敗戦前の本音と建て前
「大東亜戦争」末期に「本土決戦」が叫ばれたが、実施には至らなかった事は知られている。
鳥居 民の『昭和二十年』(草思社文庫)を読むと、ドーひいき目に見ても「一矢報いる」どころではなかったとしか思えないのだが、ヴェトナムを始め、アフガニスタンやイラクでも、大国が引き揚げを余儀なくされた事を思えば、本土決戦で敵に痛撃を与え、痛み分けに持ち込めたのではないか? と反論される向きもあるかもしれない。
しかし、それは隣国から物資(兵器も含めて)の供給が受けられる前提があっての話だ。本土決戦を叫ぶ人達も、腹の底では「負けっ放しだけは避けたい」と云う認識だったのだろう。
営業部門長たちが呑み屋で「こんな数字が出来るわけないだろう」とボヤいていても、その当人が部の会議では「予算は達成できる」と部下を叱咤激励するのは珍しい話ではない。組織の指導者には、構成員を目先の仕事に邁進させ、成果をあげてもらう責任がある。自らの弱気を隠しコワモテに出るだけでなく、希望的観測に基づき、ウソを押し通すようなマネをやらねばならない時もあるのだ(下向けと上向けで云う事が違うのは当然である)。
と云うわけで、たとえ指導層が戦争終結の落としどころを模索する真っ最中であっても、臣民に対しては、あくまでも徹底抗戦を叫び、必勝の策がある事を語らねばならないのである。
『アサヒグラフ』昭和20年6月5日号
沖縄戦が折り返しを越えつつある頃に出たのが、この『アサヒグラフ』昭和20年6月5日号である。
「厳(原文iは『にんべん』が付く)たり本土要塞」の下は「敗戦の苦痛・食糧決戦・戦災地を農場へ・義烈空挺隊進発す」の主要記事タイトルが掲げられている。
「「昭和20年の重要な号を抜粋復刻 終戦70年永久保存版」と銘打つ、『復刻アサヒグラフ昭和二十年 日本の一番長い年』(朝日新聞出版)92ページに、この号の一部が小さく掲載されている。この頃の同誌記事を紹介する解説の中で、「厳たり本土要塞」は、「屁理屈を記す」と冷ややかに斬り捨てられている。
「屁理屈」とマジメな書籍が斬り捨てている以上、これは読む価値の無い記事である。しかし「古雑誌記事のボタ(ズリ)拾い」こそ、わが「兵器生活」の本分である。安くはないお金を出して買ってあった現物が手許にあるのなら、これを紹介しないテは無いだろう。
例によってタテをヨコにし、かな遣いを改める等の改編を施してある。
厳たり本土要塞
沖縄決戦の牽制のために、敵は醜翼を連ねて連日の如く帝都をはじめ各都市、生産地帯の暴爆を繰りかえしている。その攻撃は痛烈、無残だ。被害は決して少くない。戦災者自身の痛苦はもとより、戦友たちの傷つきたおれる様を目のあたりに見る同胞の胸もいたむ。一時的にせよお互いに暗澹たる気持になりがちだ。戦局に対する感傷も絶無ではない。
敵の謀略はかかる隙を狙って易々と入りこむ。
敵の攻撃が「痛烈」「無残」、国民の気持ちは「暗澹」。のみならず、「戦局に対する感傷」―「もう駄目だ」とやれば捕まってしまう―まであると綴り、戦争の前途が暗いことが、一般国民たちの共通認識になっている事を示している。
記事の結論が上から押しつけられた「屁理屈」でも、記者の本音が現れている事もある。もちろん、そのままにしておけば記事は差し止め、記者は罰せられてしまうので「敵の謀略」―戦局をめぐる「真実」も含まれるだろう―云々と続け、当局の発表だけを信じるようクギを刺しておくのを忘れない。
見よ! 敵の凶猛、強引な反撃に対して、わが本土は着々と要塞化されつつある。物量の一切を傾けつくして押しまくる敵の戦術を、今やわれわれははっきり知った。神州を金城湯池の要塞と化して、ここに肝を据え、足を踏みしめて長期持久、敵をして大出血せしめねばならぬ。
勇猛心を振起せよ、"物"の鉄壁の他に"心"の鉄壁を築きあげよう。
うつ病患者に「頑張れ」と励ますような書き出しだ。
それはともかく、確かに一読するだけなら「屁理屈」と斬り捨てても構わない内容である。しかし、「屁理屈」と読み流すには惜しい、妙な記事なのである。
「醜敵はわが本土上陸を焦る。だが来らば来たれ。わが巨砲は既に整備成る」
太平洋の孤島に於ける玉砕部隊の悲報を聞き、名古屋の大爆撃を見、東京で大空襲を体験すると、如何にも敵の戦力が無限に大きなように考えられる。
だがこの敵の戦力も、詮じつめると、艦砲射撃の威力と、空襲の破壊力と、戦車、火砲の殺傷力である。
故に若し、敵の艦砲射撃を無効にし、空襲を無効にし、戦車、火砲の威力を無効にすることが出来たら、驕敵アメリカ軍も、全く無力な烏合の衆となる。
こうして敵の戦力を無くしてしまえば、あとは我が軍得意の斬撃突撃が敵を殲滅すること、決して至難ではなく、我が方の大捷も、正に掌を指すようなものである。
しかし問題となるのは、敵の艦砲射撃と、爆撃と、戦車、火砲の威力を、どうして無効のものにするかである。
なるほど見事な「屁理屈」だ。
相手の「威力」「破壊力」「殺傷力」を封殺するのは良い。しかし何故、敵に加えるのが我が新鋭・精鋭の「威力」「破壊力」「殺傷力」ではなく、得意の「斬撃突撃」でしかないのだろう。あまたの玉砕部隊は「斬撃突撃」に討って出て全滅したのではなかったか?
写真の「巨砲」は飾り物に過ぎぬと云うつもりなのだろうか。
本文はつづく。
これは今までの専門家の立場から見ても、素人の常識からしても、難事中の難事のように考えられて来たが、現実には、決して至難な問題ではなかった。
というのは、現に我が本土の要所々々では、それを実現して見事な効果をあげている。
それが謂う所の本土要塞化である。
「見事な効果」とあるが、決戦前にどうやって効果の程を測定したのだろう? これもまた「屁理屈」である。
本文は続くが、その前に記事に附された写真をいくつか紹介しておこう。先に挙げたものを含め、キャプションは記事にあったものを使っている。
「困難な地下要塞建設に 村の乙女たちも雄々しく協力する」
「雄々しさ」に性別があるとは聞いたことが無いが、「雄々しい乙女」にはちょっとばかりの違和感がある。
「築城に軍民一体となってこの活躍」
筋骨隆々たる兵がこの時期どれだけ本土にいたのだろう。今の目ではそう思う所だが、「まだまだウチらの知らないところには立派な兵隊さんがおるんだねえ」と、当時の純真すぎる臣民―例えば呉在住の「北條すず」さん―は安心したはずだ。
「一方食糧も次々と要塞内に集積を終る」
目をこらすと、缶詰の山に奥行きが無い。撮影用に手前側を多く積み上げたとの疑念は残る。
「要塞内には立派な炊事場も完成」
残念ながら便所の写真は無い。便槽の大きさは大丈夫なのだろうか。
このように立派なハコモノは出来たが、使わずして敗戦となったのだから、戦後の後知恵から見れば「無駄な工事」「宝の持ち腐れ」の批判は免れまい。しかし「本土決戦」を回避するための(味方を欺く)コストと勘定すれば、立派な「必要経費」と見る事も出来るのだ。
本文に戻る。
いま、本土の要所々々で軍隊が中心となり、学徒や地方民が協力して、構築している陣地帯は どんな猛烈な艦砲射撃にも、何等痛痒を感じないほど堅固であるし、また如何に大規模な空襲にも、びくともしない程の援護土層をもっている。況んや戦車や、重砲や、野砲あたりで、攻め立てたからといって、どうにもなるものではない。
こうなると敵が唯一の恃みとする化学と工業力と物量の威力も物の数ではない あとは我が総ての官民が軍に協力して"一人百殺"を強行すれば、大捷は期せずして我がものとなる。
敵は"日本民族の抹殺"を企画しているのであるから、今後我が一億の総てが玉砕してしまったのでは、正に敵の思う壺である。
だから来るべき本土決戦場では、敵の企画とは逆に、本土一億の悉くが、飽くまで生き永らえて、上陸して来る敵は、一人残らず皆殺しにしなければならない。
「構築している陣地帯」が本当に堅固かどうかはわからない。本当に堅固であれば敵は迂回して我の弱点を突くだろうし、あるいは囲んで兵糧攻めにしても良い。沖縄のように火炎放射器を載せた戦車を押し出して来れば、相応の損害は覚悟の上で「化学と工業力」で充分攻め立てる事が出来るだろう。
相手を参らせるには、こちらから攻めて行かねばならぬ事は云うまでもない。「一人百殺」が実行出来れば、確かに「大捷」は疑いなしだろう。
屈指の激戦と云われる硫黄島では、約2万3千人の日本軍が、およそ2万9千人の米兵を殺傷していると云う。平均すると「一人1.3人殺傷」(死者に限定すれば『一人0.3人殺』程度)。沖縄では11万6千の日本軍が8万6千の連合国兵員を殺傷して「一人0.7人殺傷」(死者だと『0.1人殺』程度)である。もちろん、日本軍の全員が最前線で戦うわけではない以上、これは机上の計算でしかない。しかし普通の戦い方で万人が「一人百殺」を実行するのが困難な事は理解出来よう(逆に『大量破壊兵器』と、それを相手にぶつける手段が確保されていれば、広島・長崎のように、一人あたりの殺人量を計算する気にもならない場合もある)。
そうなると、ここで本当に云わんとしていることは、「我が一億の総てが玉砕してしまったのでは、正に敵の思う壺である」の一文に尽きる。それは次に続く文章を読めばわかる。
その具体的方法は、築城と増産だ。即ち、敵の物量攻勢は前述の築城で完全に封殺出来るし、また、食糧の増産さえ怠らなかったら何年でも頑張れる。
昨今全国各地で兵隊が先頭に立ち、学徒や地方民の協力を得て、築城と増産に懸命の努力を続けて居るのもそのためだ。
記者は最近、西日本の前線各地を視察した。そして身を以て痛感したことは"頑張りさえすれば必ず勝つ"ということである。苦しい戦ではあるが、我が大捷は最早眼前に迫っている。もう一息だ。大いに頑張ろう。
(本社戦時資料調査室)池田源治
「皆殺しにしなければならない」に続く「具体的方法」は何かと期待していたら、「築城と増産」なのである。しかもこれで記事全文は終わりなのだ。文章の構成がおかしいと云うべきだろう。記者が気づかなくても、デスクが読めば前後のつながりが悪い、書き直し! と突き返されても仕方のない文章だと思う。もちろん、池田記者は当局発表と取材に基づいて、キチンと「具体的方法」を書いたにもかかわらず、編集の過程で意図的に削られた可能性はある。
いずれにせよ、「築城と増産」を「頑張りさえすれば必ず勝つ」が結論となっている以上、皆殺しなんか出来っこないのだから、「官民」はとにかく生き残る事を考えろ、と読むべきものと推察するのである。
「屁理屈」に意図的な「誤読」が結び付くと、予想もしなかった方向に至ってしまった。
改めて『復刻アサヒグラフ昭和二十年 日本の一番長い年』の記事解説を読み返すと、『写真週報』373号(20年6月21日)にも、同じタイトルの記事があると云うので、、中野区立中央図書館にある復刻版を見に行って来る。
鈴木総理の施政方針演説の内容を紹介する記事に続き、なるほど同じ「厳たり本土要塞」のタイトルで以下の文章を載せている。こちらには「驕敵来たらば"一億特攻"で断乎殲滅へ」と特筆大書されており、ここからして雰囲気が違う。
(略)今や神州本土は 迫り来る野獣を前にしてその歴史的な怒りを爆発させようとしている。山野悉く武装し、草木すべて御楯ならぬものはない。醜敵来れ、すでに不抜の本土要塞は厳として全土にその威容を横えているのだ
この鉄壁の邀撃陣地は凡そ敵の上陸を予想せられるあらゆる地域に構築され、日と共にその数を増しつつある。而もそれは過去に於ける敵の攻撃力や、我が軍の防御力から得た尊い経験を土台として 絶対不落を誇るに足る特殊な構造を有している。
最も顕著なる特徴は 敵攻撃力の重点たる爆撃や艦砲射撃や機械化兵力に対して 不死身の強靱さを持っていることである。即ちその悉くが 砲爆撃等によって破壊されぬ強固な地下施設であるということである。
『アサヒグラフ』記事と同じく、「本土要塞」の整備がなされつつある事が書かれているのだが、こちらの方は格調高い文章で、純真な臣民―例えば呉在住の「北條すず」さんのような主婦―に解るのかどうか不安があるが、「絶対不落」「不死身」と、明記されているからそこだけ読んでおけば充分心強い。
日本本土が「歴史的な怒りを爆発」させたら、それはもう「日本沈没」クラスの大災害ではないかと、いらぬツッコミを思わず入れたくなる、早川タダノリ流に云えば「香ばしい」文である。
次ぎにそれはマジノ線やジークフリート線のような特定の地域にのみ作られたものではなく、非常に広範囲な地域に亘って無数に構築されているということである。即ち極端にいえば神州全土が隈なく要塞化されつつあるのである。従ってかりに一地点が突破されたからといって致命的な打撃を蒙ることはない。またこれらの構築に当たっては厖大な資材を要せず、僅か数週間でどこの地点でも作り得るので必要に応じ戦闘中にもその数を増やしていけるのである。
「戦闘中にもその数を殖やしていける」とあるのは心強いようだが、その工事に駆り出される当該地区住民はたまったものではない。
拠点の一つが取られても、日本全土が要塞なのだから致命傷にはならないとは、文字通りの「屁理屈」である。
更にこれらの諸要塞は完全に秘匿せられており配属部隊以外には全然見当がつかぬほどで、敵機の偵察にも絶対に発見せられるようなことはない。
その上従来の要塞のように固定正面がなく、前後左右に自由に攻撃を加え得る柔軟性があり、而もこれらは戦闘中も孤立することなく相互に連絡し得るように設計せられている。そして武器、弾薬、食糧等の貯蔵も十分にしてあり、たとえ補給路が断たれても戦闘能力を失うようなことは決してない。しかし余程のことがない限り、四方地つづきの本土に於いては従来の孤島戦のように補給の絶える虞れはないのである。
「前後左右」とは敵に包囲される前提でいるようなものである。
「秘匿」云々を文字通りに捉えると、前線から「整然と転進」してくる(厭味である)味方部隊は、要塞にたどり着く事が出来ない。築城に協力した近隣住民がウッカリとしゃべってしまう心配もありそうだが、彼らは「国民義勇隊」の任務として従事している以上、口を割る事はできない。
さらに記事は「地つづきの本土」だから補給路が断たれる事はない、と胸を張っているが、結局のところ補給が船ごと水没するか、路上に残骸が放置されるのかの違いでしか無いように思う。「絶対にない」「決してない」と豪語していても、これは正直アテにならない。
しかし強気過ぎる文章はまだ続くのである。
本土要塞に於ける邀撃戦の一大特徴は、地上破壊力の大なる敵を無力化するために全軍が地下に潜って闘うという仕組であって、従来のいかなる戦場にもみられなかった独特の戦法であり、まさに戦略上の一大革命ともいい得るのである
敵は本土に侵入すると共に我が無数の地下要塞に行手を阻まれ、或いは独特の斬込戦法に悩まされた末、強力な主力の反撃を食って徹底的に粉砕せられるであろう。
ここに我が本土要塞が難攻不落の堅陣を誇り、敵殲滅の自信満々たる所以があるのである。
『アサヒグラフ』の書かなかった「具体的方法」―当局が力説したい―とは、防護力に富んだ地下要塞群による敵の拘束と、大口径砲を装備した戦車・砲戦車を含む「主力の反撃」と云う真っ当なものである。
問題は要塞そのものに対する攻撃が無効となっても、要塞の外で戦う「主力」の防御力自体は別段強化されているわけではないことだ。つまり、「主力」が敵空軍の目を盗んで決戦場にたどり着ける保証がどこにも無いことである。
自ら強がりを云う『写真週報』と、それを聞いて伝える『アサヒグラフ』の「本土決戦」に対する温度差は、記事の性格が変わってしまうくらいに大きいものがある。『写真週報』記事に掲載された写真が、「朝日新聞社」提供のものであることが、強くそれを感じさせるのだ。
「戦略上の一大革命」(『戦術』ではないのか?)と豪語しているが、ならばもっと前に準備しておけよと思うし、「本土決戦」で勝利を掴むと本気で云うのなら、そもそも真珠湾まで軍艦を沈めに行く必要は無く、ハル・ノートを受け入れ臥薪嘗胆で戦争を回避した方が、失うモノは少なかったのではないか、と厭味の一つも云いたくなってくる。
「嘘も方便」とは云う。
民心を動揺させぬため「直ちに影響はない」などと、為政者や組織指導者が本当の事を隠す行為をすべて否定するつもりはない。しかし、その場を繕うための安易な「嘘」―表だって「嘘」とは誰も云わないが―が一人歩きを始めて世間の糾弾を招く事態は後を絶たない。
間違っている、と感じたらすぐに改めるに限る。ここまでしか出来ないと思ったら、早く口に出した方が良い。
(それこそが困難なのは、我が身を振り返ればイヤんなるくらい痛感しているが、あえて記す)
(余談)
例によって古雑誌記事の引き写しと与太を連ね、ほぼ仕上がったところで『日本本土決戦 知られざる国民義勇戦闘隊の全貌』(藤田 昌雄、潮書房光人社)を読み返すと、本稿で使った『アサヒグラフ』掲載写真が載っているのに気づき、顔面蒼白となる(笑)。
この本を読むと、「本土決戦」準備―資材だけでなく、組織の編成からマニュアルの作成・配布、新聞での周知等も含め―に、厖大なコストがかかっていた事が実感できる。
掲載された「甲種食糧増産隊」の写真を見ると、食糧事情の悪さが百聞は一見に如かずそのもので良くわかる。『アサヒグラフ』には載らなかった「一人百殺」のための武器、戦法もこと細かく記された面白い本である。