まつたけたてて

戦時中の門松擁護論で79万7千おまけ
(戦時中のものでは無いことが判明した。ただし以下本文はあえて訂正していない)


 「コロナウィルス」にかき回された2021年であった。
 古書市はやらないし、電車に乗って出かけるのも後ろめたく、ちょっと残業すると(料理屋が閉まり)晩飯が貧相になる。ネタの仕入れがままならず、「兵器生活」が成り立たなくなるのではないか、とさえ思ったものだ。
 来年は読者諸氏ともども、良い年であるよう祈る。

 江古田の古本屋の店先を漁り、こんなモノを見つける。


『かどまつ論』

 裏に、「日本道義振興会 儀典研究部 木村清」とある。日本道義振興会も木村さんも不詳。
 安かったので買って帰り、読んでみると面白い。毎月ネタ探しに悩むのが常だが、12月―年末の―更新に使えると小躍りする(そこを逃すと来年の終わりまで使うトコロが無い)。
 と云うわけで、『かどまつ論』を紹介する次第。例によってタテをヨコに変え、仮名遣いを改め、読点代用の空白の追加などやっている。

かどまつ論
まつたけたてて かどごとに(松竹立てて 門毎に)

 かどまつを立てましょう
 門松の謂いは兎角、我が祖国の正月を象徴する最大の行事であった。ところが最近になって これを廃止するとか印刷物を以て代用するとかの暴論が出て来た。而もそれが新生活運動の一端ででもある様な 浮薄な言辞を弄するのである。
 其の言うところを聞けば 「経済的事由から来た資源愛護運動」と 「旧慣打破ないしは迷信の払拭」にあるようで、まことに国民志操を抹殺する 幼稚な而も売名的な愚論である。第一門松の用材を数学的石数に割出し 之を節用すれば住宅が何千戸建つといった様な話である。元来門松用の竹木は其の用途に用うるために簡抜、枝打間引、門松林業者よりの用材、及び薪炭の残材、等の如く一種の廃物利用である。
 この農山村の廃品に対して 資源愛護又は植林破壊の名の下に門松廃止が主張されることは 農山村の正副業を壊滅し貧窮を招来する暴論である。資源愛護とか国家経済の面からは むしろ門松材の盛んなる切出しは農山村の発展のため むしろ奨励されねばならぬ必要産業である。
 国民の負担軽減を云々する程の耐乏生活が必要ならば 総ての日常生活に 良識ある人は顧みるべきである。
 狭い道路に外国産の自動車を用い 一回千円のパーマをかけ 外国産の化粧品を用いる 都会人士の生活こそ反省すべきである。庶民経済は経済の循環である 単に門松を立てると言うことは それに依って農林業者を生かし運輸業者を生かし街の門松屋を生かし標縄(しめなわ)の製産業者や農業の副業を生かすことである。
 この循環経済は 国外に一銭も出すものでないものを知って置かねばならぬ。日本文化は 門松の新鮮にし神々しくさわやかなる 初日の光のかげろうところから始まる 日本人は総て 物の大小を問わず戸毎に松を立てるべきだ。

 筆者は怒っている。新春の象徴、門松の廃止、あるいは印刷物での代用を求める論が出て来たと云うのだ。
 神国を標榜・喧伝し、国民に戦勝・武運祈願を行わせている傍ら、神様を迎え奉る新春の門松を自粛するとは何事だ! 「資源愛護」と云うが、門松にするくらいしか使い道の無い「廃物」を締め上げ、生産地、加工業者、運送業者、販売者―今風に呼べばサプライ・チェーン(!)―が、それぞれの日銭を稼ぐのも許さぬと云うのか。
 かつて「割り箸」が、熱帯雨林の破壊・森林資源の無駄づかいと批判された事があるが、その時なされた反駁に通じる理屈を並べ立てている。

 純真素朴な農山(漁)村と、軽佻浮薄な都会の対立を煽る言説は珍しくもないが、この語り口はユニークだ。外車・舶来の化粧品はさておき、「一回千円のパーマ」は豪快な空振りである(昭和初期の物価2千倍説に立てば『一回2百万』で、こんなカネがかけられるのは、ハリウッドの大スタアくらいなものだろう。当時の日本でそんな値をつける美容家があるか怪しい)。そして、単純なイナカVSトカイの図式こそ、村落在住にして、都会文化を享受できる階層―地主・大工場の幹部・上級役人らの存在には目をつぶり、借家貸間暮らしで、自家用車も舶来品にも縁のない都市住人の多くを無視する暴論と云える。

 余談はさておき、こう云う文書が作成されたと云うことは、「暴論」がしかるべき筋から出たと云うことでもある。
 まずは時期を特定しなければならぬ。この冊子(紙を折っただけだが)の発行者、「日本道義振興会」の所在地は「東京都千代田区内幸町一丁目二番地」とある。これは大きな手がかりだ。「東京都」の発足は昭和18(1943)年7月だから、それ以降の発行は疑いようが無い。20年の年末―敗戦の冬―に資源愛護もへったくれもあるまい。そこで18年か19年の年末に発行されたものと推測できる。19年の年末には帝都上空にもB29が爆弾を落とし始めているから、門松どころでは無い。と云うわけで、18年の年末と断定する。
 近所の図書館で当時の古新聞を漁る(実際には、端末からデータベースを見ている。便利になったものだ)。『読売報知』昭和18(1943)年12月9日夕刊に、こんな記事が載っている。
門松、〆飾は簡素に
 決戦下に迎える正月の門松、〆飾などは 出来るかぎり簡素にするとともに 我国古来の美風を失わないようにと翼賛会では九日各地支部へ次のような通牒を発した。
 ・門松はすべて小松程度のものとする
 ・〆飾りは稲穂を用いず簡素なものとする
 ・銀行、会社、百貨店、料理店、旅館などの大仕掛のものは一切廃止する
 (略)

  同日の『朝日新聞』にも同種の記事がある。
 門松は小枝で
 正月は簡素に
 決戦正月を前に 大政翼賛会では、資材、輸送関係を考慮して 簡素な正月を迎えるよう 九日各地方支部宛に次の通牒を発した
 ・門松はすべて小枝程度のものにすること
 ・〆飾は稲穂を用いず、簡素なものとすること
 ・ 銀行、会社、百貨店、料理店、旅館などの大仕掛のものは一切廃止すること
 なお実施に際しては その地方の実情に即応した方法によるも差支えない

 通牒の内容はほぼ同じだが、読売報知は「小松」、朝日は「小枝」と表記が異なる。背景は「資材、輸送関係を考慮して」だから、資源愛護よりも、それに使うコストを「生産的な方面に投入せよ」と云うのが本当のところだろう(それはそれで木村氏が激怒するトコロではあるが)。どちらの記事にも、廃止せよ、印刷物で代用せよとは書いてない。
 通牒本文には、もう少し細かいことが書いてある可能性が高い。情報局『週報』にあるのではないかと、18年12月のものをざっと見てみた(アジ歴で公開されている)が、確認は出来なかった。
 いずれにせよ、門前や玄関脇に威風堂々そびえるモノはまかりならぬと云うわけだ。

 「門松」とは記すが、主筆が思い浮かべているのは、先端を斜めに削いだ竹をたばねて立てた飾り物だ。云われて見れば周りに松もついていたなァ…という認識である。
 『古今年中行事通』(相馬直胤―奥付は『相馬敬止』―、四六書院)は、「神事としては榊を用いて居たものが、やがて松竹となったものであろう。(略)祭木なる松と直(すぐ)なる竹とに変わったもので、門松なる称呼は御門祭(みかどまつり)の松の意を含むものと思われる」(註:原文フリガナをカッコに入れてある)とあり、毎度の『婦人家庭百科辞典』は、「家々の門に松を立て、或は松に竹を添え」、「太古正月には榊を門戸にたてたのであったが、中古以降松に改まり、後に竹を添えるようになった」とある。本体然としている竹の方が添え物なのであった。
 そこまで立ち帰れば、翼賛会の指導―小松(あるいは松の小枝)程度にせよ―は、木村サンから強く非難される筋合いではない。なるほど「かどまつ論」本文を読み返せば、結びは「物の大小を問わず戸毎に松を立てるべきだ」とある。木村氏が怒っているのは、あくまでも廃止・印刷物代用なのだ。

 『読売報知』昭和18年12月31日朝刊に、こんなコラムが載っている。
 絵に描いた門松や、防空器材を組合せた門松など 決勝の春を飾る門松はいろいろと趣向をこらして暮れの家々をかざっているが、浅草区田中町三丁目町会のそれはちょっと違っている。一方は短冊ぐらいの赤紙に「必勝」の二字を大達さんの署名が入り、一方は緑色で「松」の一字と十九年元旦と書いてある。
 同町会長鈴木長三郎さんの思いつき。絵に描いたものはあまり感心しないと、大達さんに揮毫を依頼して立派に出来上がったものだ。さっそく町会の人々に配ったが、費用も安いし、誓いの気持もにじみでて評判だ。
 東京都「浅草区田中町」は「吉原」のちよっと北、今の日本堤2丁目あたりだ。そして「大達さん」とは、東京都初代長官の大達茂雄で、上野動物園の猛獣処分―『かわいそうなぞう』の背景―を行わせた人でもある。のち小磯内閣の内務大臣に転じ、戦後にも文部大臣をやっている。
  「絵に描いた門松」をやっている所があることがわかる。しかし、それが何処から出たのかまでは、調べることは出来なかった。読者諸氏にはお詫び申し上げる。
 来年の課題だ、なんて迂闊な事は決して云わない(笑)。

(おまけのおまけ)
 『かどまつ論』の後半は、「門松の由来」が記されている。

 門松の由来
 天孫降臨の際「ひもろぎ」が神々によりもたらされて以来 鎮守の森も神社の境内も「ときわ木」によって満たされた。そしてその神々しい内に神は祭られた 神代以来「ひもろぎ」を立て祖先の神の宿とした風習は 神と「ときわ木」は不離一体であるとされ「ときわ木」のない所には神は迎えられぬとの故事が生まれ その風習が門松の起源をなしたもので 日本の輝かしい伝統的国民行事として存続したのである。この風習は次第に発展して神聖の観念が生まれ鎌倉時代には幸先を祝う元旦の門に松飾が立てられるようになった。
 そしてこれなくば神宿らぬと言う国民感情まで成長した徳川時代に到って 現代の門松の形式が出来上がり 明治時代にその形式の最盛時代が来た(古来不思議なことに国歩困難な時代程松飾が栄え 大東亜戦争中の耐乏生活の中にも門松が堂々と立てられたことはまだ新しい記憶である 門松は浪費でもなく虚礼でもなく ましてや旧来の陋習でもない(門松の由来については当会にボウ大な文献がある)

 「国歩困難な時代程松飾が栄え」るのだソーだ。ならば今こそ門松を盛大に飾り立て、電飾のひとつも括り付けてやらねばなりますまい、と記したトコロで、「クリスマス・ツリー」の事ではないか! とバブル崩壊から今日までが走馬燈となり、背筋が寒くなる。
(おまけのお詫び)
 読者より、『かどまつ論』は戦後のものではないかとの指摘を受ける。最初の指摘はのらりと躱したが、次の指摘は考えを改めざるを得ない内容で、考えを改めた意は表して記事の方はスッとぼけて置こうとしたのだが、さらに来た指摘はグウの音も出ぬ証拠を示されていたので、全面改稿か記事削除モノである認識に至る。
 とは云え、書き換えは面倒であり削除したところで、主筆当人に間違えた記憶は残るのだから、お詫びの文を追加して、誤解をした事実を残しておくことにする次第。
 「千代田区」は、東京都が35区から22区(練馬区独立して23区)に再編された時に出来た区なので、戦時中には存在していないのだ。