けてはならないと檄を飛ばす。
「負けたならば玄界灘に身を投げろ」

1958年 第6回スウェーデン大会。ペレが17歳でW杯に登場。ブラジル初優勝。南米のチームが優勝した、唯一のヨーロッパ開催大会
1962年 第7回チリ大会。ブラジルが2連覇。日本が初めて韓国国内で試合をし、予選を戦った。

1966年 第8回イングランド大会。サー・ボビー・チャールトンの”キャノンシュート”で地元・イングランドが初優勝
      北朝鮮がイタリアに1-0で勝利し、ベスト8進出
1970年 第9回メキシコ大会。ブラジルが3回目の優勝。
ジュール・リメ杯を永久保持

1974年 第10回西ドイツ大会。新しいワールドカップが登場。
クライフを中心とするオランダの”トータルフットボール”旋風
      
ベッケンバウアーを中心とする地元・西ドイツが2回目の優勝。
1978年 第11回アルゼンチン大会。地元・アルゼンチンが初優勝。
1982年 第12回スペイン大会。イタリアが3回目の優勝。ブラジルの
黄金のカルテットが活躍
      日本の鈴木善行首相(当時)が2次リーグ「イタリア×ブラジル」戦当日、ブラジルで講演していたそうな
      突然、聴衆が話題と全く関係ないところで大盛り上がり。みんなラジオで、ブラジルのが得点シーンを聞いていたそうです
      実は、誰もゼンコーさんの話を聞いてなかったのね…。そりゃそーだ。

1986年 第13回メキシコ大会。アルゼンチンが2回目の優勝。
マラドーナのための大会
      元アビスパ福岡監督のパチャメ氏によると、
”神の手”によって、数年間子供達が真似してしまい、コーチは苦労したとか

1990年 第14回イタリア大会。西ドイツが3回目の優勝。得点が少なく、面白味に欠ける大会。
      西ドイツのコール首相(当時)は、サミット初日と決勝戦の日程が重なってしまったが、決勝戦を選択
      翌日、サミット入りし、各国首脳から祝福を受けたそうだ

1994年 第15回アメリカ大会。ブラジルが史上初4回目の優勝。
ロマーリオ大活躍。R.バッジョが最後のPKを外したシーンは記憶に新しい

1998年 第16回フランス大会。地元・フランス初優勝。ジダン、ロナウド等活躍
      シラク大統領の応援姿(スーツにマフラー)が連日TVで放映され、彼の支持率がUP!でも、一時的だったそーです…

【まとめ】
・記憶に残っているのは、
その大会のスター決勝戦の会場 (2002年はここ、横浜!)
・W杯に興味と関心を持つことで、大会全体の盛り上げになる
・ボランティアの応募がまだ多くないが、語学力とかではなく、
元気と笑顔でOK!


第1部 特別講演 「フランスサッカーの現状」 ジェラール・ウリエ氏

スクリーンを使用し、英語を同時通訳による講演。
今季のプレミアリーグは既に終了しているが、このためだけに来日したとのこと。(もちろんコンフェデ杯も見るだろうが)
フランスは前回大会の開催国。W杯開催のメリットとフランスがW杯にした準備の2点に焦点を当てて話が進んだ。

【W杯開催のメリット】
・W杯の開催国としてのステータスが上がる
・W杯を開催するにあたり、新しい雇用、コミュニケーションが生まれる

W杯には3つの段階があるとのこと
 1. W杯までの期間
 2. W杯開催中
 3. W杯終了後
・その中でもW杯後にメリットが出てくる。開催したことへの誇りや目的を持たせる。
・日本代表が勝ち進めば、生活を豊かにする(彩る)
・国内リーグ(Jリーグ)にも良い影響
・政治家やスポンサーなどからの支援が望める

選手だけでなく、各国のサッカー協会は監督を育成しなければならない。
W杯後はクラブが少年・少女に対するフォローをするようになる。勝つために必要な事をするようになる。

【フランスがW杯にした準備について】
まず彼は、サッカーに関しての分野の準備を講演すると説明。彼曰く、「私は内務大臣ではありませんので、道路建設などはわかりません」
・全ての人のW杯であること
・何らかの形でW杯に参加できるようにすること
・協会とリーグが協力して、プロ選手を始めアマチュア等全ての選手に影響を与えること

<ハード面、施設>
1988年にクレーヌ・フォンティーヌ(避暑地の広大な森の中に宿泊施設等あらゆるものが揃う、フランス代表専用練習場)開設。
そこでベストの選手の選択、監督の育成が出来た。
日本ではJビィレッジ(福島県、1997年開設)が良い例。世界でも指折りの施設。

<ソフト面、育成>
フランスでは以前から15-19歳を対象にした、アカデミーシステムがある。
これは学校に行きながらナショナルトレーニングセンター(NT)でトレーニングを積むもの。
さらに、現在では11-15歳までを対象にした「スキルアッププログラム」を始めた。

【まとめ】
・W杯を開催できることは非常に幸運なことである
・W杯を開催できることは非常に特権である
・みんなで楽しもう


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