物質的・精神的侵害と「国防」

東條英教「国防とは何を為すことか」で80万1千おまけ


 帝国軍人後援会発行、『後援』大正2年3月号に掲載された、東條英機の父、陸軍中将・東條英教「国防とは何を為すことか」を読む。


掲載誌にあった東條英教の写真。息子より尊大に見える

 帝国日本は、日清・日露戦争を経て、両戦争の原因となった、朝鮮半島の領有(併合)に至る。西欧列国との不平等な条約は解消され、干戈を交えた露国とも協商が成立する。日本(の為政者)を悩ましていた、外国の植民地にされる危機は去ったのだ。この現況に基づき、
 「海島国の国防は、強勢なる海軍を以て、四囲の海上を制し、敵をして、国土に近づき得しめざるを以て、最良手段とす」
 「日本の陸方面の防禦としては、朝鮮の北境に於ける地形に拠って、敵の進入を喰い止むれば足れり」
 と云う、ある種の専守防衛論が提唱される。
 東條中将は、論の冒頭、「雑誌にして、国防論を掲げなければ、売れ行きが悪く、国士にして、国防論を口にしなければ、気がきかぬというのが、当世なのであろう。」と感嘆する。大将にはなれなかったが、陸軍大学一期生で首席、帝国陸軍に心身を奉げた当人から見れば、帝国陸軍を侮辱されたように感じたのだろう。ケシカラン、バッカモーン! となる。

 由来軍事に冷淡であった我が国民が、今日、急に、俄か作りの素人観で、而も一犬形に吠え万犬声に吠えるという勢いで、喧伝する国防論であるから、たまったものではない。
(略)『新日本』の二月号の第百五頁に、
 蓋し海島国たる我日本に在りては、其の国防は当然海軍が任ずべきものであって、人間が苟も海上を闊歩し剣付き鉄砲の軍装で往来が出来ないものとすれば、帝国国防の為に陸軍が与(あずか)り関せないのは、三尺の児童と雖も自覚し得べき所である。
 などという真に三尺の児童の言いそうな、振るったのまでもある。

 三尺は約90センチ、「幼稚園児が云いそうな」愚論と云うわけだ。その出典を律儀に記しているのが、東條英機の父親らしくて嬉しくなる。論者の名前まで記してあったら、『新日本』にも手を伸ばせねばならなかったかも知れない。

 「国防とは何を為すことか」は、「防禦」の意味を説くところから始まり、先に挙げた専守防衛論では国防を全う出来ない事を述べる。当然、軍備の拡充は今後も継続されねばならぬから、結論部分で、

 質素簡朴の風を興すに勉めず、滔々として、矯奢華美に流れる傍ら、動もすれば、国家の武力を減じても、私嚢の負担を軽からしめんとするが如き国民は、これ、亡国の民にあらずして何ぞ。

 なんて事を記してしまう。軍事費を削減して税負担の軽減を訴えるのは、「亡国の民」のすることだと云うのだ(軍資金の出所は国民が払った税金だぞ)。この人には、国の経済力を上げ、それにあわせて軍事費も増やして行く発想が無い。

 「国防とは何を為すことか」の面白さは、彼の思う―陸軍軍人の少なからぬ者も、そう感じているだろう―「国防とは何か」を、馬鹿丁寧に説明している所にある。樋口一葉の小説が現代語訳され(!)本屋に並ぶ時代に、明治の―掲載が大正2年だから文章は明治のそれである―論説文を「引用」して、読者諸氏が楽しめるものだろーかと思わぬでも無いが、この頃の文章が醸し出す香気(大言壮語感)は、ビールの苦み、くさやの臭い、目黒の秋刀魚の脂みたようなモノ。慣れると美味しいんだよとしか云いようがない。

 記事は、全文書き写した主筆本人も、イヤ気が差したくらい長大(にしてクドい)なので、今回は、その一節「一、国防は物質的防禦と精神的防禦がある」を紹介する。
 例の改変を施す。原文は総ルビだが、その殆どは略す。漢字は略字にしたもの、本字を残したもの、たぶんこれだろうとアテたものが混在している事を、あらかじめお断りしておく。
国防とは何を為すことか(陸軍中将 東條英教)より

一、国防は物質的防禦と精神的防禦がある
 「国防」とは、他国の与うる侵害に対し、武力を以て、国家の存在を守護する働きの謂いなることは、言うまでもない。
 少し学者めいた言い草で、吾輩の柄ではないが、「防」、即ち「ふせぐ」という言葉を穿鑿して見ると、「他より侵さしめぬように守る」という意義を持って居る。例えば、「雨を防ぐ」と言えば、屋根を葺き、又は、傘を差して、雨湿が、室内に入り、若しくは、身体に触れぬようにすることであって、即ち、室内、若しくは、身体を雨湿に対して、守護することである。而して、具体的に、その働きを言えば、守護するべき本体(室内又は身体)に向かって来たる所の雨水を、その途中に於いて、喰い止めることに外ならぬのである。その他、水を防ぎ、火を防ぎ、寒さを防ぎ、臭いを防ぎ、風を防ぐ等、皆、同様である。

 (註)「防」及「禦」の二字は、本来少しく意義を異にし、即ち「防」は、将来の侵害を慮って、予め備うるの意義に用いられ、「禦」は、目前に来た事物に備えて「ふせぐ」の意義に用いらるべきものでるが、今日、我が国に於いて、この両字は、斯かる精密なる区別に依り用いられ居るものではない。依って本論に於いても、この区別を置かぬこととして居る。

 国防とは、「武力を以て」行うことだと、読者に念押ししている事に注意したい。その前提をつけたところで、「防ぐ」一般について、くどくど語る。
 「雨を防ぐ」という、身近な例について、傘を差したり、屋根をつけたりして、濡れないようにする事であると述べ、そこに濡れては困るモノ―守護すべき本体―が存在することを指摘する。云われれば当たり前の話だが、日常そこまで突き詰めて考えた事がなかったので、新奇な説を聞く気分がある。「臭い」(くさい、ではなく、におい)は、汲取便所から漂う芳香なんだろう。

 で、「防ぐ」という働きには、必ず、守護すべき本体があり、又、侵害し来たる敵のあることは、言うまでもない。乃ち、右に例示した諸場合に於いては、侵害の来たる敵は、或いは物質、或いは力であるが、その力に属するものも、亦、皆、一の物質から発するもの故、これを総じて、物質的侵害と言っても、差し支えはあるまい。而して、又、この侵害を蒙らんとする本体、即ち、守護せらるべき本体も、亦、皆、物質である。即ち、例えば、水を防ぐのは、田畑とか、人畜とかいう物質的本体を守護する為であり、寒さを防ぐのは、人畜の身体、若しくは、植物など、即ち、物質的本体を守護する為であり、臭いを防ぐも、同様に、臭官という物質的本体を守護する為であって、その他、火を防ぐと言い、風を防ぐという、皆、明らかに、或る物質的本体を守護することを目的とするものである。で、吾輩は、本論に於いて、以上の如く、物質的本体を、物質的侵害に対して守護する働きに、「物質的防禦」という、名称を下して置くこととする。

 「防ぐ」iにあたっては、対象=守護すべき本体が必ず存在する。それは物質だ。害する―侵害する―「敵」もまた物質である。そこで物質的本体を護る=「物質的防禦」と名づける。

 然るに、世の中に、侵害という、言葉は、必ずしも、物質的の意義に於いてばかり用いられて居るとも限らぬのであって、事実、又、侵害に精神的のものがある。而して、人類個々の上に於いても、その者の人格次第では、物質的侵害よりも、寧ろこの精神的侵害の方を苦痛とすることがある。例えば、侮辱されるとか、軽蔑されるとか、不名誉を与えられるとかは、若しも、人類が、自己の、名誉とか、体面というものを、一の守護すべき本体であるとしたならば、明らかに、これ、一種の精神的侵害であると、言い得るであろう。
 凡そ、生存を欲し、死滅を悪(にく)むことは、理性を有する動物天禀の心情であって、人類に於いては。尚更のことである。而して、特に、人類に在っては、生存という意義は、必ずしも、生命の保存をのみ謂うものではなく、名誉とか、体面とか、いうものの保存をも、亦、「生存」という意義の下に、網羅して考うることが、常であって、人格の高い者ほどこの傾きがある。「彼は精神的に死んだ」とは、よく、人の使う言葉である。昔の人も「欲する所、生より甚だしきものあり、義これなり」と言った如く、人に由っては、この精神的生存を、物質的生存(生命の存在)よりも重んずる場合すらある。これに由ってこれを観れば、人類に在っては、名誉又は体面というが如き無形のものも、亦、大切に守護せられねばならぬ所の精神的本体として見るべきものであることは、確かである。
 それ、既に、人類に、右の如く精神的侵害と、これに対して、守護を受くべき精神的本体とが、存在することの明らかなる以上は、その間に、「防禦」という働きの無くてならぬことは言うまでもない。で、吾輩は、本論に於いて、これを「精神的防禦」と称し、以て、曩(さき)に言った、「物質的防禦」と区別するものである。

 「物質」を述べれば「精神」の話が来るだろう。物質−精神の二元論を聞いたことがある者ならば、当然予想は出来よう。物質/精神それぞれに本体があると見なし、侵害と防禦があると説明すれば終わりだ。ところが、論者はそこをひとつ飛ばして、「侵害」―精神的な―を細かく語り出す。今日なら「精神的苦痛」の一言で終わるものを、侮辱・軽蔑・不名誉などの言葉を使い、懇切丁寧に説明するのだ。
 「人に由(よ)っては、この精神的生存を、物質的生存(生命の存在)よりも重んずる場合すらある」、これが、この人の国防論の根底にある。その考え方が「生きて虜囚の辱めを受けず」に通じる事は、云うまでもなかろう。しかし、論はそこには踏み込まない。

 以上の論旨を要約して言うときは、凡そ、人類に在っては、「生存」ということは、生命の存在、即ち、生存の物質的なものと、名誉又は体面の存在、即ち生存の精神的なものとを包括するものと了解せねばならぬ。而して、人類が、この包括的の意義に於ける生存を本体として、守護せねばならぬものとすれば、かの守護という働きの、決して単純なものでないことが分かる。即ち、物質的生存に向かって来たる物質的侵害、例えば、殴打、殺傷とか、身体に向かっての水、火、寒暑の逼迫とか、若しくは、健康の支障などがあり、又、精神的生存に向かって来たる精神的侵害、例えば、名誉の毀損、侮辱などがあって、苟も、人類が自己の生存を完全に保たんとすれば、此等の諸侵害は、皆、これ、極力防がれねばならぬものである。

 人(人類)の「生存」は、「物質的」(≒物理的)・「精神的」の二つがある。したがって、「生存」を維持するには、生命のみならず、名誉・体面をも維持しなければならない。ゆえに、物質的・精神的侵害は、どちらも防がねばならぬと云うのだ。「精神的」なものも守護しなければならない、ここがこの論の大事なところだ。
 ここまで読んで、守護すべきものとして、財産が全く言及されていない事に驚いている。侵害は、肉体と精神に対してのみ発生すると本心で思っているのか、軍人は金銭などは眼中に無いから語らぬのか、あるいは財産は体面を支えるだけのモノと捉えて「精神的」に含めているのか、この記事から読み取ることは出来ない。

(略)
 凡そ、人類の生存に向かって、人為的から侵害の働く諸場合は、左の三種類に分けることが出来る。
 第一、物質的侵害が、精神的侵害を兼ねる場合、例えば、他人から殴打せられて、肉体に、痛苦を感じ、尚その上、心に、侮辱を感ずるが如き類である。
 第二、物質的侵害が、単独に働く場合、例えば、強盗の為に、殺傷せられるが如き類である。
 第三、精神的侵害が、単独に働く場合、例えば、単に、口舌、又は、挙動を以て、侮辱せられるが如き類である。
 右の三場合は、蓋し、人世に於いて、決して、珍しからぬ出来事である。而して、人類が、若し、此等の諸場合を慮り、これに対して自己の生存を完全の意義に於いて防護せんと思わば、居常、如何なる用意を必要とするであろうか
 試みに、堅甲を被って用心するとせんか、右第一の場合に会しても痛苦を感ずることはなかろう。又、第二の場合に会しても全然、危難を免れ得るでもあろう。併しながら、第一及び第三の場合に会しては、如何にして、侮辱を免れ、体面を保ち得るであろうか。
 斯く考え来たらば、堅甲そのものは、仮令(たとえ)、数千金を投じたるものにもせよ、古(いにしえ)の名工明珍の作に成るものにもせよ、その性質として、決して、外侮を防ぎ得べき道具にあらざることは、自ずから明らかであろう。更に、一般的にこれを言えば、凡そ人類に在って、完全なる意義に於ける生存を、完全に、防護せんには、決して、物質的防禦の設備のみを以て行わるるものにあらずと論結することが出来る。

 「侵害」を三種に分けているが、第二(物質的侵害)、第三(精神的侵害)が先にあって、最後に第一(それらを兼ねる)が来た方が、論として分かりやすくなったはずだ。書き写していて、これは無いだろう! と思ってしまう。口述速記でやっているんぢゃあないか?
 「強盗」は、金銭衣服家財を強いて盗むものなのに、その侵害は身体の「殺傷」としか書かれない。それでいいのだろうか?
 野暮なツッコミはさておき、論者は、鎧甲(よろいかぶと)に身を固めて身体を護っていても、口頭その他の手段でなされる侮辱を防ぐことは出来ないと断言する。精神的侵害を物質的に防禦することは出来ないと云うのだ。なるほど、山奥か離れ小島に蟄居しているならともかく、起きていれば文章が目にふれ、耳を塞いでいない限り悪口は聞こえて来る。
 ドーすれば良いのか?

 然るに、若し、これに反して、人類が、手に刀剣を持ち、必要なる場合には、敵手を撃って、これを屈服せしめ得べきほどの、手腕ありたらば如何(どう)であろうか、怖らく、他人は、これに畏憚して、侮辱を加えざるべく、縦(よ)しや、侮辱を加うる者あるも、これを膺懲して、謝罪せしめ、以て、名誉を恢復し、体面を維持することは容易であろう。かれ故、この用意に依れば、人類は、前述、第一、第三の場合に会しても侮辱を免れ、即ち、精神的侵害を防ぎ得ることは、言うまでもない。而して、尚、この用意だにあらば、右第一、第二の何れの場合に会して、肉体上に加わる危害をも、併せて、免れ得べきである。
 故に凡そ人類が自己に向かって精神的侵害を加えたる者に報復して、彼をして屈服せしめ得べき用意を有することは、自己の完全なる意義に於ける生存を防護すべき、唯一且つ積極的手段であって、乃ち、これ、生存防護に伴う必要なる用意たること明らかである。

 甲冑に身を固めるよりも、抜き身を振るえと云うのだ。侮辱されたら暴力に訴えてでも、相手の謝罪を断乎引き出す。不用意なことを口走ったら、何をされるか分かったモノではない、そう思わせておけと云うのだ。そこまで備えて、初めて個人の生存は完全に防護される。今日の感覚に照らせば、「過剰防衛」である。
 「強盗の為に、殺傷せられる」ことを、「人世に於いて、決して、珍しからぬ出来事」と捉える。まして、生存に対する侵害を防ぐには、堅甲(甲冑)だけでは不十分で、刀剣を振り回して相手に謝罪させる勢いがなければならぬ、と云うのだから、これは近世人―サムライ―の考え方、無礼打ち・斬り捨て御免の世界である。

 以上は、吾輩が、本論の前提として、暫く、人類個々の上に就いて、論じ来たったのであるが、今や、此に、論鋒を転じて、人類の集団たる国家の上に及ぼすべき場合となった。

 ここまでの長文が「前提」なのである。個人の在りようについて、既にコレなのを、国家に敷衍しようと云う。物騒な論が展開される事は、云うまでもないだろう。(続く)
(おまけの余談)
 昭和戦前も現代も、人間の程度はさほど変わるモノではない、と云うのが「兵器生活」主筆の考え方の底にある。しかし、100年以上の時間を遡ると、少し勝手が違う感覚を覚える。
 東條さんは、侮辱・体面毀損―精神的侵害―に対しては、暴力に訴えて名誉の回復をはかれと云う。その是非は云わぬ。ただ、100年前に、マンガなどの表現を「精神的侵害」と捉え、その撤回を公然と迫るような事は、為政者・権力者への諷刺か、誰かを直接・間接的に批判すべく発表されたものに対し、書かれた・描かれた側が反発するのは別として、不特定多数に向けた表現を取り上げ、それを享受することを想定してない人達が、声高に抗議を叫ぶことは、無かったのではないだろうか。