交通安全みんなの願い

『軍用自動車学教程』(昭和19年)掲載「心得」で74万8千おまけ


 運転免許をいただいて30年近く経ちました。かつては消費者金融の申込、今は不在郵便の受け取りに重宝してますが、本来の用途に使ったコトがありません…。

 遠出などしますと、今、車窓からチラと見えた景色・建物をもっと良く見たい! 四輪・二輪車があれば次の休みにひとっ走り…と思います。しかし、建物があれば立ち寄り汲み取り口のありかを尋ね、道端に猫を見れば近寄り手を伸ばし逃げられないと気が済まない性分です。こんな人間が乗り物を転がした日にゃあ、周りと自分が危なっかしくて仕方がありません。

 いとうせいこう・みうらじゅんの『雑談藝』(文藝春秋)に、

 みうら (略)ものを探しながら歩く人に、車は向いてないんですよ。車は目的地だけがしっかりしてる人じゃないと、命預けられないですもん。いちいち「シンス発見!」「飛び出し坊やだ!」とか言ってたら、交通事故バーン! でしょ?

 そして、「本当は、『サンダーバード』のペネロープ号みたいに運転手を傭って『そこ、お止め』っていうのが、僕のやっている仕事に向いているのよ」と思いを述べているのを読み、さすがはみうら先生だと感激しました。

 今の日本では、一家で・個人で自家用車を持ち、所有者自身でらドライブする社会ですが、乗用車が「馬なし馬車」として世に出てきて、上流階級が運転手付きの自家用を走らせ、庶民はそれをユビ咥えて羨むしかなかった事を考えますと、戦後に自家用車を欲しがった人の半分くらいは、本当は運転手付き車で、ふんぞり返っていたかったんぢゃあないのかなあ…と思うのです。
 日本の自動車工業や、運転免許制度がちょっと違っていたら、町のあちこちに安タクシー・ハイヤーが辻待ちしている替わりに、駐車場のために庭を潰したり、街並が歯抜けにならずにすんで、日本の風景は今と異なるモノになっていたかもしれません。
 高円寺の古書展で『軍用自動車学教程』と云う、昭和14年初版、19年22版発行の本を買いました。ボロ本だったので安かったのです―他にも色々屑本を仕入れたので出費が少なかったわけではありませんが―。
 中身は、自動車教習所でちょっと学んだ(ことになっている)自動車の構造を、より細かく解説しているものです。たとえば、自動車の定義については

 自動車トハ原動機ヲ有シ其発生動力ニ依リ軌条ニ藉ルコトナク自由ニ駆動セシメ得ル車両ノ総称ニシテ(略)

 こんな固い言葉を使ってます。
 ”エンジンを備え、その動力を使ってレールを使わず、(地上を)自由に動く事の出来る車両”と云っているに過ぎません。以下自動車の各部(機関部・電気装置・操縦装置・伝動装置・車軸/車体ばね/車体/車框)の解説が続くわけですが割愛します(好きな人の小腸の長さが何メートルあって、分泌液のPHやら内容物がドーかまで追求する人もそうありますまい)。

 「保存取扱に関する心得」を読んでみましょう(以下引用部分については、例によってタテのものをヨコにして、今回は原文カタカナをひらがなに改めるサービスもつけてあります)。

 第一 愛車心
 一、自動車は「之を以て任務を達成せよ」と 陛下より授けられたる兵器なり
 二、自動車は霊ある生き物として常に愛護尊重し取扱、手入、点検、調整を完全にし絶対に自動車をこわさぬ精神を以て大切に為し握る轉把に血が通う迄に至らざるべからず
 三、自動車なくして自動車兵なし
 自動車を命より大切にし何時も休まず行動出来ることが自動車兵としての最大の御奉公なることを銘肝せよ
 四、自動車兵は自己の愛車に関しては他の者に指一本触れさせぬ絶対の自信を持つ如く努力すべし、而る後初めて愛車と運命を倶にし得るものと心得るべし
 五、自動車を取扱う兵は特に精神の修養を肝要とす 油断、不注意、不勉強は事故を起す最大の原因なり
 (第二以下略)

 帝国日本の軍用自動車の本ですから、「陛下」の文字があり、車が「兵器」であるのは不思議ではありません。しかし自動車=任務達成の道具、と云う定義が新鮮です。そう云い切っているにもかかわらず、「霊ある生き物として」取り扱えと説いているトコロに、日本は多神教なんだなあ…としみじみ感じ入ります。「握る轉把(ハンドル)に血が通う迄」来ますと、もう『愛馬進軍歌』の世界に車輪が嵌ります。

 心得の最後には、「自動車保存取扱ニ関スル母音訓」が掲げられています。


自動車保存取扱に関する母音訓


 ア…愛車は常に完全に
 イ…いじり廻すな考えよ
 ウ…運転日誌は確実に
 エ…エンジン機構に異音はないか
 オ…オイルグリース螺子の緊定

 「いじり廻すな考えよ」は含蓄があります。車の不調に際し、やみくもにいじくり廻して収拾がつかなくなる事例がたくさんあったのでしょう。「兵器生活」ネタ作りにも通じる気がしてきました。
 ほかは日常の心得となる事ばかりですね(今時の自動車ならネジがすぐに緩んだりはしないのでしょうが…)。


 「燃料油脂節約に関する心得」を見てみます。

 第一 常に心掛くべきこと
 1.深く時局を認識すべし
 2.「ガソリン」の一滴は血の一滴
 3.燃料油脂こそ愛車活動の「エネルギー」なり、任務必達の原動力なり
 4.節約奉公は周到なる注意心と旺盛なる責任観念に依る
 (第二以下略)

 よく聞く、「ガソリンの一滴は血の一滴」が載っておりました。ちなみに私は、「酒の一滴は血の一滴」とひねり、呑み会で使っております。


 自動車そのもの、燃料使用についての心得が済みますと、いよいよ運転に関する心得となります。
 「危害予防に関する心得」は、”要則”、”停止間”、”行進間”それぞれの局面で、運転者が持つべき心構えを50項も揚げているものですが、全部お読みいただくのは心苦しいので、面白そうなところををいくつか載せてみます。

 危害予防に関する心得
 第一 要則

 第一 操縦を誤り事故を生起せんか其の結果只に人道上の問題を惹起し自動車を毀損するのみに止らず遂には自動車兵の任務を達成し能わざるに至る
 故に吾人は絶対に事故を防止せざるべからず
 第二 自動車事故の大部分は操縦手の注意に依り避け得るものにして不可抗力的なる原因より生起する事故は殆ど皆無なり
 故に操縦手は「常に注意してさえ居れば事故は絶無なり」との信念を以て操縦せざるべからず
 第三 自動車事故予防に関しては典令範及諸法規を厳守し常に自動車を完全ならしむると共に本書の注意事項を忠実に遵守せざるべからず

 軍隊の文章(これら『心得』は、陸軍輜重兵学校で編纂されたものの由)で、「人道上の問題」なんて書いてありますと、スワ戦争犯罪か! と色めきたってしまいますが、ただの人身事故です。軍隊らしく、”任務”>”自動車”>”人命”と云う、ものごとの優越づけが良く判ります。
 事故の大部分は「注意に依り避け得る」、「不可抗力的なる原因(略)は皆無」と断言しており、実に心強いものがあります。70・80代の高齢ドライバーが自動車を暴走させてしまう世の中が来るとは、ヘンリー・フォードと雖も予想出来なかったんじゃあないかと思います。

 第四 本書に掲げる各条項は一々過去に於て苦き貴重なる体験より得たる教訓なれば克く思を茲に致し忽にすべからず

 「苦き貴重なる体験」から得られた教訓、文字通りの血と涙の結晶なのですね。いくつか見ていきましょう。

(第二 ”停止間”は割愛)

 第三 行進間

 第十四 危険の虞ある場合は直ちに停止すべし
 停止は事故予防唯一の方法にして操向にて之を避けんとするは事故の原因なり

 危ないと思ったら、まず止まる。自動車に限らず、歩行者・自転車・車いすにもあてはまる所です。駅のホーム、階段・エスカレーターなどで起こるすれ違いざまの接触(に起因するトラブル)は、まさに「操向にて之を避け」ようとして、やり損なった結果と云えます。

 第十五 老人子供は自動車事故相手の大半を占むるものなり故に老人子供を見るときは赤信号なりと思い慎重に其の行動を判断し如何なる動作に出ずるも絶対之に触れざる如く制動準備を為し若しくは手前にて減速の後通過する如く十分注意すべし、子供の俄に自動車の直前を横断して道路反対側の母親の許に駈寄る等は極めて有り勝ちの行動なり

 「老人子供は赤信号」、これもまた味わい深い言葉です。「子供の俄に自動車の直前を横断して道路反対側の母親の許に駈寄る」のは21世紀の今でも見かけます。昔は道路の巾が広くなかった事を思いますと、運転者はやりづらかったんだろうなと同情を禁じ得ません。
 
 第二十一 犬猫、鶏等を避けんとして操縦を誤り却って大なる危害を惹起するが如きことあるべからず

 小動物を避けて車が全損するよりは、バンパーの傷凹みとタイヤが酷く汚れる方を選ぶのを推奨しています。軍隊の任務に流血が避けられぬ以上、腹を決めろと云う事でしょう、

 第四十八 夜間操縦に於ては特に責任観念を旺盛ならしめ睡眠を謹み精神の緊張を図るべし

 「睡眠を謹み」の一言で居眠り運転が防止出来るのなら、世の中苦労はしません。今日なら適度の休息・仮眠も許されるところでしょう。将校は、部下に充分な休息を与えるよう心得ておかねばなりますまい。

 「危害予防に関する心得」の結びには、「自動車事故防止神訓」が載っています。事故防止の実現は、”神”の力に頼るしか無いのでしょうか?


自動車事故防止神訓

 一、先ず神に祈ること
 二、心は常に平静に保つこと
 三、自動車の整備は常に完全なること
 四、無闇に急がぬこと
 五、交通規則を守ること

 最初が「神に祈る」で驚いてしまいます。今回、ネタにした理由は、これを紹介したいがためなのでした。その是非はさておき(私は、これを以て「日本軍は神がかり云々」と批判するつもりは毛頭ありません)、他の項目は、今でもそのまま通用します。

 「自動運転」が、明後日くらいに実用化されるかのように、喧伝される今日この頃ですが、人間がハンドルを握る限り、この「神訓」は、この先未来永劫有効と云えるでしょう。
 あなたの車に、交通安全のお守りはブラ下がっていませんか?

(おまけのおまけ)
 「交通安全のお守りの元祖」ってドコなんでしょう?
 気になってしまいました。安直にウェヴ検索をしてみますと、「谷保天満宮は交通安全発祥の地」と書かれたページがありました。いわく、

 「有栖川宮威仁親王殿下台臨記念」の石碑は、明治41年8月1日に、宮様ご先導による「遠乗会」と称されたわが国初のドライブツアーが谷保天満宮を目的地として開催された証です。
 宮様御一行は拝殿に昇殿参拝の後、帰途に就かれ、故障や事故もなく無事に東京に戻られました。
 谷保天満宮が交通安全発祥の地たる所以です。

 当時の新聞記事を探してみると、『朝日新聞』明治41年8月3日付に「自動車遠征隊 大将自ら把手(ハンドル)を執り給う/日本には初めての壮遊」の見出しで記事がありました。

 8月1日、「有栖川宮殿下の自動車乗用御奨励の御志しに基き東京に於て自動車に趣味を有する人々」が、「8時半頃一同日比谷公園集合」、麹町区三年町の宮邸に参邸。殿下運転の「ダラック号(価格1万5千円)」を先頭に、修繕用、貨物運搬の支援車両を含む11台が隊列を組み、新宿を経て甲州街道を立川(『東京日日新聞』8月2日付記事では、『多摩川の沿岸立川町の日野』)までドライブしたのでした。
 一旦休息して谷保天満宮に入り、境内に設えられた「立食場」にて、一行は「殿下より御弁当を賜り、ビールやサイダーは傍らの清水に投げ込んで冷(ひや)こくなって居るのを」楽しみ、長岡少将(長岡外史と思われる)が「軍隊では将来之(自動車)を砲車にも輸送車にも用いたい」と語り、矢野恒太(第一生命の創始者)が「馬車人力車は此忙しい時代に仕事をする人の乗用車としては実に非文明的で又不便である」から自動車がとって変わるべきだと気焔を挙げたとあります。
 演説中に雷が鳴り出し、雨が降りそうになったため、神社拝殿を拝借したと記事は続けています。

 ビールが何本空いたのかは判りません。何名か酒気帯び運転―欧化した上流階級の方々にとってビールは酒ではないのかもしれません―で無事故帰還したと考えますと、谷保天満宮の「交通安全発祥の地」が、今後も揺らぐことはないでしょう。 


谷保天満宮境内

(おまけの余談)
 『朝日新聞』記事には、有栖川宮所有のダラック号以外の「当日参列した自動車及重(おも)なる人々」が記載されています。

 ハンバー号(渋澤栄一氏所有)中上川勇五郎、中上川小六郎、日比谷祐造、日比谷平吉、日比谷平太郎
 東京自働車製作所製作車第四号(中上川次郎吉氏所有)同氏、長岡陸軍少将、中上川三郎吉
 同上第七号(森村市左衛門氏所有)矢野恒太
 同上第八号(日比谷平左衛門氏所有)中上川鉄四郎、高田正一
 フォード号(小栗彦太郎氏所有)同氏、玉置博
 マセソン号(古河虎之助氏所有)吉田眞太郎、長谷川銕太郎、村井吉兵衛、村井貞之助、日比翁助、溝口伯爵令息、曽我子爵令息
 フヒヤット号(大倉喜七郎氏所有)同氏、佐々木伯爵令息、同夫人、森村開作、同夫人、日比谷つる子、中上川みち子
 此外 ハアバー号は修繕車として三越のクレメンテ号は貨物運搬車として参加した

 記事には11台参加とあるのですが、このリストに宮様の車を足しても10台にしかなりません。「此外」として記された”労働車”が、二種3台いたのかも知れません。
 『皇紀二千六百年記念国産自動車全史』(オートモビル社)に、明治42年警視庁調査の東京市自動車リスト(所有先つき)が載っており、三越呉服店は「クレメント」12馬力、10馬力各1台の貨車と、ベンツ30馬力幌型の乗用車1台を所有しています。三越専務の日比翁助が2台とも連れてきたのでしょう。
 新聞記事にはサポートカー運転手の名前は載っていません。紳士貴顕のロング・ドライブは記事ダネですが、職業運転手は、立食場の給仕や同行の写真屋ともども”黒子”なので、”存在しない”から記載のしようが無いのでしょう。
 「フヒヤット号」なる、人を小馬鹿にしたような車は、現在”フィアット”と表記されます。女性陣含め7人も乗っています。他の車よりも乗り心地が良かったのでしょうか。持ち主の大倉喜七郎は明治42年当時、一人で4台の自動車(うち一台は”競争車”)を持っていました。

 「東京自働車製作所製作車」は、日本最初のガソリンエンジン搭載自動車「タクリー号」として、日本自動車史上に名を残しています。有栖川宮の車を修理した技師に「お前は自動車を修理することは出来るが、自動車を作ることは出来ぬか」のご下問に応えるべく製作されたもので、そのご威光もあって明治40年には一挙17台を生産しますが、舶来品の牙城を崩すことは出来ず、自動車発達史上の特異点止まりに終わります。


谷保天満宮梅林の有栖川宮記念碑(左)と「タクリー号」