靖国神社

静岡合宿(1)>>

ちょっと暗くなってるね。よく見えない。ごめん。大手水舎。後方に見えるのは神門。モデルは上尾め。カメラマンは一條。カメラマンの後ろには右翼団体の車が2台ほど。張り紙に「右翼ならばテロをしろ、やつらはきっとおとなしくなる」と。こういう輩がいるから俺まで誤解されるんだ、とカメラマンは言いたげだったが、5分遅刻の立場ではただ申し訳なさそうについていくのみだったとか。

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桜の名所でもあるらしいよ。ここは。これは神門かな?メモがこのあたりあやふやなので断言はできません。ごめんなさい。『道』(井上説子?)の初回の文「その時、拝殿の屋根越しに本殿の棟飾りを発見する。さらに近づくと、本殿の存在は拝殿に隠されてしまい、今度は幾重もの扉越しに……」は、神社の神門を通り抜けるときの描写なのです。

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一條はふらっと独りで参拝してきましたが、他のみんなは絵馬を見てました。戦死者を祀ってある本殿。さて、ここまで神門・拝殿・本殿と歩いてきたんだけど、靖国神社は当初から境内の全体構想があったんじゃなくて、明治5年の本殿創建以来、約30年間隔で拝殿、神門と時代の要請に応えるように増築されてきたらしい。そこには、視線を重視した綿密な動線計画が継承され、形状・様式は全く異なる意外性の中に絶妙な調和を醸し出していますよ。

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爺「そうじゃな、そうやってあんたらはわしを悪者にして生きていけばいいんじゃ...」広キム「いや、何言ってんすか、広島カープは永遠に不滅ですよ」爺「じゃあなぜ江藤は広島を捨てたんじゃ?」広キム「それは...」2人の心の会話に足を踏み入れるほどの勇気はなかった。僕はただ思っていた。「それでも、あなたの背中を見つめながら歩いていきたいんです」「我汲馬慰霊」といって、戦争で犠牲になった馬を祀っているものです。兵士と馬の友情(?)についてはいろいろな回想録に書かれていますよね。よく頑張ってくれました。去勢されながら。あ、でもそれなら競馬も同じか。

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スーツを着てこいと一條も言われてたんですが、まさか本気だとは思わずに裏切ってしまいました。ごめんなさい、上尾芽。でも、よく似合ってましたよ。って、フォローになってない?蒸気機関車C56形式31号。タイ、マレー、ビルマにて使われていたもの。

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「遊就館」という館名の由来は、荀子の「君子居必擇郷、遊必就士」(君子は居るには必ず郷を擇び、遊ぶには必ず士に就く)である。そこから「遊」と「就」の二字を選んで命名したもので、以来今日まで受け継いでいる館名。「遊必就士」とは、高潔な人物に就いて交じり学ぶという意。遊就館の正面。

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遊就館は、靖国神社に祀られている御祭神の遺品史料や、戦争に関連した遺物・史資料を保存、展示するために明治14年に建設された。大正12年の関東大震災で大破するが、昭和6年に場所を変えて再建。これが現在の遊就館。終戦から40年近くの間、事務所などに転用されてきたが、昭和60年に初期の目的にかえり復元、昭和61年7月に再開。
遊就館再開の目的は、祭神の遺書、遺品等を参観した人々が、國神社の祭神の性格がどのようなものであるか、また神社そのものの性格が一般他社と全く異なり、わが国家の安泰と繁栄の歩みに直結しているということを、認識し学習の場とすることにある。


大ホールの真ん中にある像です。さて、ここからいよいよ遊就館の内部の写真になります。受付でおそるおそる「写真撮ってもいいですか?」と訊いたところ、快く許してくれたおばさんに感謝。写真は全て1階大ホールのものになります。

これは歩兵with38式歩兵銃。

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この彗星は昭和47年、中部太平洋西カロリン諸島ヤップ島で発見された。発見した遠藤信彦氏は大の飛行機好きで、世界に一機も現存しない幻の名機彗星を求めて何年も南の島々を歩き回ったという。遠藤氏は彗星を日本に持ち帰る許可を得、これに日本テレビが協力、里帰りが実現。復元作業は彗星ゆかりの地、木更津の陸上自衛隊基地で行なわれた。悲運の艦上爆撃機、彗星。

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大鑑巨砲主義から航空機中心の機動部隊決戦へと戦術が転換。それに伴い昭和13年、戦闘機より速く、かつ遠くまで飛べる艦上爆撃機の試作が開始。これが十三試艦爆「彗星」。昭和15年11月、初飛行で最大速度時速552キロ、航続距離約4,000キロという記録を樹立。これは当時世界一といわれたゼロ戦をも凌ぐ。
このすばらしい性能をひっさげ、二機の彗星が昭和17年6月ミッドウェー海戦に参戦。偵察からの帰還時、敵戦闘機群に追われるも悠々ふりきって帰艦。この時打った電文「ワレニ ツイビスル テキキエイヲ ミトメズ」は有名。しかし、着艦後に母艦「蒼竜」ごと海中に沈められた。
大戦後期に制式採用となり、粗製乱造によるエンジンの不調や熟練した搭乗員の減少で、その性能を発揮することができないまま特攻機に改造されていく。そして多くの彗星が文字通り彗星となって南の海に消えていった。


これについては、吉田先生に詳しく説明していただいた。これは生で見ると迫力ありますよ。当然ながら戦車ですからねえ。何言ってんだろ?97式中型戦車。

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この戦車は大東亜戦争における戦車第9聨隊所属の戦車で、同聨隊は昭和19年4月に満洲よりサイパン島に移駐。米軍の上陸にあたっては諸兵団の先頭に立ち、数倍する優勢な敵の猛攻を迎え撃って敢闘したが、同年7月7日に全兵団と共に玉砕。
サイパン戦の生存者である下田四郎氏が、この戦車をサイパン島戦歿戦友の慰霊と、戦車兵団戦歿者慰霊顕彰の象徴にしようと、私費を投じて同島海辺において発掘、日本に搬送。昭和50年8月、奉納。


遊就館には圧倒されました。「英霊の言乃葉」は涙無しでは見られません。ところで、この「回天」の写真には間違いがあります。それはどこでしょう?正解者には先着2名様に管理人の使ったあぶらとり紙をプレゼントします。回天。

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「人間魚雷」回天は、大東亜戦争の前途が暗雲につつまれた昭和19年8月、我が海軍の一角に姿を現した。回天は鋭意研究の結果、巨艦も一発で轟沈させる威力をもつ兵器となった。その必死兵器によって日本の民族を、国土を、身を捨てて護らんと願い馳せ参じた若人たちと共に、次々と南溟に征き、再び還らなかった。現在展示の回天は昭和54年10月、米国陸軍当局の厚意によりハワイ陸軍博物館から当神社に対し永久に貸与された本体を、整備復元したもの。
全長14.75m。当時、我が海軍が高性能無航跡魚雷として世界に誇る「93式魚雷」をエンジンとして、頭部に1.55トンの炸薬を装着し、潜入・浮上・転舵自在、搭乗員自ら操縦の一人乗りの兵器。文字通り一身肉弾となって敵艦船に体当たり、一撃もって敵艦を必沈する兵器であった。



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