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『廃物の利用と更正』で76万8千おまけ


 「兵器生活」を顧みれば、ミリタリー趣味・昭和リスタルジー趣味から見放された、ゴミ同然―安かったり、そうでもなかったりさまざまですが―の事物を、今いちど甦らせる試みだと云える。

 戦後教育が否定した戦前・戦中の言説を、ひとときの娯楽として世間さまにご紹介し始めて20年近く経つが、昨今の世の中の風潮が、それらを産み出された時代に近づいている、と云われるにつれ、その片棒を担いでしまったのではないか? と、少しばかし青ざめてもいる。

 『金属・硝子・陶器・紙/竹木製品・雑品類等 廃物の利用と更正』(光文書院 昭和21年3月刊)と云う冊子を買う。


『廃物の利用と更正』

 戦争に負ける。住まいが無くなる。衣食住は不自由になる。モノがなければ(古本屋・骨董屋に戦前のモノがボロボロ出るようになり、地方では必ずしもそうではなかったのでは? と気付いたのは、最近のことだったりする)廃物の利用・更正が喫緊な課題となり、この手の冊子が出るのも道理だ。

 「廃物の利用」と題された巻頭言は云う(以下、例のよってタテヨコ変換、仮名遣い変更等を施してある)。

 廃物の利用
 世に屑とか廃物とかいうものはない筈である。廃物は物資のあり余って科学の進歩せぬ時代に存在したもので、人智の進んだ現代に廃物があろう筈がない。故に「廃物を作る国民は、科学的ならず」と断言すべきである。
 顧みて我国の現状は如何!! 各家庭は勿論、学校に、工場に、街路に、山谷海辺に如何に多量の物資が廃物として無駄に横たわっていた事か。
 之を更正利用すれば、その利益は頗る大きく、国家の資源を増殖する事となるのである。
 家庭の経済生活が戦後の国家経済につながりを持つことを、はっきり見定めねばならぬ。

 ホントに世の中に屑とか廃物なんかあり得ないのかはさておき、食品ロスだ不法投棄とニュースになる以上、令和元年になっても、日本人は「科学的ならず」と云わざるを得まい。
 「家庭の経済生活が戦後の国家経済につなが」ると大きくブチ上げる、この冊子には、どんな「利用と更正」が記されているのだろう?
 目次(一部項目が抜けていたので、本文から補なっている)は、こうだ。

 (1)金属・硝子・陶器類の更正
  古壜を計量瓶に応用
  ビール壜の切り方はどうしたらよいか
  壜の口金で玩具を作るのには
  空缶を御飯蒸しに活用
  空缶を柄杓に作り直すには
  古電球を水入れに代用
  使い古しのペン先が貯まって土瓶敷
  ペン先から小匙に早変わり
  古バケツを炬燵・行火に作り直す
  古バケツの再利用
  破損陶器(水がめ)を米櫃の代用に
  土瓶を如露代用に
  アルミニューム製品の利用
  折針を立派な鏝に
  束髪ピンの再利用
  古鏡応用のネクタイかけ

 (2)紙類の再生
  古新聞紙応用の鍋敷
  古新聞紙をかき餅乾かしに利用
  古葉書を鉄瓶敷に
  書き損じ葉書の二度使用
  古封筒から簡易封筒に
  ボール紙製の空箱を塵取に利用

 (3)竹木製品類の再生
  古筆を糊刷毛に再生
  古箒を手拭掛けに
  古杓子をホークに再生
  板切利用の黒板と椅子
  一升升の不用なものでタバコ盆を作る

 (4)雑品類の再生
  古洋傘を座布団に更正
  靴磨きにはぜひ古楊子
  ゴム鞠の利用法
  古靴の利用法
  古土管で門柱
  パス入れに配給券を
  屑かごをふやし能率をあげる
  抽斗がきしむ時は石鹸をすり込む
  毛糸を巻くのに洗濯バサミと鍋を利用
  洗髪に古洋傘の布を
  カラーが破れたらどうする
  瀬戸物の長持ちに灰汁の利用
  スフ製運動靴の補強に柿渋
  蜜柑の皮は捨てずに洗濯に
  古布を新しい布に若返りさせる法
  炭俵を畑の代用に

 「戦後の国家経済」にドー繋がるか、正直わからない事ばかり載っている。
 「焼け跡から電線を拾う」、「壊れた電動機から銅線を取り出す」ような、資源を回収して"豪快に稼ぐ!"のではなく、つつましく、そしてどことなくケチ臭い「暮らしの工夫」の数々ばかりだ。
 しかし、再三読み返せば、「いつか役に立つ可能性も皆無とは云えぬ」気にもなって来る。何より「今月の更新は待ってはくれない」。

 中身を見てみよう。

 古壜を計量瓶に応用
 薬瓶には大抵度盛り線がついていますから この空瓶などは石炭酸(註:フェノール)や、硫酸水等の薬品類や染料等に水を混合する時用いますと大変便利です。例えば三倍の水に溶かすという場合には三度盛の所まで水を入れ、それから薬品を一度盛入れるという風にすると、正確に調合が出来ます。

 計るモノが容易に入手出来るのかはさておき、わかりやすい廃物利用例だ。それが次の項目になると、

 ビール壜の切り方はどうしたらよいか
 ビール壜は底の方をガラス切りで切るか、アルコールに浸した木綿糸を巻きつけて、火をつけてよく燃やし、糸の下が熱くなった時 急に水の中へ瓶をつけますときれいに切れます、こうして出来上がったものは花瓶の代わりにしたり、コップの代用などにしたりしますと、なかなか味のあるものでございます。

 ビール瓶を切断して花瓶をこしらえるので「?」となる。コップ代わりにするのは良いが、手や口を切ったりしないのか心配になる。
 何年か前、友人と渋谷駅横のデパートの総菜売場でテキトーに旨そうなモノを買い、缶ビールとお酒をブラ下げ、近くの神社で一杯やったことがある。コップが無いので空き缶をナイフでザクザク切り倒し、そこに酒を注いで呑んだ。それほど呑まなかったので怪我はしなかったものの、4合瓶があと一本もあったら、舌先か唇を傷つけていたかもしれなかった。

 水を呑む・くむ器は、無いと確かに困る。

 古バケツの再利用
 バケツの底が腐食して所々に小穴が出来て、そこから水が漏る場合は、はんだを塗ったり、真綿を詰めたりするのは、一時的の修理にしかすぎません。之を根本的に繕って再び役に立てるには六分板で底の直径から約二分程小さな円形の板底を作り 之をバケツの中に入れ、その周囲には真綿を出来るだけ固く詰め込みます。
 こうしますと又当分使用することが出来ます。

 昔のバケツは、そんなに質の悪いモノだったのか? 品薄で古いのを使い倒すしかなかったのか(防空用にいくらあっても足らなかったと云われれば納得はできる)。
 他には、「子供の丸い弁当箱は(略)とりて(註・取っ手)をつけますと旅行用の水呑器となり、登山の際などは極めて必要です」なんてモノも紹介されている。登山する余裕なんてあったのか?

 実用性があるのか無いのか判りかねるものもある。全文書き写すのも面倒なので、いくつかの要点だけ抜き出す。

 古電球に穴を開け「中に摘み細工の人形や造花やまりなどを入れますと美しい壜細工になります」。
 同じく電球の、「先の尖った所に小さい穴をあけ、そこから水を半分位入れて横にして(略)硯に水の必要な時には思いのまま出す事が出来まして便利」ともある。「只穴をあけようとしますと破裂します」と云うから、実行は難しそうだ。

 使い古しのペン先は、「先を叩いて平たく」して粉絵具や粉薬を調合する際の小さじに転用できると云う。あるいは「相当に貯まったらその穴に細い針金か三味線の糸のような強い糸を通して円形にまとめると中々体裁のいい土瓶敷きが出来ます」とも。

 熱いモノを置くための敷物は、ペン先の「土瓶敷」から、「古新聞紙応用の鍋敷」、「古葉書を鉄瓶敷に」と、手を替え品を替えて出て来る。


古新聞紙応用の鍋敷


古葉書の鉄瓶敷

 敷物ひとつ作るのに、古葉書を70枚ほど使うと云う。主筆の人望(もらう年賀状の数)で考えると、鍋敷きひとつ出来る前に寿命が尽きてますね。
 「鍋敷」「鉄瓶敷」「土瓶敷」いちいち区別するのは大きさの問題らしい。それぞれ別な廃物を使う必然があるとは思えない。

 アルミニュームの「小型のお菜入れは石鹸入れに大変適しています。底に針で穴をいくつもあけてから用いるとよい」になると、かえって勿体ない気がしてならない。

 こんな廃品再生のやり方もあったのか! と感心するものもある。

 折針を立派な鏝に
 針の折れたのや曲がったのや、穴の欠けたのは、之を歯磨粉の中に入れるか又は油紙につつんで錆びないように保存して置き、幾年か経ったら鍛冶屋にやって鏝を作らせます。
 針はむやみに捨てますとあぶないですが、こうすると危険もなく、知らず知らずの中に立派な鏝が出来上がってまいります。

 「もんじゃ焼き」のコテひとつこさえてもらうのに、何本の針が必要になることやら…。今時の鍛冶屋さんが、こんな仕事を引き受けてくれる保証はありませんが、冊子の持ち主はアテがあったのか、この項にマルをつけている。

 古土管で門柱
 土管の古いのを利用して門柱などを作ると案外面白いのが出来上がります。古土管二個を積み重ねてもよいし、一個立ての低いものでもよいと思います。(略)土管の中には土を入れ、小さい庭木か草花などを植えますと一層野趣のあるものとなります。
 土管は又庭の中とか花壇のふちに壊れた土管の大きい口の方を上に向けて埋め、その中に土を入れて草花などを作ったのも大変面白いと思います。

 どこかは忘れてしまったが、細い土管か鉄製の水道管みたいなモノを立ててる家を見た記憶がある。草花が植えてあったかまでは覚えていない。

 炭俵を畑の代用に
 炭俵の空いたのを凡そ一尺三寸位の高さに切り 之を台所の側へ備えて置き塵芥(ちり)をこの中に捨てて凡そ三四寸位たまった時土を一寸位入れて更に塵芥(ちり)を上から捨てる。七寸位になった時又五寸位土を盛る。それから野菜の苗を植えます。それからはこの畑を日の当たる所ところへと移転させる。どんな日当たりの悪い家でも炭俵の大きさ位には日の当たらない所はないからこれで十分育ちます。
 この畑に植える苗は茄子、隠元豆、胡瓜、トマト、二十日大根、三つ葉等がよいのです。

 底面の直径が何センチくらいなのか判らぬが、深さは40センチ弱にはなる。ちょっとしたポータブル農園だ(主筆は家庭菜園趣味を持ってないので、どれくらいの収穫が見込めるかは全くわかりません)。
 この冊子は以下の言葉で結ばれている。

 要は家庭の主婦たる者が率先して物資活用を行う事です。この事が直ちに一家族に倹約と節約の美徳を伝えることとなるのです。廃物を如何に更正するかは時局下家庭婦人の益々研究を要する課題でありましょう。

 「生き抜くための廃物利用」を真面目に考えるなら、家庭の主婦だけでなく、通勤経路と云う"狩り場"を持つ「一家の主人」も、使えそうなモノが転がっていないか、鵜の目鷹の目で探させるべきだろう。大のオトコがゴミ拾いなんか出来るか! と云うことか?
 「時局下家庭婦人」のモノ云いと、ビミョーな「利用と更正」例を考えると、敗戦前に出た類書を寄せ集めて編集したシロモノではないか? と思ってしまう。

 本冊子がどことなくケチ臭いのは、目の前の「廃物」を見て、無理やり使い道を考えるからだろう。茶人が、「廃物」(取るに足らぬモノと云うべきか)の形状・質感に美を見出し、花入れに転用するのとは、出来たモノが同じだとしても、方向性が全く違う。
 「廃物」にする前に、本来は修理して、モノの使い道通りに使いつづける事が本筋というものだ(使い捨てライターなら、ガスを入れて再利用するように)。

 究極的なリサイクルは、分子レベルにまで分解・結合しなおして、原材料そのものに再生することだ(それで『世に屑とか廃物とかいうものはない』が実現する)。「針を鏝に作り替える」とは、まさにそれであり、ゴミの分別収集もそれに至る道なのであるが、コンクリートやプラスチックを文字通りに再生する技術が完成したとの話は聞いたことが無い。

(おまけの余談)
 「ドリルを買う人が欲しいのは穴である」という言葉がある。
 何のための「穴」か、まで考えれば、ドリルでは無く、別なモノを提案した方が顧客満足につながる事を意識させるコトバだ。
 ある目的を達成するために、「代用品」―廃物再生―を考え出すのは立派な創意工夫である。しかし、廃物を捨てる惜しさに、珍奇な再生方法をひねり出すのは、やはり無理筋だと思わざるを得ない。

 わが「兵器生活」が、イマイチ世間様の目を惹かないのは、ネタありき―「プロダクトアウト」―な執筆に起因するのではないか? と、今回の記事を作りながら感じたのである。
(おまけの注意)
 読者諸氏が、本稿で紹介した廃物更正を試みた結果、何らかの支障を生じさせても、主筆を初め総督府は関知しない。