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もくじ 友 人 ・たった三ヶ月、でも いっぱいの思い出 ・まるで兄弟のようだった ・90日間のきずな ・ありがとう豪君 家 族 ・THE ONLY ONE・・ (2001年の妹より) 親 戚
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何故逝ってしまったのだろう。応えが出ないまま時が無情に、
ひたすら何も知らぬかのように経過してきました。
思えば、豪と一緒に居た三ヶ月の倍でもある、その時間は
自分にとって妙な成長をした期間でもありました。
一九九五年四月三日花房豪に出会い、豪の魅力に気づき、
腹を割って語り合える人生が始まりました。
会社の同期として、お互いやること為すことが新鮮なもの
ばかりで、何かと不安を持ちながらも、どこかで支えていて
くれた、優しい、それでいて寂しがりな男に映りました。
そんな春先、週末になるといつでも、あの頃は不思議な位、
豪を囲んで大勢の友達が集り、中には自分にとって初対面の
人でも何気なく、つなぎ合わせて楽しませてくれました。
おそらくそういった所に引かれていったのでしょう。
「きっとこいつなら親友になれる」とそう思った頃でした。
そうなるとただ居るだけでも安心できたんですね。
たわいもない話から、悩んでいる事、正直に聞いて欲しい事、
気兼ねなく言えるし、又返事もストレートに出してくれました。
考え方が分かってくれるにつれて、自分にないものを豪に求める
様にいい方向に変わっていきました。
だから高校、大学時代に出会った仲のいい友人と同様、信金時代、
いつまでも続くことになる男だと思っていました。
一番というと御幣があるかもしれませんが、それ程近くにいれた
存在だったのではないかと感じています。
思えば、まめな方でした。仕事にしても、遊びにしても、一生懸命で
すきのない性格にみえました。
まるで自分とは正反対かの様で、時折疑問に思いました。
どうしてここまで擦るのかな、無理していないのかなと。
今思えばそれが性分だったのでしょう。
楽しみながらしていましたから。
本当は盗まなければいけない所が多々あったんです。
でもこの先付き合って行く中で徐々に身に付ければいい、
そう信じていました。
これから迎える夏も冬も豪と一緒にいる中で、一つ一つ得ていく
ことにしよう、そう決めました。
ちょうどそれは梅雨に入り、じめじめとうっとおしくなってきた
季節の時だったと思います。
変わらない「豪」という自分なりのスタイルが好きでした。
自分の思いをありのまま記録に残す、特にビデオに数多く取って
アピールしていた姿が今でも深く印象に残っています。
それだけに豪がひどくいじらしく思えてきました。
不思議と強く因果関係があったように感じるからです。
比較的何年も付き合いがあった皆さんより、私がつかみとれた
ものは、ここまで述べてきた位、悲しいかな少ないものでしょう。
言葉で表すにしては安っぽくなってしまいがちな程短かった。
しかし豪に運命的にも出会えた事実は、二十四年間生きてきた
中で、最高の強みと最大の誇りになりました。
戻りたいけど戻れない。悔やんでも悔やみきれず、この上ない
切なさしか残らない。
やりきれない日々が続き、やけになって無気力になり、もう何も
したくない日々もありました。
自分の思うようにならず、ふと望みも薄弱になる。
大事な者を一瞬にして失わなければならない恐ろしさも実際に
あるのだなと無理矢理自分に言い聞かせてきました。
それを現実として受けとめなければならないのは、あまりにも
酷すぎました。
苦しかった。くやしくてたまらない、辛いけどそういう時は無意識の
うちに、そっと祈っています。そんな弱まった自分を守ってくださいと。
それが願いなのか、何なのか分からないままに。守っていて
欲しいんです。永遠に。心の中に居続けて欲しいんです。というより、
居てもらわないと困るんです。
激しい雨の日も、風の強く吹く日も、寒くて仕方ない時も、自分を見失い
そうになる時も、気持ちよく晴れている時もずっと。
折角仲良くなれたのだから、宿り続けてもらわないと意味がない。
自分勝手な事なのかもしれないけれど、そう解釈するしかないんです。
きっと豪ならそれを許してくれると信じています。
いつの日か時が経って、再び豪に会えるのはいつなのか、自分がどの位
年をとった時なのでしょうか。
同じ位の歳になった豪なのか、あの時のままなのか、どちらとも
分かりません。でもその時が来たら、
また好きだった酒を飲み交わしたい「やっと会えたね」なんて
ことから始まって「実はあれからさ」ってこの先自分が経験して
ゆくことを全てゆっくり語り継いでいきたいんです。
笑われてしまうのかもしれませんが、考えつく精一杯の事のような
気がしてなりません。
命のはかなさと大切さを教えてくれた豪にはある意味で感謝しなければ
いけない事かもしれません。
本当ならば自分の身体は自分で守れとそう伝えてくれているのかも
しれません。もっと強くなれと。
だからそれを糧にがむしゃらに強くなります。なってみせます。
その姿を見届けてもらいたい。
その上で助けてほしい。
「三ヶ月素敵すぎた思い出をありがとう。」
決して華やかではなかったけれど、勇気付けてくれることになった。
豪が残してくれたものは決して忘れない。
その代わり地からを与え続けて欲しい。自分を含めた、豪の好きだった
全ての人に。
しばらく頑張ってみるから会うのは少しおあずけにしよう。
また皆で出会えるその時まで。」
大学に入って、初めて君に出会った時のことはよく覚えています。
体育館で健康診断をした時に初めて話したんだよね。第一印象は
けっこうかっこいい奴がいるじゃんと思いました。それから同じ
教養ゼミに入って仲良くなったんだよね。
横浜に出てきてまだ右も左も分からなかった大学一年の頃、
いろいろ案内してもらったり、コンパに誘ってもらったよね。
僕にとっては様々な事が新鮮で、すごく楽しかったです。
大学の講義中はほとんど何も聞かずに夢中で話しこんでたよね。
それで、大学一年の時の取得単位は、えらいことになったよね。
僕が二十二単位で君が二十単位。おいおい留年するんじゃないかと
アタマをかかえたよね。そのおかげで人とは逆に二年、三年になるに
つれて、講義に出席する回数が増えていったよね。一年のときに
まともに単位を取っていればもっと余裕のある大学生活が送れたよね。
よく、大学で待ち合わせをしたけど、君は時間だけは守らなかったよね。
約束通りの時間に現われた事はほとんどないと記憶しています。
まぁ、お互い様だけど、しかも君の場合は現れないこともたびたび
あったよね。
また、僕の部屋で飲んでよく大騒ぎしたよね。おかげでトイレのドアは
こわれたり、ベランダの壁も蹴り壊したりで、酔いがさめた後は結構
大変でした。
よく、大家に追い出されなかったもんだと思います。
君との思い出は酒の思い出がいっぱいです。
旅行に行ったときも結局、飲んだくれてしまっただけだったよね。
合コンに行く前に景気づけに酒を飲んで吐きながら電車に乗って渋谷まで
行ったこともあったよね。
学祭のコンサートのときも直前まで飲んでフラフラになりながら森高を
みたよね。今思うと、よくやったもんだと思います。
大学時代、君にはお世話になりっぱなしでした。
よく合コンに誘ってもらったり、パチンコで勝ったからといってごちそうして
もらったり、バイクで事故った時は食べ物を持ってもらったり、車で病院に
つれていってもらったりで本当にありがたかったです。
君に出会わなければ、大学生活は全然つまらないものになったと思います。
君に出会えて本当によかったと思います。
君との思い出は楽しいことばかりです。
僕の大学生活において君は、かけがえのない存在でした。
本当にありがとう。君との思い出は一生忘れません。
追伸
遅れてしまって申し訳ありません。手紙を書いていると当時の事がいろいろと
思い出され、思わず涙がこぼれてしまいました。
(2001年の妹より)
世の中には数多くの人がいるけれど、お兄ちゃんのように明るく
楽しく人生を駆け抜けていった人は少なかったんじゃないかなと、
改めて文集を読みなおして心から思いました。
お兄ちゃんは楽しいことは最高に楽しく、そして多少辛いことでも
楽しい方向に進めてしまい、その楽しさをみんなと共有する事が
できる、誰もが羨むそんな才能を持っていたんだと思います。
誰もが持ち得るものではないそんな才能を、お兄ちゃんは持っていた
んだと思います。
事故の当時は私は自分のことでいっぱいいっぱいだったため、母の
気持ちをうまく汲み取ることが出来ずにいました。
しかし6年半が経ち、今まで読み返すことを拒んでいた文集の中の
母のページを開き、母にとってお兄ちゃんは唯一無二の宝物だった
ことを改めて実感しました。
母親の息子への愛情は、母親の娘へのそれよりも格段に大きいと
聞いたことがあります。
母にとってお兄ちゃんは自分のお腹を痛めて初めて出てきた子供で
あり、紆余曲折を経て大きく育った息子であったためにかわいさ
100倍、そしてその悲しさは100万倍だったのでしょう。
そんなことを考えられるようになったのは私がより母がお兄ちゃんの
おかあさんになる年齢に近づいたからなのでしょうか。
先日、母が突然「シンガポールに行きたい」と言い出したのです。
おにいちゃんと三人で訪れたシンガポールの地をもう一度訪れた
かったのでしょうが、私にはどうしてもそこにもう一度訪れることが
できない気持ちがありました。
インド人街でヒーヒー言いながら食べたバナナの葉にのせられた
オクラやうずら卵のカレーも、ホテルに戻って「辛いもの食べ過ぎて
毎日切れる」と言ってトイレから出てきたお兄ちゃんの言葉も、
ビニール袋に入れて売られていた毎日飲んだあの甘美な味の
マンゴジュースも、
セントーサ島のそれほどきれいではない海で太っている私をかついで
海へと放りこんでくれたことも、海辺で私たち2人を待つ母の手が膝に
置いてあったために足が手の形に日焼けしてしまったことも、
店で売られていた「K」マークのバックが横浜元町の老舗キタムラの
バッタものだと笑ったことも、ひどく胡散臭い日本語で革製品を売って
いるインド系の人が「皮のジャンパーウスイヨ〜」と話しかけてきて、
安いと薄いとを間違えている事が妙におかしかったことも、
全部お兄ちゃんといたから楽しかった出来事なのです。
あの国は、そんな素敵な思い出と一緒に私の心の中に置いておきたい国
なのです。
最近のお兄ちゃんどうしているんでしょうか?
今年私たちが大好きだったおばあちゃんが94歳で召された時には、
ちゃんとお迎えに来てくれたのでしょうか?お酒好きのおじいちゃんと
一緒に盃を交わしたのでしょうか?
さみしくなるとみんなの所に来て、その話を聞いているのでしょうか?
時々、夜中に「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と呼びかけてみるけれど、
私の声は聞こえているのでしょうか?
そうこちらはというと、お父さんは今年の7月に定年を迎えたんだけど
まだまだ働くみたいです!私は6年間勤めた会社を辞めてしまったから、
お父さんには働いてもらわないと家族中が無職になっちゃうもんね(笑)!!
お母さんは相変わらずマイペースでそれは何年も変わらないけど、体だけは
以前よりも格段大きいよ。
お兄ちゃんがいなく、なにもする気がしないからだと本人は言っています。
11歳になるチェリーは年をとり耳が少し遠いけど、たくさんジャーキーも
食べるし、散歩も一日二回は欠かさないけど、相変わらず私のことは家族で
一番下っ端だと思っているみたい。
私自身はというと、少しでもお兄ちゃんに近づきたい、人に対して駆け引き
なしに親切にできるように、そして人への思いやりを常にもてるようになり
たいと思ってるよ。
私たちはそんな生活しています。
どうか、お兄ちゃんは私たちにその元気&陽気パワーを送り続けてください。
そして私たちとお兄ちゃんの大切な人たちみんなのことを守っていてね。