主筆読書録

2018年6月


6月某日
 『[増補版]戦前回帰 「大日本病」の再発』(山崎雅弘、朝日文庫)を読む。
 「国家神道」にもとづく戦前日本の統治のあり方が、国家を滅亡寸前にまで追い込み、敗戦によってそれが否定されたにもかかわらず、自由民主党の政治家をはじめとする保守勢力の中に暗然と受け継がれ、今日、安倍内閣のもとでそれが公然と復活しつつある事を警告する本である(2015年9月に学研プラスから刊行された『戦前回帰』が加筆・改題されたもの。主筆は不覚にも前版を漫然と見逃していた)。

 「兵器生活」読者の少なからぬ方々は、お読みいただいているものと思うが、戦前・戦中について漠然と思うことが、明晰な文章で表出されている。

 日本軍と日本国民が守るべき「国」とは、天皇中心の国体、つまり「国家体制」のことで、その次に「領土」があり、「国民の生活と命」は、先の二つに比べると著しく軽視されていました

 と述べ、その背景に、「国家神道」体制という「ソフトウェア」(”OS”とも表現している)が存在していたと指摘する。その体制下で表出された言説を、本書は「大日本病」と名づけて、その病み具合を紹介しているわけだが、この部分は『「日本スゴイ」のディストピア』(早川タダノリ、青弓社、2016年)が、もう少し俗なものを含めタップリと紹介しているところだ(この本は『兵器生活』ファン必読と云い切ってしまおう。おかげでこの手のネタを書く気がなくなったのも事実だが)。

 本書は、「国家神道体制」の完成からその破綻と、第二次安倍政権での、その復活の前兆を並列させているわけだが、

 「形式的な愛国主義」に酔って合理的・論理的な思考を捨てた結果、当時の「国家神道」体制は、日本という国を破滅同然の焦土にしてしまう結果をもたらしました。
 (略)戦前・戦中の出版物に見られる「国体明徴」の高揚した文章を読むと、それらの筆者は「国体」や「天皇」を称揚することで、自分自身の価値をも高めようとしていたような印象を受けます。彼らは「国体」に献身する態度を取ることで、実は「天皇という偉大な存在に繋がる自分」を、より強く愛そうとしていたのかもしれません。

 このように、下世話ながらも馬鹿に出来ない考察が含まれている。
 世が世なら(そう云う世が来てしまったら)、間違いなく発禁だ。こう云う読み物が本屋に並んでいるうちは、日本はまだ大丈夫だと信じている。

6月某日
 『経済学者たちの日米開戦 秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』(牧野邦昭、新潮選書)読む。

 秋丸機関の名前は、以前読んだ本(部屋の本をかき回せば出て来るはずだが、現状復帰は無理なのでやらない)で知った。そこが書いたレポートこそ、帝国陸軍の必勝秘策だったとしたものと、持ち上げていた事は記憶している。
 その本は「通俗軍事・歴史本」の典型みたようなモノだから、その策をやれば勝ったのに、山本五十六ら海軍が余計なマネをしたため(以下略)、な内容だったのだが、本書は、プロの学者が同じネタを「正しく読み解く」と、必勝秘策は誰でも考え付く事を、それなりの根拠をつけて仕上げたレポートの一つに過ぎず、それゆえに重宝もされなければ否定もされぬ「作文」に過ぎないと結論づけている。

 そこで得られた諸外国の分析は、当時の市販書・記事に流用されているが、日本の分析だけは公表されてないと云う(レポート現物も破棄されたらしい)。そんなところに、米英新鋭機の情報は『航空朝日』はじめ新聞に随時載るのに、「零戦」の名前が公表されるのが、昭和19年の11月にもなってからだった事実―国民を基本的に信用していない―との親近感を覚える。

 しかし、本書の面白さは、レポートの話よりも、何で誰もがやったらヤバいと思う、米英との戦争を決心した背景を、流行りの「行動経済学」「社会心理学」を用いて考察しているトコロにある(『ほじめに』にも著者の興味はそこにあることを明記してある)。

 先日、六本木の新国立美術館に、メディア芸術祭の展示を見るべく歩いていたら、道を間違えて青山学院近くまで出てしまい、六本木ヒルズから15分も歩けば着くところを1時間以上彷徨ってしまったのだ。最初からタキシーで行けば良かっただの、ヘンな裏道に入るんぢゃあなかったなど反省しながら雨の中歩いていたわけだが、帝国日本のしくじりは「来た道を戻るのは詰まらぬからと裏道に入って迷子になる」のと同じだなあと、しみじみ思った次第。