何用あって南洋へ

昭和16年の分県地図で698000おまけ


 月の前半は仕事に追われ、土日も持って行かれる。月の半ばはその反動で本を読んだり、出歩いたりしているので、当然、新しいネタをこしらえる時間は無い。
 人間の都合とは無関係に今日は去り明日が来る、月末近くになる。ようやく今月の更新を…と気合いを入れ直すのだが、一週間二週間で促成栽培できる(面白い)ネタがそうそう転がっているわけもない。

 こりゃあ弱ったなあ…と思いつつ古本屋に立ち寄り、こんなモノを見つける。



日本新分県地図「南洋諸島」

 「日本新分県地図」と記された、「南洋諸島」の地図である。昭和16(1941)年10月発行。
 「埼玉県」、「愛知県」など、ふつう都道府県単位で売られている分県地図に、「県」とは何のつながりもなさそうな、「南洋諸島」の文字を見て驚き―「市町村便覧」まである―、こりゃあネタだ、と買ってくる。

 「南洋諸島」と云えば、第一次世界大戦の最中にドイツからぶん取り、戦後に国際連盟から統治を委任された、トラック諸島・マリアナ諸島(除くグアム島)など―太平洋戦争の激戦場として知られる―が思い浮かぶのだが、念のため『婦人家庭百科辞典』(ちくま学芸文庫版)を引いてみると、「表南洋の一部であるフィリッピン群島・ジャワ・スマトラ・ボルネオなどのマレー諸島及び裏南洋のマーシャル・カロリン・マリヤ(ママ)ナ・メラネシヤ(ママ)諸島の総称」と記載されており、思ったより範囲が広いことがわかる。早い話が南の島々をもっともらしい言葉にしただけの事か。

 地図を拡げて見る(分割してスキャンしているので多少ズレてます)。


拡げたところ

 左上には朝鮮半島の南端と千葉県から西の日本列島、南に下がって沖縄、台湾、その先には「フィリピン群島(米領)」が連なり、地図の終わりに「セレベス島」―赤文字で「和蘭領」とある―が描かれ、地図のほぼ真ん中東経140度と150度の間に「マリアナ列島」が縦に並び、南西に下がれば「西カロリン諸島」、東が「東カロリン諸島」、さらに進めば「マーシャル諸島」、その先右下隅には英領「ジルベルト諸島」がある。このあたりをひとまとめで「ミクロネシア」の文字が飾る。

 赤い点線で囲われているのが「日本委任統治」領だ。マリアナ列島の終わりで赤線が凹んでいるのが「グアム島」(米領)、線が右下がりになりはじめるところに「ウェーク島」(米領)があり、日米関係がこじれたら大変なことになるなあ…、と一目で解る。

 委任統治領の地図とみて良さそうだ。
 大正3(1914)年、帝国海軍が占領したこの地域は、同11(1922)年「南洋庁」に引き継がれる。海軍が占領当時「南洋群島」と称したためか、南洋庁官制第一条で「南洋群島ニ南洋庁ヲ置ク」と記載され、以後する法令ではこの「南洋群島」が用いられているが、「南洋諸島」と表記される公文書も「アジ歴」で閲覧出来るので、本稿では「南洋諸島」で押し通す。

 右上に描かれている7つの島(諸島含む)は、南洋庁の支庁が設置されたパラオ、ヤップ、サイパン、トラック、ポナペ、ヤルート(西からの並び順)に、支庁の無いクサイエ島である(支庁がある6島は赤丸、クサイエ島は青丸を付けた)。島と島の間隔を見ると、ヤップとトラックの間にも、一つ拠点となるべき所があっても良さそうな気はする。これらが当時の主要な島と云うわけだ。
 しかしこれ、どう考えても「分県地図」を名乗る範囲ではない(北海道から九州まで丸ごと収まると思う)。

 地図右下に、青い染みのような所があるが、拡大してみると


 インクのはみ出しなどではなく、地図のワク外まで使って「(英領)オーシャン島」を載せているのだ。妙に凝った地図である。

 七つの島々は、すべて百万分の一で記載されている。島の名前が囲われている部分には、縮尺の目盛りもあるのだが、単位が里、哩(マイル)、浬(カイリ)どれを使っているのか、ルーペを使っても読み取れない。

 まずは、帝国海軍の根拠地として有名なトラック諸島。
 この地図では、赤線で囲われた緑色の部分は「珊瑚礁」を表している。東側に「四季諸島」(春島、夏島、秋島、冬島)、西に「七曜諸島」(日曜島から土曜島まである)、外周にさまざまな名前(日本名)を持った環礁で構成されているのがわかる。


トラック諸島

 つまり、"トラック島"と云う名前の島が、デーンとあるわけではないのだ。しかし、南洋庁が編纂した『南洋群島事情』(昭和6(1931)年版)本文は、

 欧州大戦勃発し日独の国交破るるや我が海軍の南遣枝隊は直に南洋を衝き、当時独逸国の保護領たりし太平洋中赤道以北に散在する南洋群島を占領し、同時に軍政を布き一時の治安に任ぜたり。時に大正三年十月。之を南洋群島に於ける帝国施政の肇とす。次で同年十二月臨時南洋群島防備隊条令発布せられ、司令部を「トラック」島に置き、全群島を分って六民政区と為し各区に守備隊を配置し各守備隊長をして軍政庁長として民政事務を兼掌せしめ(以下略)

 と記されている(太字引用者)。「トラック」に限らず、南洋諸島の島名の使い方は、良く云えばおおらか、悪く云えばテキトーなのである。本稿もそれに習わざるを得ない。

 昭和16年の10月ともなれば、海軍の施設があちこちに出来ているはずだが、地図にあるのは夏島の港だけである。

 現在は「テューク諸島」と呼ばれて、ミクロネシア連邦の一州となっている。

 次はマーシャル群島の一つ、ヤルート島


マーシャル群島(の一部、ヤルート島)

 「島」として切り出されているが、図を見ていると珊瑚礁ばかりで「島」感がまったくしない。こんなカタチをしていたの! と驚く場所である。

 現在はマーシャル諸島共和国を構成する「環礁」の一つとなっている。

 ポナペ島とクサイエ島


ポナペ島(左)、クサイエ島(右)

 ポナペ島は現在ではポンペイ島と呼ばれ、クサイエ島も今はコスラエ島と称され、ともにミクロネシア連邦の州になっている。ちなみにコスラエ島一つだけで一州を構成している由。

 ヤップ島とサイパン島


ヤップ島(左)、サイパン島(右)

 「ヤップ島」は石貨で知られている(それしか知られていない、と云うべきか)ところ。ここも今はミクロネシアの一部。
 「サイパン島」の図は「ティニアン島」(テニアン島)もあわせて描かれている。のちに本土空襲のB−29が飛び立つ所となる。現在サイパン・デニアンはアメリカの自治領となっている。

 バブル期に放映された某軽自動車のCMの、

 日本じゃ地味でも サイパンじゃ〜美人

 の文句は、今も忘れられない(笑)。

 なぜか「ハラオ島」と表記されているパラオ島。


パラオ島

 「パラオ島」と一括りされているが、ここも一番大きいパラオ本島(バベルダオブ)と、周辺の小島で構成されているのがわかる。
 南洋庁が置かれていたのは、コロール島(地図ほぼ中央、北緯7度20分の線の上、東経134度40分の線の左にかろうじて見える小さな島)で、『南洋群島現勢要覧』(昭和2(1927)年12月)は、本庁所在地を「南洋群島西『カロリン』群島『パラオ』諸島『コロール島』と記載している。

 岡晴夫が、戦前に吹き込んだ「パラオ恋しや」(昭和16年8月発売)は、「北はマリアナ南はポナペ」と歌う。しかし、地図で見る限り、マリアナは北東に位置し、ポナペに至っては東カロリン諸島なのでむしろ真東にあたる。南洋庁から文句の一つもあって良さそうな、テキトーにも程がある歌詞なのだ(笑)。

 アメリカの統治を経て、現在はパラオ共和国として独立。2015年4月には、天皇陛下が行幸されている。

 描かれた範囲の大きさはともかく、体裁は分県地図なので、「市町村索引」が付いている。
 役場(支庁)には(役)、郵便局は(郵)―原本では「〒」―の印がある。


南洋市町村索引一覧(部分)

 以下「市町村」名をあげる。当時と現在で呼び名が違う所もあるだろうから、原本の表記そのままで記す。

 パラオ支庁(西カロリン群島西半部)
  パラオ諸島(アンガウル島除く)(郵)(役)
  ソンソル島
  メリー島 トコベ島
  ヘレン礁 プル島
  アンガウル島(郵)
 ヤツプ支庁(西カロリン群島東半部)
  ヤツプ島(役)(郵)
  ヌグール諸島(クツルー島)
  ウルシ諸島
  フアイス島
  ソロール諸島
  アウリピツク諸島
  オレアイ島
  フララツプ諸島
  イツアリツク島(フルツク島)
  オノマライ島
  エラト島
  クリメス島
  ピゲロツト島
  ラモトリツク島(ナモチツク島)
  サタワル島


 トラツク支庁(東カロリン群島西半部)
  トラツク諸島(役)(郵)
  ナモロツク諸島
  モートロツク諸島
  ホール諸島
  オロール諸島
  エンダービー諸島
  プラプ諸島
  フルスク島
  ローソツプ諸島


 ポナペ支庁(東カロリン群島東半部及マーシャル群島エニウエタツク島)
  ポナペ島(役)(郵)
  エニウエタツク島
  オロロック島
  ナチツク諸島
  ヌグール諸島(ヌグオル島)
  グリーニツチ島
  モキール諸島
  ピンゲラツプ諸島
  クサイ島
  ウジラン諸島
  アミシチア島


 ヤルート支庁(マーシヤル群島[エニウエタツク島を除く])
  ヤルート島(役)(郵)
  エボン島
  ナムリツク島
  ナム島(ナモ島)
  クエジエリン島
  ラエ島 ウヂヤエ島
  ウオツト島
  ビキンニー島
  ロンゲラツプ島(ロンゴラツプ島)
  ロンゲリツク島(ロンギリツク島)
  リキエツプ島
  ミレ島 アルノ島
  メジユロ島
  アウル島
  マロエラツプ島
  メジチ島
  ウートロツク島
  アイルツク島
  ウオツヂエ島
  キリー島
  アイリンクラプラプ島
  ヂヤバツト島
  エリップ島
  エルクツプ島
  ビカール島 テチ島
  アイリギンアエ島
  ボカアツク島


 サイパン支庁(マリアナ群島)
  サイパン島(役)(郵)
  アナタハン島
  サリグワン島
  アラマガン島
  パカン島
  アグリガン島
  ウラカス島
  モウグ島
  アツソングソン島
  グウグワン島
  メデイニイジヤ島
  テニアン島(郵)
  ロタ島(郵)


 怪獣の名前みたいな島々の名が載っているが、小さな島が多く、この地図で一つひとつ見つけるのは困難(分県地図の意味が無い!)。南洋で「市町村」と云われても、違和感が強すぎてそれ以上モノが考えられない。どれが町、どれが村なのか書いてないし…。

 先にもふれたが、南洋諸島は太平洋戦争の戦場となっている。この地図にも、戦記に出て来る島の名をいくつも見ることが出来るが、A3程度の紙に胡麻粒大で描かれた島の一つで、何千・何万の人が死んだと云われても実感に乏しい。まして、たまたまそこで暮らしていたがために、いくさに翻弄された人と町の姿は想像する事すら困難である。

 そこで昭和16年6月に南洋庁への就職が決まり、7月から翌17年3月まで南洋諸島にいた、中島敦(『山月記』で知られる)の日記、書簡を引く(『中島敦全集』2、ちくま文庫)。

 日記より
 9月17日(水)(パラオ丸)
 食卓に於ける閑談二三、
(略)「コロールに於ける性的犯罪。必ずしも島民のみに非ず、極秘とせざるべからざる向もある由」

 9月23日(火)コロニヤ
 (略)サイパンの病院の一看護婦(内地人)、自動車の運転手(島民)と通じ、今も尚同棲す、(略)子等は裸・はだしにて走り回り、その母親たる内地の女も、恬として顧みざるが如しと。(略)他の内地人の目より見れば、憐れむべきが如きも、本人は、些かも意に介せざるを見れば、島民男のサーヴィスは余程宜しきものかと、人々嗤う。

 10月9日(木)
 早朝より岩辺氏、島民を集め公会堂にて訓示をなす、夏島竹島(註:トラックの島)への徴発労働者中、無断にて逃出し、或いは、夜、ひそかにカヌーに乗じて帰村する者など多きを戒むるなるべし。

 (略)冬島(註:トラックの島)の如き交番無き所にては公学校長(註:島民向けの学校長)が一箇の小独裁者として島民に臨みあるものの如し。


 続いて妻にあてた手紙より。教科書で読んだ人も多かろう『山月記』とはまったく違う語り口に驚く。日記よりも、現地の様子が詳しく書かれている部分があったり、家族を気遣う言葉が多く記されているなど、なかなか面白い。
 9月28日。ヤルートは面白い島だよ。ここ迄来て、やっと、南洋へ来たという気がするね。(略)このヤルートの海ほど、澄んでいるのは、見たことがない。(略)今朝は一時間ほど、あきずに海を覗いていた。こんなキレイな見物(ミモノ)が世の中にあるとは知らなかったよ。

 10月17日。(略)夏島という所は、バラオよりも、まだ、食糧に乏しい。バナナ一本無い。椰子の水も容易に飲めない。(略)魚もないんだ。このトラック旅館で食事をするようになってから、ホントの(冷凍でも、カンヅメでもない)魚は一度もたべていない。なさけない所さ。

 11月21日。(略)ロタはね、アメリカ領のグワム島とほんの少ししか離れていないんだ。だから日米の間がイザとなれば、この辺は、あぶない所さ。

 (12月2日消印の手紙) ここ(サイパン)の公学校の教育は、ずいぶん、ハゲシイ(というよりヒドイ)教育だ。まるで人間の子をあつかっているとは思えない。何のために、あんなにドナリちらすのか、僕にはわからない。

 12月6日。昨日、内地からの船が着いたので、今日は、町の店という店が活気づいている。色んな品物が一ぺんに来るので、買手の方も今日は急(いそ)がしい。今日はじめて内地の蜜柑を二つ食べたよ。柿も来たということだが、僕等の手には、はいらなかった。(みかんの方はパラオ迄行くけれど、柿はパラオ迄行かない。日数がかかるので駄目になるから、)

 中島はパラオの気候が、日本よりも持病に良くない事と、「現下の時局では、土民教育など殆ど問題にされておらず、土民は労働者として、使いつぶして差支えなし」(11月6日付、父への手紙)と云う、南洋庁での仕事にイヤ気がさして17年3月に帰国。それまでに書いた小説がようやく認められ出し、いよいよ小説家として喰って行く決意を固めた矢先の12月4日に持病を悪化させて亡くなっている。享年33歳。(ここは文庫でない、筑摩書房版『中島敦全集』別巻の年譜を参考にしている)。

 ふたたび日記に戻る。
 10月1(8)7日(金)曇
 (略)モートロック島の防空演習の話の如き、就中、傑作なり。
 (椰子の枯葉を組合せて小舎の如きものを数十作り、爆弾落下想定の下に、それに火を放ち、実際に消火せしむるなりという。夜ひそかに火をつけに行くを、島民は、遊戯と心得て欣んで、
(略)誤って巡警の家まで焼捨てたりと、他島よりの見学者、之を見て、すっかり羨ましがり、「是非わが島に来りて、その防空演習とやらいう面白きものを教えてくれ」と頼みたる由)

 「防空演習」を羨ましがった島民たちは、その後の空襲を対岸の花火として楽しむ事ができたのだろうか?

 「同胞に嗤」われていた看護婦も、「ドナリちらす」先生も、藤田嗣治が描いた「サイパン島同胞臣節を全うす」の画面のどこかから、今なおこちらを見据えているに違いない。

(おまけのおまけ)

 マーシャル諸島の部分を拡大したもの。「島」の字の真下にあるのが、「ビキニ」(ニキビぢゃあないよ)島(環礁)だ。


 アメリカの核実験場として、さんざ痛めつけられた島である。

(おまけの反省)
 今回、南洋諸島の事は何も知らないので、付け焼き刃と割り切って軽く調べて見始めると、島の名前が変わっていたなど、自分の不勉強を思い知らされる事実が出て来る出て来る。これがなかったら、自分の知識は死ぬまで戦記モノから得たモノのまんまだったなあ…と、反省するばかりだ。
 逆に、中島敦の南洋譚(日記、書簡含む)を読むに至れたのは、望外の喜びと云うべきもので(そうでもないと読もうと云う気にならない)、図書館で年譜をコピーするだけでは飽きたらず、全集(文庫版だが)の一冊を新本で買ってしまった。それでも地図代のモトは充分取れたと思っている。