大大阪エキスプレス

「民衆的小運送機関」で72万2千おまけ


 2016年8月某日、渋谷東急東横店の古本市でチラシを買う。


 民衆的小運送機関
 大大阪エキスプレス

 電話で御用命あり次第即刻参上
 引続き御用命の向は特別賃相談

 商家は配達人を減じ経費節約
 非商家は荷造の煩なく便利満足

 株式会社急配社

 運送屋のチラシだ。
 「大大阪全市内急便速達」をうたい、「其他郊外各地」として
 「堺、浜寺、小坂、森小路、守口、吹田、千里山、岡町、豊中、箕面、池田、宝塚、塚口、伊丹、尼ヶ崎、西宮、芦屋、魚崎、住吉、御影 神戸、京都」を配送地域としている。
 記載された地名と地図を見比べてみると、大阪の東側への配送はやりたくなさそうだ(『京都』は特別なのだろう)。

 営業所は「東区道修町(どしょうまち)」、「南区東清水町」の二箇所。どちらも現在では大阪市中央区に編入されている。主筆は東京在住につき、この配置が商売に適しているのかを推測する手立てが無い。さほど広くない地域に営業所わずか二つの「民衆的小運送機関」だったのだなあ と思うだけだ。

 営業内容は、「商品貨物運搬・小包小荷物急配・旅行小荷物買物御届・進物贈答品急配・家財移転運搬」とある。今で云う宅配便から、夜逃げの手伝い? まで手広くやっているようだ。電話一本即参上は、現代ではアタリマエ過ぎて有難味のカケラも感じられないが、営業所まで出向く/御用聞きに行く手間を考えると、凄いサービス向上と云えるだろう。大正後半から昭和初めの電話を使える人達が顧客と考えれば、「民衆」と云っても中産階級の下くらいのものか。
 「急配」するから「急配社」と云う、ひねりも何もない―ホントに「急いで」配達しているのか検証のしようも無い―社名だが、急いで配ると明記しているのは、「小包小荷物」「進物贈答品」だけである。

 「エキスプレス」(普通より速い)を標榜してはいるが、チラシの画を眺めると

 あまり速そうには見えない。「急配」を標榜しつつも、のんびりしているように思えてならぬ。その手段を見れば、

 自転車
 三輪車
 自動車
 枠車
 大七車
 大八車
 荷馬車

 なのだ。人力・畜力頼りなのが実情だ。「エキスプレス」を名乗るなら、まず「自動車」が前面に出るべきではないか! こう思うのだが、今でも自転車便(『メッセンジャー』なんて映画もあった)が頑張っているのを見るし、大正から昭和初めと云う、時代が時代なのである。

 チラシ文面に「自転車」〜「荷馬車」と書かれているわけだが、画をよーく見ると、記載された順番にあわせてイラストが描かれているのがわかる。

自転車・三輪車(荷台が前にあるのに注意)


自動車


枠車?・大七・大八車

 「枠車」「大七車」「大八車」は荷物を積んだカタチの略画になると、自分の目では区別がつかない。「荷馬車」は描くのが面倒だったのか、スペースが足らなかったからか描かれてない。

(おまけのおまけ)
 参考として、国会図書館のデジタル資料(『全国輪業者便覧 第四輯』(大正9年末調査)に掲載された当時の三輪車の図を載せておく。ご覧の通り荷台は前の二輪側にある。


 このタイプの三輪車は、のちにリヤカーと「オート三輪」に駆逐されることになる。

 『朝日新聞』広告欄の「オートサンリン」。
 「リヤーカー式」と「フロントカー式」の二種類があり、フロントカー式は、さきの「三輪車」同様で前二輪の荷台つきで、下図右側下段がそれだ。原版の調子が悪くてわかりづらいが、自転車で云えば前ギアのある部分にエンジンがあり、チェーンで後輪を廻す仕組みになっている。


『朝日新聞』広告(左:大正12年、右大正13年)


 21世紀も10年を過ぎ、町中で「大八車」を見ることはさすがに無いが、地域の博物館の片隅に転がっているのは見かけることがあるので、どんなカタチをしているかは見当が付く。ナゾだったのが「枠車」「大七車」だ。

 と云うわけで、図書館で辞書・辞典をいくつも見てきたのだが、「枠車」は項目が見つからずお手上げである。
 辞書には載らない「枠車」だが、「郵政博物館」の博物館ノート「人車」に当時の絵が掲載されている。小型の荷車に、カゴを固定したスタイルをしている。この言葉が一般的だったかどうか不明だ。

「大七車」も見つけられなかったが、幸いにして「大八車」の中にあったので、その説明を引く。

 日本大百科全書(小学館)
 人力で引く荷車の一種。(略)大阪府では車台の長さが八尺(約2.4メートル)のものを大八車、七尺(約2.1メートル)のものを大七車、六尺(約1.8メートル)のものを大六車と定め、1870(明治3)から鑑札を交付するとともに課税した。(略)

 国史大辞典(吉川弘文館)
 江戸時代前期以降、江戸をはじめ各城下町などで使用された荷車の一種。車台の長さ八尺・幅二尺五寸、車輪の径三尺五寸のものをいう。(略)当時この車台の長さ一丈・九尺・七尺・六尺のものを大十・大九・大七・大六車と呼んでいるので、車台の長さにもとづく呼称というべきであろう。(略)大坂などでは大八車は使用されず、べか車(板車)が流行した。(略)

 「大八」「大七」は車台の長さの違いなのであった。わずか一尺(約30センチ)の違いで、どれくらい使い勝手が異なるのか見当もつかない。ちなみに明治8年の布告「車税規則」によると、大八車も大七車も1年の税金は1円で、「大六」以下の「中小車」が半額の50銭と云う。


大八車(左)・べか車(右)
『絵引 民具の事典』(河出書房新社)より


 明治22年1月27日の『朝日新聞』に掲載された、各種営業税雑種税の布告記事中に、
 「荷積大七大八車 同(壹輛) 同(一ヶ年税金)六拾銭」
 「同中小車 西洋形小車 同 同 三拾銭」
 「中小板車 同 同 貮拾銭」とあるのを見つける。どうやら「枠車」は「西洋形小車」の中に含まれてしまうようだ。辞書の項目に無いのはそのせいか。