傘がない

昭和20年6月だって雨は降る74万2千おまけ


 井上陽水の名曲、「傘がない」が出たのが昭和47(1972)年。
 濡れて行くしかない歌の世界とは違い、今時の都会なら、コンビニ、バスの車内で、安物の傘が手軽に買える。そこいらのアパートに目をやれば、ホコリをかぶった持ち主知らずの傘が立てかけてある。道端・ゴミ捨て場にだって、恋人のところに歩いて行くくらいには役に立つ、ボロ傘の一本や二本は転がっているだろう。歌が世に出て45年、日本は豊かになった。

 総督府の「ぬか床」―古本の山―をかき回していたら、昭和20年6月の『週報』(6月6日号、通算446号)が出て来る。

 主な記事は、
 「戦時教育令の解説」
 (『本土決戦』に備え、上は大学から下は国民学校までの学生・児童・教職員による『学徒隊』を組織、『学徒』は食糧増産・軍需生産・防空防衛・重要研究に従事し、それらに特化した教育を受けるとした)

 「国民義勇隊問答」
 (『生産と防衛を直結する行動隊』として、地域ごとに結成される『市町村国民義勇隊』、官庁・会社・工場ごとからなる『職域国民義勇隊』についてのQ&A。『事態急迫の場合は戦闘隊に転移』する。
 ”戦闘隊”がどのような組織で、どう云う戦い方をしようとしていたかを知りたい方には、『日本本土決戦―知られざる国民義勇戦闘隊の全貌』(藤田昌雄、潮書房光人社)と云う面白い本がある)

 「農村防空体制の確立」
 (食糧増産のため農民各自が持つべき心構えと、敵機跳梁下における『麦類の収穫』、『稲作』『甘藷作』『その他の作物』についての留意点を述べてある)

 の三本だ。
 表紙に記載のある「七生報復あるのみ」は、情報局総裁下村宏の綴る、国民に、戦災を乗り越え戦意高揚とさらなる増産を呼びかけるコラム。もちろん「報復」する相手はアメリカだ(笑)。

 戦争末期の、痛すぎる強がりに満ちた「兵器生活」好みのネタ記事なのだが、今回取り上げるのは、この号の末尾に載った「決戦生活―こうもり傘」と云う、「農商省」―昭和18年、商工省の一部(多くの機能は軍需省に移行)と農林省が統合・改名した省庁―名のカコミ記事である。


 例のタテヨコ変換その他の処置の上、全文を載せる。

 平素は用のないこうもり傘も、雨が降るとなると、これが、通勤者にとってどれほど大切なものであるかはいうまでもありません。
 その大切なこうもり傘も、戦局の苛烈さにつれて、生産数量は極度に少なくなり、従って一般需要者に対する配給数量も年を追うて激減しておりますが、一方罹災者に対する特配とか、増産戦士に対する報奨という新しい需要も生じておりますので、こうもり傘がなくて困っていても、買うことの出来ない人があるという状態にあることは、已むを得ぬこととは申せ洵に残念な次第です。

 現在工員用としては、別に工場事業場宛に配給しておりますが、一般需要者に対しては、乏しい乍らも、隣組を通じて通勤者の方だけに購入券を配布し、農商省の指定販売店に於て、原則として古傘と引換に新傘を入手し得る仕組になっております。

 今日、こうもり傘の軸棒は、鉄に代えて木で出来ておりますが、また鉄骨に代えて竹骨製のものも近くお目見えすることになりましょう。一本のこうもり傘にも決戦下貴重な資材や労力が費やされているのですから、その使用方法にも十分心を用いたいものです。
 例えば傘を披(ひら)く時、さばきをよくするために、手元を捻じたり、振ったりすることが見受けられますが、これでは大事に使えば二十年間はもつこうもり傘を、あたら五年か六年で役に立たなくしてしまうことになります。使用後手元を下にして立てかけることも、こうもり傘の寿命を保たせる方法です。骨が折れたり布が破れたりした場合にも、その修理はなるべく早めに致しましょう。

 ところがその修理をしようにもなかなか直ぐに出来ぬという困った状況にありますので、この方面についても対策を色々と考えて実行に移しておるのであります。
 まず修理更正施設組合や物資更正協会で、共同作業所や総合工作所(こうもり傘のみならず鍋釜や履物等をも同時に修理するところ)を設置したり、巡回修理班を組織したりして、修理が適正な料金で、確実且つ迅速になされるように図ったり、また修理の機会をなるべく公平に一般家庭に与えるために、修理券を隣組等を通して配布したりして、一般の便宜に供するようにしております。

 大事に可愛がってこうもり傘の天寿を全うさせてやりましょう。(農商省)

 日本の将来の問題が、密かに・深刻に(2月に首相経験者が宮城に召し出され所感を述べ、近衛文麿は『上奏文』を提出している)語られ、戦死する若者は後を絶たず、空襲は地方にも拡がる。
 そんな切迫した時局でも、国家は傘の心配をしなければならない。「核の傘」でない、ただの「こうもり傘」の!

 腰の低い文章だ。
 傘が「通勤者」(つまり軍需産業従事者か役人)と空襲「罹災者」へ廻されて、他の国民に行き渡ることが無い事態を「已むを得ぬ」と、開き直りつつ―彼らのあずかり知らぬ所で開戦が決まったのだから、そう書く気持ちも解らぬではない―も、残念なことであると同情を寄せる。「戦場で傘をさしてる人が居りますか」と叱咤激励しても不思議ではないのに、せめて修理の機会くらいは公平になるよう努力しています、と不便を耐えしのぶよう懇願しているのだ。

 24年前に米騒動(大正7(1918)年7−9月)があり、40年前には日露講和反対の日比谷焼き討ち事件があった。昭和の初めまでは労働争議・小作争議も起こっている。第一次大戦でロシアでもドイツでも革命騒ぎになったではないか。日本で一揆打ち壊しが起こっても不思議では無く、そうなればもう戦争どころではない。傘ごときで騒擾を起こさせたら、農商省の責任だ。そんな考えが透けて見える。
 なぜ国民は、こうまでなっても大人しくしていたのか? 改めて考えると疑問だらけだが、現在の日本国民が、当時の性格のままだったら、多少の失政・失言も見逃してくれるだろう、とムシのいい事を思っている政治家は、与野党問わず何人でもいそうな気はする(笑)。

 見逃せない記述もある。
 限りある傘が、「増産戦士の報奨」と云う「新しい需要」に廻される。やはり愛国心・敵愾心だけで働くのにも限度はあったのだ。傘だけが御褒美に使われたわけではあるまい。
 その傘自身も、金属節約のために軸棒(石突と手元の間、和傘は『柄』)が既に木で作られていると云う。金属材料が使われる前の洋傘が、クジラの骨と木で出来ていた話や、現代の高級傘の中軸が、樫の木を扱い慣れているステッキ職人によって作られている事を知っていれば、昔のやり方に戻っただけの話に過ぎないのだが、日頃金属のシャフトしか見ていない主筆は、驚いてしまうし、中軸は木になっていても、それでもまだ「骨」は金属―「竹」にしたモノが出回ろうとしているが―である所に面白さを感じる。
 「竹骨のこうもり傘」まで来ると、もう洋傘と和傘のハイブリッドである。骨に張るのは布(スフ混じりで大丈夫だったのか?)か、やっぱり紙なのか、興味は尽きない。

 傘は、「大事に使えば二十年間はもつ」とある。主筆の場合、5−6年すると誰かが持っていくか、呑んだ帰りに置き忘れ(酔っているから無くした場所がワカンナイ)ているので、この20年、傘を捨てた事がない。
 それはいい事だろうか?

(おまけの参考文献)
 『傘 和傘・パラソル・アンブレラ』(LIXL出版)
 原本はINAX出版が1995年に出していたもの。仏塔頂部の「双輪」や、傘の上でモノを回す「太神楽」など傘の周辺についてのユニークな記事に、古傘の美麗な写真も多数載っている本。日傘ではあるが木の中軸を持つ傘の写真も載っている。高級傘の中軸がステッキ職人によって作られる話は、この本の「傘をつくる/和傘と洋傘」(石本君代)から。

 『アンブレラ―傘の文化史』(八坂書房)
 中世ヨーロッパ・アジア・アフリカ、近世から現代イギリスまで、歴史と世界を股にかけた傘本。身近な日用品過ぎる傘も、もともとは首長・聖職者の権威付けの小道具として用いられていた事を知る(今でもエライ坊さんがお出ましになるとき、大きな傘を持ったお供が付いていくのを見ることがある)。仏塔の「双輪」はこの本にも出て来る。
 制服を着た軍人は傘をささないものだが、ナポレオン戦争末期には戦場にこうもり傘を携行していたとある。引用文に「イギリス人は傘を閉じてサドルに掛け、サーベルを抜いて、こちらの足元を攻撃してきた」とあり、第一次大戦時でも塹壕での待機時には大傘を拡げ、「前線はさながら雨の日のアスコット競馬場かとみまちがう様相を呈し始めた」。観測時の日除け・雨よけには、あれば便利だろう。

 戦時日本の傘事情がわかる本は、あるのか無いのか…。