女学生、ニューヨークを爆撃!

54万5千には、まだ届いていないけどおまけ


 中野の有名古書店で、戦時中の「少女の友」(実業之日本社)を見つけ、買う。


昭和19年2月号表紙

 
 総督府の軍資金・保管場所を考えると、無分別に戦時中の少女雑誌にまで手を拡げるものではないし、表紙の「少女」(松田 文雄 画)も、自分の好みじゃあないのだが、裏表紙が


裏表紙

 こんなことになっているのだ。ネタ一つ確保である(笑)。

飛行機さえあれば
タラワ・マキンの仇が討てる


女学生よ
あなた方の手で造った飛行機で
鬼畜米国の本土を爆撃しよう!!
 

 画も言葉も、直球ど真ん中。
 しかも「ニューヨーク爆撃の日」と題された、この画を描いた人が、『日本三大茂』の筆頭、小松崎 茂だったりするのだ。

 主役の爆撃機は、一式陸攻の機首、百式重爆の胴体※と主翼(エンジンが多いが)、B17の垂直尾翼を組み合わせただけ、と云えばそれまでだが、実在するメカの、部分引用組み合わせを、実力ある絵描きがやることで、『絵空事』に説得力を与えていたりする(もちろん、飛行機の部分だけの話だ)。この手法、戦後に描かれる未来画でさらに洗練を見せ、『日本三大茂』の地位を確立させることになる。
 画につけられた言葉が誰の手によるのかは、目次には書かれていないのが、ちょっと残念なところだ。


日の丸は胴体につけて欲しかった

 掲載誌が「機械化」ではないので、この爆撃機の要目は掲載されていないが、小松崎茂のことであるから、絶対に作っていたと思う。
 と云うわけで、この機体でニューヨーク爆撃は無茶だ、と無粋をしなくて済むのは嬉しい反面、ツッコミを入れるポイントがなくなり、自分の記事が薄っぺらになってしまうのである。
 女学生の手(で作られた爆撃機)でニューヨーク爆撃など、今の目からは夢物語そのものだが、当時の日本には、キ91、富嶽など大型爆撃機の計画は存在し、米本土爆撃も時間の問題だとした記事さえもあった。万年赤字の営業部門長が、かなりのゲタを履かせて出す、今期の業績見込みくらいの現実性はあったと云えるだろう。

 この号が出る頃までの日本の負けぐあいをざっと振り返れば、

  18年2月・ガダルカナル撤退
  同年5月・アッツ守備隊全滅
  同年7月・キスカ撤収
  同年11月・マキン・タラワ守備隊全滅

 となる。「マキン・タラワの仇が討てる」の言葉に、相当の重みがあることがわかるだろう(アッツの仇は討たなくていいのか? などと考えてはいけない)。
 しかし、19年2月には「日本の真珠湾」トラック島の基地機能が喪失し、ラバウルからは航空兵力が撤収、6月はマリアナ沖海戦・米軍サイパン上陸となり、7月サイパン陥落・東條内閣総辞職に至って、いよいよ敗戦への道に加速がかかりはじめる。せっかくの大型爆撃機計画も、今必要な飛行機を作るため、日の目を見ずに終わってしまうのだ。
 以後、仇は重なるばかり…。

(おまけのおまけ)
 米国に敵意を持つからには、ニューヨークを叩かないといけない、と天地開闢以来、定められているんじゃあないか? と思うことがある。


紐育制圧の図

  「大東亜戦争 海軍美術」(大日本海洋美術協会昭和18年9月)に収録された『紐育制圧の図』(古城 江観)である。
 見ての通り、TV画面を傍観しているような静謐感・他人事感がある。しかし九六式陸攻はいくらなんでも芸がなさすぎで、少なくとも発動機は四つは欲しい。
 画には、以下の詞が付せられている。

神鷲一たび敵都に羽搏けば 林立する白亜の摩天楼も豪華を誇る建築も埠頭も一瞬にして木っ葉微塵と吹き飛ぶ、
口に自由と人道を高唱し乍ら悪虐残忍鬼畜に等しき行為を敢てする米国、擬装せる物質文明の最後をかくあらしめずして止まれようか、
天誅必ず下るべし


 アメリカ人にこれを聞かせれば、
 「口に東亜の解放と王道を高唱し乍ら一国の繁栄の為世界に敢て挑む日本、擬態せる精神文明の最後は、B29の下来る」
 と、へらず口が返って来るに違いない。
 この詞はアメリカを「鬼畜に等しき」と表現しているが、「少女の友」では、ストレートに「鬼畜」呼ばわりをしている。この間に何かあったのか、『米国鬼畜呼ばわり史』をまとめた読物があったら、読んでみたいと思う。

(おまけのおまけのおまけ)
 敗戦後50年ほ経て、会田 誠「紐育空爆之図」(1996年)が、制作されている。『紐育制圧の図』を本歌取りした作品と見ることが出来るが、戦時中の画が願望を即物的に描いていたのに対し、戦後のそれは、未だ残るわだかまり−鎮まらぬ魂、とでも云うべきもの−を召喚しているようで、単に「似ている」だけで片付けられないモノがある。
(参考・ミヅマアートギャラリーの会田誠作品紹介ページ)
※小松崎メカの爆撃機の操縦席後ろのアンテナ部分は、四式重爆から引用しているようにも見えるが、この時期に四式重爆の写真が公表された形跡は確認出来なかった。