嫁入前の娘に対する性教育の仕方

『花嫁花婿必要帖』記事で79万9千5百おまけ


 先日、阿佐ヶ谷に用事で出かけたついでに、古本屋でこんな本を買いました。


『花嫁花婿必要帖』
 
 「良縁を求める人の為に/結婚する人の為に」と角書きされた、『婦人倶楽部』(大日本雄弁会講談社)の附録『花嫁花婿必要帖』です。奥付は昭和7(1932)年12月11日印刷納本、昭和8(1933)年1月1日発行。

 昭和8年は、昭和天皇第一皇子御降誕の年です。満州事変の停戦は成立しましたが、国際連盟脱退の通告、「ゴー・ストップ事件」、桐生悠々のコラム「関東防空大演習を嗤ふ」が問題となり、ドイツではヒットラーが首相に就任して「ナチス・ドイツ」の時代が始まります。
 印刷納本は7年12月ですから、この年の出来事を拾うべきでしょう。前年9月の満州事変勃発を受け、(第一次)上海事変、リットン調査団派遣、血盟団事件、坂田山心中(流行歌『天国に結ぶ恋』が出来る)、白木屋火災、東京市35区成立(15区から現在の23区の範囲にまで拡大)、「バロン西」が馬術で金メダルを獲ったロス五輪などありますが、いちばんの大事件は五・一五事件でしょう。いわゆるエログロナンセンスから、テロ・「軍国」(ミリ)・ファッショの時代になって行きます(岩波新書『モダン語の世界へ』山室信一)。
 そんな世の中ですが、本書では「近来の深刻な経済的不況や生活難の圧迫」、「未曾有の結婚難時代」と捉えています(『どうしたら早く良縁を得られるか』)。

 結婚はメンドーだと独身生活を続ける主筆が、なんでこんなモノを? それは1に好奇心、2は「兵器生活」のネタ探しのために他なりません。
 依頼されたわけではない、統一されたテーマもない、読者がどれだけいるのか知れたものではない、書いても反応が(あまり)無い。当然お金にならない、しかしモノカキ生活の真似事―散歩・飲酒・読書、願わくば旅行―は続けたい、つまり文章は書かねばならぬわけでして、方向性が定まってない以上、その時々の好奇心に従うしかないンです。

 「はしがき」には、

 広い世の中から縁あって選ばれた二人の男女が夫婦となる、これは確かに神業(かみわざ)であり一世一代の大事であります。

 と記されています。とは云え、それでも結婚するのは当然のことであり、それは「媒酌結婚」(媒酌人―仲人―が縁談をまとめる)によるものとしています。たとえ結婚する「当人が適当な相手を選び出した時」でも、媒酌人は立てるものとされているのです。「周囲の反対を押し切っての駆け落ち」が、周囲にとっての大事件になることが解ります。

 内容は、「どうしたら早く良縁を得られるか」、「こういう娘には縁談が早い」、「時代に相応しい結婚調度品」、「家庭で挙げる結婚式」、「家庭以外で行う式のいろいろ」(『乃木神社の結婚式』など、今日主流の式場での婚礼の走りが紹介されている)等々あります。主筆の興味本位で珍妙な記事をご紹介するのが、最近の「兵器生活」の本領ですから、今回は「嫁入前の娘に対する性教育の仕方」を取り上げます。
 副題は「性知識に欠けた女は夫婦生活を危うくする」。今どきの女性週刊誌でも使いそうな言葉です。書いた人は、医学博士の福井正憑。国立国会図書館典拠データ検索・提供サービスは「フクイ, マサヨリ」と読むとあります。生年は1892年ですが没年のデータはありません。

 毎度のことですが、原文の縦書きを横書きに改め、仮名遣いなども替えてあります。

 嫁入前の娘に対する性教育の仕方
 性知識に欠けた女は夫婦生活を危うくする

 夫婦の和合は性愛より
 「夫婦の和合は性愛なくして成立せず」ということが出来ます。夫婦愛は性愛と精神愛と、両方合致した時に始めて(ママ)完全なものとなるのですから、もしも夫婦の性生活がピッタリしなければ、いくら精神愛で和合しようとしても、それは出来るものではありません。
 この立場から見れば、不幸な離婚をする人達の多くは、表面にはいろいろの原因があっても、その根本は性的生活がうまくゆかない、つまり、性愛の破綻から起ってくると言ってもよい位です。
 この不幸な性愛の破綻は、その原因は一朝一夕に来るものではなく、思春期に性器を濫用したとか、月経時に不摂生にしたとか、少年の頃に遊蕩をおぼえて性病に感染したとか、そういう少年少女時代からの不注意や不摂生が重なって、性的不健康になっていることから起るのです。
 そして、いざ結婚するとなっても、性についての予備知識がないため、いろいろ思いもかけぬ故障が起きたりして、やがてはそのため、夫婦生活を破綻させることにもなるのであります。


 性愛の重要さが、まず記されているのに驚きます。「セックスレス夫婦」などあり得ない。まあ婚期を迎える本人か、その母親に向けた記事ですから、そうしないと後が続かないのも事実です。今日では「オナニー害毒論」は否定されていますが、この記事では害毒がある前提で書かれていますので、御注意下さい。

 性教育は父兄の責任
 そういうことは、勿論本人自身の責任ではありますが、父母兄姉(きょうだい)はよく注意して、過ちのない前に早く適当の教育を与えるようにしなければなりません。
 近頃は、真面目な医師や教育家が、性教育の必要なことを説くようになって来て、大変結構のことと思いますが、その実際の方法については、まだ完全な方法が教えられていないのであります。
 普通の家庭では性に関することを、何か卑しいもののように考えているため、性のこととなると極端にかくして、子供に性生活の知識などを与えることは、その純潔を汚
(けが)すようにさえ思っているようですが、いくら知らせないようにしておいても、相当の年齢になれば、自分から好奇心や欲求が湧いて来るもので、到底かくしとおせるものではありません。
 「何もそのな事を、わざわざ気拙い思いをして親の口から教えなくても、自然にわかるぢゃないか」と言う人があります。私が性教育の必要を説くと、大抵の人がこう言って反対するのですが、しかし、私はこの自然にわかるというのが、一番おそろしいと思うのです。
 自然にわかるといっても、外の事と違って、ただ一人でわかるのではなく、周囲の人々の淫らな行為や卑猥な話を見聞きして知るのですから、変な知識を与えられることが多く、そのため余計な好奇心をあおられて、自瀆や同性愛や、そういう性的遊戯に陥ることが多いのであります。


 「真面目な医師」とは筆者本人を指しているのでしょう。「周囲の人々の淫らな行為や卑猥な話を見聞きして知る」問題は、パソコンやスマートフォンの画面から、誰にも知られず見聞きできる今日の方が深刻かもしれません。

 性教育の大切な役目
 それでは性教育は、どうして行うかというに、これはなかなか難しい問題で、その方法が悪ければ、却って悪い結果を来す虞(おそ)れがあります。
 性教育は、ただ子供に性の知識を与えることだけではありません。色欲はもとより恐るべきもので、子供は好奇心を持っていて知りたがるものです。それ故、これを鈍らせるように導くのが、性教育の一番大切な役目です。
 それに次いでは、子供の陥りやすい悪習、たとえば自瀆などに陥らぬよう、いつも注意することです。こういう悪い習慣は、周囲の人々から習うので、父や母が細心の注意を持っていれば、染まらずにすむわけでありますが、もし癖がついた場合には、その弊害を親切に説き聞かせて、早く治すようにしなければなりません。
 その次には、生殖機能の説明、男女の生殖器、受胎、分娩などということを生理衛生の上から冷静に説明して、月経時の不摂生、性欲の濫用、性病に感染することがどんな恐ろしい結果を来すか、ということをも知らせる必要があります。

 つまり、正しい性教育は、子供に性の関する正当な知識を与えて、子供が持っている好奇心や欲情を、なくさせることです。適当な結婚年齢まで子供の性欲を押さえつけ、性生活から遠ざけるというのが目的ですから、性感やその機微にふれることは、勿論避けなければなりません。

 現代の学校での性教育で、性行為に言及すべきか否かで議論があると聞いています。書き手は「結婚年齢まで」、「性感やその機微にふれることは、勿論避けなければなりません。」ですから、教えない派です。しかし、前の文章で「到底かくしとおせるものではありません」とも記しているのですから、無理なこととも思っています。好奇心・欲情の存在を認めた上で、誤った行動(犯罪にもなりかねません)に行かぬよう、科学的な知識で上書きしていくのが落としどころでしょう。無知な主筆は「汚れた手では触らない」、「親は(そんな時に限って)いきなり襖を開く」くらいの事しか云えません。

 方法は年齢によって
 ですから、性教育の方法は、子供の年齢によって一様にはゆきません。欲情を押さえるとか、自瀆の悪習に染まぬようにするのは、幼い時から必要ですが、生殖機能についての説明は、少し大きくなってからにした方がよいのです。
 又これを教える人も、父母、兄姉、学校教師、家庭教師、家庭医師、学校医など、いろいろあります。
 これにはいろいろ説がありますが、私はこれを一人だけに任せるよりも、皆が心を合わせて、適当な時に適当の方法で教える方が、よい結果が得られるのだと信じています。父母の手で出来るところは父母がし、学校教師や家庭教師又は医師で出来るところは、それらの人々が当たるようにし、なお足りないところは適当の本によって知らせるというのが、最もよい方法だと思います。


 冷静に厳粛に
 そして教える人は、学識にすぐれ、徳望の高い人で、教える時にはあくまで冷静に、科学的に説明することが必要であります。決して不真面目な言葉や態度があってはなりません。もし父や母が教えることが出来ないような場合には、いい加減に打捨ててゆかないで、人格の高い医師の所へつれていって、説明してもらうのがよいのです。何れにしても、子供に性の知識を与えるには、子供を見てしなければなりませんから、ふだんから子供の性格や生活をよく知っている人で、しかも子供の尊敬している人でなければなりません。
 こういう意味からいうと、学校で、わざわざ機会をつくって、大勢の子供に一緒に性教育を施すということは、一番よい方法だとは思えません。けれども、生徒は教師を信頼し尊敬している筈ですから、むしろ、教師が個人的に父や母に代って、教育する方がよいと思います。
 又、その教え方にも、ずいぶん注意を要することで、一部分を教えて全体を知らせなかったり、あまり抽象的に説いて具体的に知らせぬような教え方は、有害無益で、全然教えなかったと同じ危険さがあることも知らねばなりません。


 教える人(学識・徳望ともに備えた人がそうそうあるのかはさておき)は複数が良い、教室で一斉に教えるより、折りを見て個別に教えた方が良いとしています。「生徒は教師を信頼し尊敬している筈」の書き方に、著者の屈折した想いを感じます。教師が生徒に「手を出した」話は毎年ニュースになってますし、肉親が子供に性行為を強いる話も世の中にはあります。
 教師による個別指導は、生徒の数を考えますと実行は難しいものがあります。

 臨機応変がよろしい
 次に教える内容ですが、大体でいうと、
 一、種族保存の意義、つまり生きているものは、今までつづいて来た生命をつづけて、もっと繁栄させなければならぬということ。
 二、生殖作用の説明、子供はどういう風にして生まれるかということ。
 三、性器の大切なことと、それを濫用したために起こる弊害。
 四、性病のおそろしさ。
 等です。これを年齢により境遇によって、適当の時、適当に教えなければなりません。

 或る小さい女の子が、箪笥(たんす)を眺めて「着物は暑さ寒さをしのいで、そしてお前をかくすものだろうか」と母親に聞きました。母親は「そうだ」と答えて、それから、
 「お前をかくすことは着物の大切な役目です。どうしても必要の時の外は、お前なんぞ出して人に見られるのは、お行儀の悪いことです」と教えました。そしてその上、着物には人と人とを区別し、男と女をはっきりとわからせる役目もあると言いました。
 すると傍に聞いていた小さい弟は、
 「ぢゃ、僕が姉さんのような着物を着たら、女の子に見られますね。ねえ、そうでしょう?」と聞きました。
 弟には、男と女の区別は少しもわからないのです。そこで母親は教えました。
 「いいえ、そうではありません。時が経つにつれて男の格好と女の格好とは、まるで違って来ます。男には髭が生えても、女には生えないでしょう。男には赤ん坊を生むことも、お乳を飲ませることも出来ないでしょう。ただお父さんになるだけです。ですから男の体と女の体とは、生まれた時から違っています。体ばかりでなく、心持も違っているのです」と説明しました。


 この「お前」は二人称ではありません。
 「種族保存の意義」! 生きる目的をコー出されますと、独身者の主筆は書き写していてギクリとします。それを押し出しますと、子供を作れぬ人は生きる資格がないのかなんて文句が出そうですが、みんなで(生殖現役者含む)世の中を支える仕事をやっているんです(所得税は払えずとも消費税は取られているはずですよ)。この世に生まれた意義は誰もが持っています。考えたことも無い、誤解している、程度は人それぞれですが…。

 母親は何時も敏感に
 それはバセドウという教育家の書いた本の中にある話なのですが、この母親などは、実に敏感で、聡明で、適当な機を失わずに性教育を行ったものと思います。男と女の区別のわかっていない小さい男の子には、男と女とは体が違い、心持も違うことを教えるのが適度ですし、恥部のことを少しでも知っている女の子には、恥部を人に見せるのは、恥ずかしいことだという風に教えなければなりません。
 そして、さて今から教えるというのではなく、日常折りにふれて正しい方法で教えなければならないので、それには子供をよく気をつけて見ることと、教育書などを気をつけて読んで見ることです。
 小学校を卒業する頃までは母親の手で教えられますが、学校出は理科で、植物の生殖や、遺伝と教育との関係、悪い種子は排斥しなければならぬことをも教える筈です。

 女学校程度になると、春機発動期で、月経がはじまりますから、女の先生がこれについて教えるのがよろしい。それと一緒に、自瀆の恐ろしいこと、貞操の大切なこと、結婚は軽率にしてはならぬこと等を教えなければなりません。

 男女の性差について、「性同一性障害」の概念が無かった時代のことですので、こんな書き方になっています。それへの考慮を入れた語り方なんて、主筆には解りません。

 いつまでも嫁に行くところにならないじゃないか! とご不満の皆様(ここまでお読み下さり、ありがとうございます)、ようやく本題です。

 結婚直前は具体的に
 結婚直前の娘に対しては、特別に初婚時代の心得を教えておく必要があります。
 まず第一に、結婚しようとする処女は、未知の世界に対して、非常な羞恥心と恐怖心に充ちているのが常で、時には他の者が想像も出来ないほど、ひどく恐れている者もあります。ですから、母親やその他周囲の者は、娘が結婚の初夜を怖れていることも忘れてはなりません。
 そして、花嫁たるべき娘に対しては、前以て結婚生活というものに就いて、正確な予備知識を与え、決して恐ろしいものではない、ということを教えておかねばなりません。
 又その知識も「総てを夫に任せよ」という程度のものではなく、もっと具体的に教えておく必要があります。これは母親と一緒に信頼すべき婦人科医の所に行って、一応診察してもらい、初夜の心得も医師から聞くという方法がよいと思います。
 そして、性交の大切なこと、性愛は夫婦の間では少しも卑しむべきでないこと、だから一切の恐怖や不安を捨てて、夫に身を任すべきである、ということを十分に会得させておかなければなりません。

 結婚適齢期まで「性感やその機微」の存在を知らせずに育ててしまえば、そりゃあ恐怖心もありましょう。そこをドー具体的に教えるのか、その「初夜の心得」が大事なところなのは云うまでもありますまい。
 「兵器生活」読者諸氏なら、昭和8年新年号附録にそんな事を詳述したら、良くて伏せ字だらけか、ページ削除、悪ければ本そのものが発売禁止になることをご存じのはずです。大日本雄弁会講談社の雑誌附録に、そんな記述が載っているわけがありません! そこに考えが至ると、江戸時代の春画ってスゴイなぁと思います。

 恐怖から来る性交不能
 この用意を怠った為に、当夜の営みが出来なくて、夫の方は不満を感じ、妻の方は不安になり、翌夜はますます不安が強くなって、とうとう性交不能になり、離縁話が持ち上がる、というような例さえあります。
 これは、あまり非常識の話のようですが、処女には間々あることで、大凡(おおよそ)の見当はついていても、事実に直面すると、神経質な処女には、あまりに動物的な浅ましい行為のように思われるのも無理はありません。最初の夜に半病人のようになるとか、少しの刺激を受けただけで忽ち驚いて膣口に痙攣をおこし、性交不能になるとかいうこともあります。又それほどではなくても、夫婦の営みをただ義務的に応じて、漠然とした男性嫌悪の感情を結婚の初めに持ってしまい、そのために、やがて性的不感症になるとかいうことも、決して少なくはないのです。
 性交不能とか不感症とかで、私共専門医のところに診察をうけに来る婦人は沢山ありますが、そういう人を診ると大抵は肉体的には何の異常もないのに、一種の神経作用から、そういう病気になっているのです。これは、娘を嫁がせる母親の十分心得ていなければならぬ事です。
 又、実際上肉体に何か変わった所のあるのを知らないで結婚すると、やはり性生活に故障を来します。
 苦痛が激しい時にはすぐ気がつきますが、少し位の苦しさの時には、こんなものだろう位に考えて、我慢をする人もあります。

 こんな場合は性的の喜びは感ずることが出来ないので、自然夫婦の間に面白くない感情が湧いて来ます。しかも花嫁は実家の両親に打明けるのもはずかしいし、夫に話せば愛情を疑われはしないかなどと考えて、一人で煩悶することもあります。ですから、こういう特別の時のことも、ぜひ母親は結婚前に言いきかせておく必要があります。

 「動物的な浅ましい行為」、人間もケダモノの一員です。そこは、時折思い返しておきましょう。体力・抵抗力とは、ケダモノの力そのものです。
 「性的の喜び」とは持って回った云い方ですが、そこを巧く言葉にするのは文学の仕事でしょう。教育上よろしくないと、小説を遠ざける家庭もあったと聞きます。
 しかし、「夫婦の営みをただ義務的に応じて」いただけの母親は、娘に何を語るのでしょう?

 花嫁よりも花婿に教育
 なお花嫁の性教育と一緒に、ぜひとも必要なのは花婿の性教育であります。結婚生活では、男性が正しい性の知識を持っていれば、受け身である女性は、大抵正しく導かれるものですから、花嫁たる娘よりも、花婿たるべき男性の性教育の方がもっと大切だともいえるのです。
 ところが、男性でこの正しい(原文傍点)性知識を持っているものは非常に少ないのです。大抵は誇張された猥談や、放蕩からおぼえた知識位しか持っていないものです。ですから近く結婚せんとする青年は、その前に先ずよい医師について性の知識と衛生上の心得とを聞くようにしたいと思います。
 夫に性の正しい知識がないために、仮令(たとえ)一時的とはいえ花嫁に恐怖心を持たせたり、花柳病を感染させたり、又妻の体質をよく理解しないで自己だけ満足しようとしたり、婦人病に無理解であったり、又そういうような事のために、妻に対して面白くない感情を持ったりして、遂に結婚生活を不幸なものにしたり、破綻させたりすることの多いのは、嘆かわしいことであります。
 処女から人妻となって、すぐ性的歓喜に浸り得るという女性は割合に少ないので、普通は夫が注意深く導いて、ようやく性愛の喜びを知るようになるものですから、花婿さんはこの点を今少しく理解して欲しいと思います。

 結婚適齢期の青年が、婦人雑誌を堂々読むことは考えられません(本の出た90年後に初老のオッサンがその記事をネットに公開するなんて!)から、青年の母親か姉か、仲人に向けて書かれた一節と見ます。正しい性知識は必要でしょうが、まず、嫌がる相手に無理強いしてはいけない事をヨーく呑み込んでおく必要があります。
 「すぐ性的歓喜に浸り得るという女性は割合に少ない」の言葉は、新婚初夜へ臨む男性への救いではありますが、この先、妻を満足させる義務があると云うに等しいわけですから、捉えようによっては毒にもなります。自分のやり方は正しいんだろうか? 妻を満足させられるのだろうか? 性生活への不安は女の専売特許ではありません。この頃の雑誌に早漏や精力減退―その原因が「自瀆」とされる―を解消する(と称する)広告を多く見る所以です。

 花婿が性病の時
 不幸にして花婿が結婚の時に、性病にかかっていたならば、勿論正直に告白して、当分同衾を避けなければなりません。これは一寸難しいことのようですが、併し将来の幸福を考えたならば、当然そうすべきで、其処はよく話し合って十分抑制しなければなりません。
 花嫁としても、そんな場合驚いたり怒ったりして、実家へ帰るというようなことは禁物です。夫が結婚前にそういう病気にかかって、それが全治しない前に嫁を迎えたことは、不都合なことではありますが、しかし考え方によれば、この際それを隠して契りを結び、すぐ病気を感染させてしまうのに比べたら、まだしもよいと思わねばなりません。
 一旦夫婦となった以上は、お互いの過去の過ちに対しては出来るだけ許し合う心持を以て、一時の感情にとらわれず、将来にまでよいと思う方法をとって欲しいと思います。
 女性の体では、月経のはじまる時が最初の革命ですが、新婚当時は、第二の革命期といってもよいのです。何から何まで新しい経験である上に、これまで知らなかった性的生活が加わりますから、自然体が疲れて来ます。睡眠不足、食欲不振などいうことから、身体の抵抗力が衰えて、娘時代の病気が再発したり増進したりしますし、又新しく病気を起こしたりもします。ですから新婚当時は、よほど摂生に注意しなければなりません。
 それと共に、花婿もそれについて行届いた注意を持つ必要があります。花嫁は自分から病気の事などはなかなか言い出しにくいものですから、花婿は、花嫁が、もしふさぎ込んでいるとか、蒼い顔をしているとかいう場合には、親切に聞きただして、適当の方法をとらなくてはなりません。(医学博士 福井正憑)

 性病は今なお滅びてはいませんが、当時は社会問題でもありました(徴兵適齢期の男子、現役の兵・士官への感染で、日本の軍事力が減退すると憂慮されていたのです)。「正直に告白して」と書いてます。それが出来れば夫婦間の隠し事なんか考えられないですよ。立派なものです。
 夫が外で病気をもらい、妻に感染させた話は戦前読み物に出て来ます。密かに治せると主張する売薬に頼る人が少なくなかったことも、雑誌の広告を見るとよくわかります。

 女性の初潮、新婚生活が「革命」と記されています。筆者は中華民国の、ソヴィエトの、あるいはドイツの革命を想起していたかもしれません。

 『婦人倶楽部』附録のせいもあるのでしょう、女性の性感がことばで肯定されていて、私はかなり驚いています。
(おまけのおまけ)
 性教育記事はご覧のとおり、期待をスルリと抜けて行くヨーなものでしたが(『長い』と文句つける人もいるんでしょうね。ネタにするくらいには面白いとは思っています)、附録巻頭にはカラーページで婚礼衣装や調度が紹介され、


 「娘から新妻へ」と題されたフォト・ストーリーが掲載されています。ページ後ろでテニスラケットを振り上げている娘さんが、お見合い・婚礼を経て、一人前の新妻として婚家に溶け込んでいく様子が紹介されるものです。
 写真1コマ目は「処女時代の一日」と題され、

 麗らかに! 朗らかに!
 悩みを知らぬ処女時代は、恰(あたか)も晴れた春の日のよう、短いスカートも軽く躍(おど)って、ポーンと高鳴るラケットの響き!

 なんて言葉が謳われます。膝小僧がしっかり隠れる丈なのに「短いスカート」なのが楽しいですね。両足でしっかりコートを踏みしめて、ボールを「ポーン」と打てるのでしょうか?