『女学校作法要項解説』で82万2千9百おまけ
本の山から、こんなモノが押し出されて来る。
文部省準拠 女学校作法要項解説
『女学校作法要項解説』(帝国教育学会編・発行)。女学生向けの作法解説書だ。昭和4年11月初版、同7年2月の第80版。奥付の著作兼発行所は「帝国実行教育学会」とあるが、発売所は「帝国教育学会」と微妙に違う。住所は同じ麻布区本村町。
「居常の心得」から始まり、「姿勢及進退」、「訪問及接遇」、「公衆」、「服装」、「食事及配膳」、「儀式」など、日々の暮らしから一生に一度の儀礼まで内容の幅は広い。箸の取り方・最敬礼の姿勢まで、国民としての所作を、諸事万端・一切合切マニュアル化した本と云える。
冒頭の「緒論」に本書の目的が記されている。例によって縦のモノを横にし、仮名遣いを現代式に改めて紹介する。
緒論
作法に対する心得
凡そ人の行為は心の反映である。心正しければその行いは自ら正しい。乃ち謙虚の心の持主は其の行動までが粛(しと)やかであり、爽やかな心の持主は其の言動が努めずして快潤である。心の悩めるときは沈鬱になり、心の邪(よこしま)なときには兎角陰険になるのを秘することが出来ない。心正しく恭敬の念の外部に現れた形を礼といい、礼にかなった座作進退を作法という。
「行為は心の反映」、なんと含蓄ある言葉ではありませんか。
されば精神の修養された 品性高潔な有徳の人士の言動は努めずしてさわやかであり、且つ円満である、之れ皆な礼儀作法をわきまえ 内心外形共に統一せる所以である。之に反して心はたとい赤誠に富み内に恭敬謙譲の念ありとも、若しその外部に表れたる言動が 無礼不作法であるときには、如何にも卑賤の人にしか見えない、のみならず平素不作法傍若無人の振舞を重ねる時は 如何に学問技芸に達暁するとも、人格の向上は望まれないばかりでなく 謹しむべき場所にて心にもなき不敬の言動をなし、又人に不快の感を与えないとも限らない。然るに日常作法を慎み礼儀的行為を努める時は 何時か其の心まで美しく向上され 品性まで陶冶せられて習性となるのである。
「行為は心の反映」と述べながら、心は赤誠(嘘・偽りがない)・恭敬(つつしみ敬う)・謙譲の念が篤い人であっても、その言動が見苦しいと世間から品性に劣る者と見限られ、それが重なれば秀でるモノがあっても人格は磨かれず、社会生活をしくじる可能性がある、なんて実にヒドいことを云う。
作法を慎み礼儀正しく振る舞い続ければ、心美しく品性も高まるとは書いてあるが、当人の学問技芸(商売や武勇もだろう)が練達すると書いてない。作法とはソー云うモノか。
彼の英国民が幼少の頃より 「未来の『紳士』『淑女』たるに恥じずや」とて先ず礼儀作法を訓(おし)え、我が国の武家が『武士』の体面なる言葉に依って 先ず武士として恥ずかしからざる言動作法を訓え以て或は大国民の品性を 或は『武士の魂』を養い来たった所以である。
吾等が作法を貴ぶ所以は実に茲にあるのである。即ち作法の一面の目的は、時・所・位に適応せる交際の形式を心得て、相手の感情を害(そこな)わず円満なる交際を全うし、以て自他相融和するにあるけれども、尚 人の見ない所でにも作法正しき行動を重ね 以て自己品性の向上を陶冶するこそ作法習得の本旨である。
故に男女貴賤を論ぜず虚礼に流れず形式に泥(なず)まず、常に真実の発現として行作し以て品性を陶冶し 併せて生活の改善を期するこそ作法に対する心得である。
「彼の英国民」すべてが「紳士淑女たる」かは、英国の「フーリガン」を想起すれば解る。日本人が総て武家の出自を持っていたら、皇族のお立場は無くなってしまう。そこを推し量るのも作法なのだろう。読者は女学生、未来の淑女である。円満な社交生活が求められる。しかしカタチだけではならない。自己の品性を高める姿勢が大切と編者はクギを刺す。
礼儀作法に習熟することで、「大国民の品性」を体得・体現する。昭和初めの文章らしい文言だ。そこに「生活の改善」が入っているトコロが面白く、「位に適応」と、「四民平等」を標榜しながら華族・士族・平民の身分差を容認する態度も興味深い。
個々の項目は、今の礼儀作法の本と似たようなモノだから紹介はしない。こんな事まで書くの? と云うトコロを挙げる。
「第二章 姿勢及進退」の「第二節 歩行及回旋」、要は歩き方である。
「一 歩行の際は姿勢を正しく歩調を整うべし。」で始まる。これだけで、そこまで書かないといけないモノなのか? と思ってしまうが、
五 都会の道路は特に左の事項を注意すべし
一、横断以外は車道に立入らざる事
二、電車又は自動車の直ぐ前や直ぐ後を横ぐらざる事
三、歩行者も巡査の信号に従う事
四、巡査の居ない所では信号手の指揮に従う事
五、横断は街の角にてなす事
六、横断は先ず右を見て次に左を見る事
とあって、これは作法なんだろうかと首を傾げる。
地方から帝都に来る人達のためか、「横断は街の角にてなす事」には、わざわざ図まで付けてある。
直角横断の図
広い十字が車道で、黒くなっているのが歩道だ。中ほどに横断する際のコースが律儀に矢印で記されている。
「歩道」があるのは都会の証だったのだ。
この節に、「四 道路は通常左側を歩むべし。」とある。廊下なども左側通行が原則で「都会地の大道路」では左側の歩道を通る、と記されている。
そこまで書いておきながら、この本は自転車に乗る際の心得を載せていない。女学生は自転車には乗らぬモノ、とでも考えていたのか(笑)。
この駄文を仕上げるにあたり、『「人は右、車は左」往来の日本史』(近江俊秀、朝日選書)を買って読む。
第一章「歩行者はどこを歩く?」に、戦後、歩行者の右側通行が定められた際の国会答弁が紹介されている。そこでは明治14年12月に「車馬や人力車が行き合った場合、左に避ける」と定められ、明治33年に道路の左側通行が定められた(道路ヲ通行スル者ハ左側ニ依ルヘシ)とある。
著者は、それ以前はドーだったのか? と江戸時代のオランダ商館長江戸参府の記録を初め、旅行案内書、武家の礼法・貴族の礼法へと時代を遡っていく。『養老律令』の「儀制令」には、「賤しきは貴きに避れ」と、身分の低いものは貴人に道を譲れとある事を紹介している(道のどちらかに寄れとまでは書いてない。そこまで定められていなかったのか)。
行き着いたトコロは、貴人がこちら側に向かって来た際、「右側に避ける」、「左側に避ける」礼法の記述で、武士の「右に避ける」(抜き打ちしづらい方に行くことで害意の無いことを示す)ではなく、貴族の取る「左に避ける」が、「左側通行」の元になったと考察している。
著者は云う。「道は人と人が接触する場でもあった」。
厳しい身分制度があった時代は相手によって、挨拶の仕方を変える必要があった。それは、身分の違いを確認する行為であり、また、そのことをその場に居合わせた多くの人々に対し行動をもって示すという意味があった
明治になって定められた交通ルール「すれ違いのとき、左に避ける」は、古来の慣習の踏襲であって、「礼」の伝統を受け継いだモノだ、と述べている。
「作法」の本に、何で交通ルールが載っているんだろう? と疑問を抱いた主筆の了見が誤っていたのだ。「礼」の原点が、上下貴賤を「見える化」するトコロにある、と思い到ると、「心が美しくなる」や「人格が向上する」考え方は、開明的なモノだよなぁと思えて来る。
(おまけのおまけ)
女学校生徒向けの本なので、挿絵にセーラー服だったり着物姿の少女の姿を見る。わざわざ載せるほど美形でも素っ頓狂なモノではない。とは云うものの、何も載せないのは読者諸氏に申し訳なく主筆も物足りない気もするので、チョット載せておく。
「第四章 言語、応対」の」「第三節 応対の心得」の挿絵。向かい合わせの少女二人と、卓上のティーカップを一望に描いたら、テーブルが高くなってしまっている。カップが取りづらそうだ。
(おまけのおまけのおまけ)
「第十三章 服装」の「第二節 礼服」の図を挙げる。これは宮中参内・宮中大礼等に用いる、女子の公式礼服「袿袴」。洋装の場合は「マントドクール」と「ローブデコルテー」を用いる。「白襟紋付」は民間一般儀式に用いる礼服とある。
桂袴
ホントに昭和初期の「作法」の本なんだろうか(笑)。
「色目は黄櫨染(こうろぜん)、黄丹(おうに)、忌色即ち橡色(つるばみいろ)鈍色、柑子色(こうじいろ)、萱草色(かんぞういろ)を除くの外は適宜とす」とある。
参内の栄誉に舞い上がった人は少なくなかったろうが、娘のためにコレを仕立てさせたヒトは、どれだけあったのだろう。