「紳士に非ず」 伊太利亜軍人からの手紙


 兵器ファンにとってイタリアの印象は何故か芳しくない。国民性や気候、食べ物といったものは全く関係は無い。「イタリア軍は弱かった」この一点において、イタリアと云う国家及び民族は一部日本人から馬鹿にされてきたのである。恐らくこれからも馬鹿にされ続けるであろう。

 有名な話である。ドイツ人と日本人が酒場で意気投合すると必ずこう云い合うのだそうだ「次はイタリア抜きでやってやろうぜ」真偽の程は知らない。


 このようにロクな評価をされないイタリア軍であるが、当のイタリア人はそれを屈辱としていたのかどうかは、本邦において議論されたと云う話を聞かない。
 勇猛果敢を旨とする軍人はどのように思っているのだろう?


 「日本評論」昭和15年1月号に以下のような広告が載った。(原文は縦書き)


 1939年11月18日田村幸策氏に手交したる書面の訳文
 東京伊太利亜大使館附武官事務所
 1939年ファッショ紀元第18年11月18日

   田村 幸策 殿

 雑誌「日本評論」11月に掲載せられたる「伊太利の中立と将来の動向」と題する論文において、貴殿はイタリヤ及びその陸軍の実力を誹謗したる後、「イタリー人は戦場に於ては必ずしも勇者ではないが、巧妙なる外交家であるから云々」と結論せられたり。

 この論文は、イタリヤ国民の軍事上の名誉に対する侮辱にして、小官は貴殿にその説明を求めたるところ、

  (イ)貴殿は小官に対し、その断定の根拠を明示すべき何等の証拠材料を与うる事を得ず。
  (ロ)また公然小官に満足を与うる事を欲せらず。


 依て小官は貴殿を、不正直且つ無責任なる誹謗者にして紳士に非ずと断定せざるを得ず。

 小官はこの書面の必要なる公表をなすべき事を貴殿に通告す。

  伊太利亜大使館附陸軍武官
    陸軍参謀中佐 グイド・ベルトーニ


 読んでの通り、イタリア陸軍軍人からの正真正銘の抗議文である。当「兵器生活」世話人たる自称印度総督が、読者から文句を云われるのとは次元が違う(笑)。田村氏もさぞや青くなったことであろう。中々の名文である。


 この抗議の顛末がどうなったかは、それ以降の「日本評論」誌が手元に無いので現時点では不明である。読者諸賢は「また例によってこれで終わりだな」とでも思っていればよろしい(笑)。


 鑑賞のポイントとしては、やはり「イタリア軍=弱い」と云う説が、この時代に既に公表されていた点である。
 当時のイタリアが何をしていたかと云うと

 1936年 5月エチオピア併合
 1939年 4月アルバニア侵攻

 と、第二次大戦の間隙を縫って、地道な(笑)勢力拡大を続けていた。その後の歴史は、

 1940年 6月英・仏に宣戦布告
       9月エジプト侵攻開始
      12月英エジプトで攻勢に転ず
 1941年 1月英 伊領リビア トブルクを占領
       4月英 アジスアベバ入城
       5月エチオピア独立回復 … 

 と現在我々が良く知るところの「弱いイタリア軍」が歴史に現れ、北アフリカを舞台に英独が死闘を展開することになるのである(伊はどこへ行ったのか?)。

 もう一つの鑑賞ポイントは「ファッショ紀元」の存在である。
 いわゆる西暦以外の歴号としてはイスラム歴が現役の他、日本の皇紀がおなじみである。私はこんな歴号があるとは今まで知らなかった。はたしてイタリア人に「来年はファッショ紀元79年だねえ」などと云って通じるかどうか、年末イタリア旅行を予定しておられる読者諸氏は、現地でお試ししてみる事をお勧めする。ただし、その結果いかなる事態に陥ろうとも、「兵器生活」および印度総督府は一切関知しないのでそのつもりで。


 「紳士に非ず」
と抗議文を送っても無駄です。       

 その後国会図書館にて、田村論文を入手したので、以下に全文を掲載する。原文の表記を尊重したが、読者の利便を鑑み、漢字、仮名遣い、改行等に改変を加えてある。本ファイルを利用される方はその旨御了承の程を…。
 伊太利の中立と今後の動向

 中立を守る6大事由

 世界の常識に背反して伊太利が中立を守って居ることには凡そ6個の重大なる事由があると思う。

 元来伊太利は「エチオピア」遠征に巨額の軍費を使い次いで「エチオピア」占領地の経営に多大の資金を投じ更に引き続き西班牙の内乱に深く介入し数万の大軍を派遣して「フランコ」革命軍を援助する等前後4年有余に亘る外征に依り国力を消耗すること決して少なくないのである。

 貧弱なる伊太利の経済力を以てして此の上更に何時終わるとも知れない大戦争に参加することは到底疲労せる伊太利の耐え得る所ではないことは何人にも容易に首肯出来るのである。

 是れ8月中旬「ザルツブルグ」会場に於て伊太利側の申出に依り、「ダンチツヒ」問題の武力解決には伊太利不参加の議が成立し其の後9月1日「ヒトラー」が波蘭に攻込むに当たって伊太利の援助を頼らず独力を以て之を決行する次第を特に声明した理由の一であると思う。
 即ち財政上及経済上の顧慮が伊太利をして中立を守らしめた第一の事由である。


 第二の事由は伊太利の軍事上の脆弱性に在る。
独逸に対しては英国の大海軍も仏蘭西の大陸軍も容易に之に接近して攻撃を逞しくすることが出来ないけれども若し伊太利が独逸側に参戦すれば英仏の全攻撃力は伊太利に集中せられ英仏の鋭鋒は伊太利が一手に之を引き受けざるを得ざる地理上の形勢に在るのである。


 伊太利の空軍と潜水艦は大分日本などでは宣伝されて居るようであるけれども真剣になった英仏の敵ではないことは公平な物の見方をする者の大体一致した観測である。
 「エチオピア」戦争当時の如く真剣になって居ない英仏の態度を見て英仏の実力を軽視速断することは極めて危険な事業である。

 現在の伊太利は英仏の大海陸軍に威圧され手も足も出せない潜伏状態に在ると見るのが実状ではないかと思う。

 以上二個の事由は大体に於いて伊太利側の立場から見た中立保持の理由であるけれども以下叙べんとする四個の事由は寧ろ独逸側の立場から見て伊太利の中立を望んで居ることを示すものである。

 即ち伊太利が独逸に対して好意的中立を保って呉れる事は独逸にとって陸接国境を経由して物資の輸入を潤沢ならしむる利便がある。換言すれば伊太利の中立は伊太利をして独逸の兵站基地たらしむる効果があるというのである。是れ独逸側から伊太利の中立を望む第一の事由である。

 乍併英仏としては夙に此の点に留意し徒らに伊太利をして中立の地位を濫用して独逸を利せしめざる措置を講じて居るものと思う。殊に石油などに対しては既に平時伊太利の需要額以上には輸入を許さないという割当制度を厳施して居るものと推測せられるのである。

 独逸側から伊太利の中立を望む第二の事由は「ジークフリート」線の突破には百万の犠牲と年余の歳月を必要とする。従って仏蘭西の最高統帥部に於いては夙に北伊太利を通過して墺太利に攻入る計画を立てて居るとのことである。故に若し伊太利が独逸側に参戦すれば恰も仏蘭西か白耳義若くは瑞西などの中立を侵して独逸に攻入るに同様な結果になる処がある。独逸としては軍事上非常な危険に曝されることになるというのである。


 第三の事由は伊太利が中立を守って向背を決せざることは仏蘭西をして少なくとも70万の大軍を伊太利国境に釘付けにさせる効果がある。現に前回の欧州大戦に於いても伊太利の参戦に依って仏蘭西は50万の大兵を西部戦線に送ることを得たのである。斯くの如く伊太利の中立は独逸の為に仏蘭西を牽制する効果が大にあるのである。


 第四の事由は若し伊太利が独逸側に参戦すれば直ちに英側の厳重なる封鎖を受ける。然るに伊太利の国民経済は八割を外国貿易に依存して居る。従って伊太利としては食料も衣服も武器も弾薬も総て之を独逸に仰がざるを得なくなる。独逸としては伊太利を味方としたが為に却って厄介者を背負い込んだことになる。殊に況や伊太利の戦線は独逸軍の援助なくしては到底英仏連合軍に立ち向かうことは出来ないに於いてをやである。
 結局伊太利を味方にすることは黒字ではなく赤字になるのである。


 是等四個の事由が独逸をして却って伊太利に中立を守って欲しい理由である。要之以上六個の事由が総合して無条件赴援義務を規定する独伊同盟が成立して以来にわかに一百三日目に勃発した今次の戦争に伊太利が参加しない結果になったことと思う。
 猶今日となっては最早消滅したけれども独逸としては伊太利に中立を守らせ波蘭の攻略が一段落を告げたならば調停役に立たしめんとする魂胆であって夫れが為に豫て伊太利の中立を外交上の貯水池として残して置いたものとも想像し得るのである。併し斯る時代は既に過ぎ去ったようである。




 独逸側に加担し得るか

 伊太利は前回の欧州大戦に英仏側に加担して戦勝に寄与したるに拘わらず何等獲る所はなかったではないか。「ムソリーニ」が「ヴェルサイユ」体系の破壊を指標とする「ヒトラー」と提携したのは夫れが為ではないか。殊に伊太利の志望する地中海の覇権掌握といいかつ又「チュニス」、「ヂブチ」、「スエズ」に対する要望といいどれも英仏の権益に挑戦するのである。故に伊太利としては今回は独逸に対する好意的中立をこそ守れ義理にも英仏に転向するようなことはあるまいというのが通説のようである。

 乍併
前回の欧州大戦に伊太利が何物も獲なかったというのは「ムソリーニ」になってからの宣伝であって事実は正反対である。伊太利は参戦の条件たる倫敦条約所定の領土は大半を得て「アドリアチック」沿岸に於いて宿昔の要望地を回復し大に領土を拡張したのである。若し逆に独墺側に参加して敗戦してでも居たならば奈何。伊太利の膨張などは思いも寄らず左なきだに鶴の如き痩躯を更に削減させられて居たに相違あるまい。

 元来英仏側の考えでは伊太利に参戦して貰ったのは良かったが夫れが為に物資は勿論のこと多数の英仏軍隊(後には米国軍隊)までも送って応援しなければ北部伊太利の戦線は支持出来なかったのである。今回も或いはそうなるかもしれないが結局厄介者を背負込んだことになったのである。
 故に阿弗利加の領土に関しては倫敦条約に約束した通りに履行して居ないけれども、伊太利の獲た所は其の努力及び功績に照らせば優に償って余りあるというのである。
 伊太利をして飽迄独逸と運命を共にせしむる誘惑物がありとすれば、夫れは「ムソリーニ」の夢想する昔の大羅馬帝国の再建であって、地中海を中心とし其の四辺を洗う欧羅巴、阿弗利加及び亜細亜の土地及び水面に対する覇権を握らんとすることである。

 嘗て「ビスマルク」が普仏戦争後の仏蘭西に、阿弗利加方面への膨張を扇動した如く「ヒトラー」も「ムソリーニ」の此の野望に油を注いで居るものと推察される。「ムソリーニ」の此の野望は英仏に追随して居たのでは永久に実現することはないかもしれない。実現するにしても其の方法と時機とは国力の自然的発展を待つの外ないのであるから非常に暇がかかる。
一挙直ちに其の理想を実現せんとすれば独逸に互して孤注一擲の大賭博を張って英仏と戦争して之に勝つの外ないのである。

 国運を賭して此の漠然たる希望の達成に乗り出すか。将又国力相応の堅実なる歩みをするか。伊太利は岐路に立って居る。西洋の政治家には兎角賭博若くは冒険癖に富んだ人物は多いから何とも予断は出来ないが健全なる常識からすれば結論は決まっていると思う。
 伊太利は石油の殆ど全部を海外に仰いで居る。殊に大部分は英国の勢力下に在る「メソポタミア」から供給を受け一部分を「ソヴィエト」及「ルーマニア」から得て居る現状である。故に一朝伊太利が独逸側に参戦すれば石油の供給は全部直ちに途絶するという弱点がある。強大を誇る伊太利の空軍は勿論のこと潜水艦まで飛ぶことも走ることも出来なくなる。

 「ボノ」将軍の著書に「エチオピア」戦争の際英国が真剣に伊太利の経済封鎖を行い石油までも禁止したならば伊太利は降伏したのであると評して居ることは事実であると信ずる。現に「ムソリーニ」も当時石油の供給を止めれば英国と戦争であると断言したのは遣般の事情を自白したものである。序に独逸も石炭の液化に依って石油の全消費量の約三割を自給し得ると謂われて居る。
 
流石の独逸大空軍も動力の七割は外国に依存する実状である。石油の一事のみを以てして猶且然りである。伊太利が独伊同盟仮存するに拘わらず容易に独逸と事を偕にする能わざる理由は推及に難くないと思う。



 英仏側に味方するか

 最近数年来伊太利は独逸と提携して「ヒトラー」が矢継早に中欧に領土を拡張することを援助した。「ヒトラー」としては十二分に「ムソリーニ」を利用した訳である。「ムソリーニ」としても亦其の御陰を以て英仏をして「エチオピア」の征服を正式に承認せしめ又「アルバニア」を併合し得たのである。
 問題は今後も独伊の間に均衡の取れた利益交換若くは代償物が残存するか否かである。

 今日までの所では独逸側が借方で伊太利側が貸方のように思える。独逸に多く与え過ぎたことに関しては「ムソリーニ」も多少焦って居るのではないかと想像される。英仏外交の狙い所は茲に在る。乍併英仏としては不幸にして前回の欧州戦争の如く伊太利の望む所が敵国側の領土に在らずして前述の如く英仏自身の権益内に存する点に悩みがある。
 英仏としては出来る限り譲歩して伊太利の地中海に対する志望を満足させることに努めるものと期待せられる。現に英仏と伊との間には其の点に関する商議が開始され或種の試案が成立したとさえ伝えられて居る位である。

 伊太利には地中海方面に対する南下論の外に巴爾幹方面に対する北上論もある。墺太利が永く独伊接近の障害物であったことは周知の通りである。然るに一度伊太利が墺太利に対する野心を抛擲して之を独逸に譲るや両国の接近は忽ちにして軍事同盟にまで進展したことも周知の通りである。
 乍併伊太利の北上論は独り墺太利のみを目指したものでなく洪牙利、ユーゴスラーヴ、希臘及土耳古にも注がれて居るのである。此の点に於て既に巴爾幹諸国と密接なる経済的関係を樹立し之を政治的関係にまで進展せしめんとする独逸とは正面衝突する立場に在るのである。
 本年五月独伊同盟成立の際にも若し将来此の同盟に亀裂を生ずることがありとすれば夫れは必ずや巴爾幹に於ける独伊の利害不一致であると噂された位である。


 前回の欧州大戦に於いては伊太利は中立を守ること十ヶ月にして昨日までの同盟国たる独墺を敵として英仏側に加担したのである。一見如何にも同盟国を裏切った不信の行動のようであるけれども是れは「サランドラ」首相の所謂「神聖なる利己心」に依ったものであって当時の事情を究めた者には不思議はないのである。

 蓋し当時の伊太利は独墺の同盟国ではあったけれども独墺としては伊太利が自分等に加担して参戦して呉れるものとは期待して居なかった。独墺の希望としては伊太利をして好意的中立を持続せしむるに在った。然るに英仏側に於いては何とかして伊太利に中立を捨て英仏側に加担せしめんとしたのである。換言すれば英仏としては伊太利の参戦を購わんとし独墺としては伊太利の中立を購わんとしたのである。従って其の代償も中立を購うよりも参戦を購う方が高価であることは当然である。
 幸か不幸か伊太利の望む代償は主として墺太利の南部地方であった。故に英仏としては敵国の領土を与えることであるから遠慮はなかった。然るに墺太利としては自己の領土を犠牲にすることであるから渋るのは当然である。独逸は同盟国ではあるが他国の領土を与えることであるから吝ちなことは言わなかった。共同利益のためと号して墺太利の犠牲を説得に努めたのである。

 当時伊太利の外務大臣として英仏及び独墺の両陣営に対し此の機敏な交渉を行ったのは「シドニー・ソンニノ」という猶太人を父とし英国人を母とする雋敏且つ剛直の人であった。交渉数ヶ月にして遂に同盟国を捨て英仏側に走ったことは周知の通りである。

 ここに一言を禁じ得ないことは当時伊太利の国論二派に分かれ上下沸騰して居た際に今日は伊太利の二大新聞の一となって居る「ポポロ・デイタリア」なる新聞を創刊して
旺んに英仏側に参戦を主張した無名の一社会党員こそ余人に非ず実に「ムソリーニ」首相その人であった。二十五年以前の「ムソリーニ」が今日の「ムソリーニ」と同一の心境に在るか否かは素より断言の限りではないけれども此の史実は一応記憶して置く必要がある。
 殊に現在の伊太利が「サルヂニア」王家の下に伊太利統一の大業を成遂げ得たことは、一に「ナポレオン」三世の御陰であるから伊太利の皇室としては仏蘭西に弓を引けない義理合があるのである。伊太利の皇室が如何なる程度まで実際政治に御勢力を振い遊ばすかは窺い知らないけれども、此の史実も亦一応記憶して置く必要がある。

 乍併他の一方に於いては、若し伊太利が独逸に背いて英仏側に参戦するようなことがあったとすれば、北部伊太利は忽ち優勢なる独逸の大軍に蹂躙せらるる危険が大にあるのである。伊太利としては其の何れの陣営に参戦するに拘わらず、苟も参戦すれば北部伊太利の土地は戦場と化する甚大なる不利益を蒙る窮地に在ることは疑を容れないのである。殊に斯かる場合、独逸は巴爾幹に於ける伊太利勢力の駆逐に乗り出し、又阿弗利加の伊太利領土に叛乱を扇動する等悪辣なる報復手段に訴えることも予想せざるを得ないのである。


 莫遮伊太利人は必ずしも戦場の勇者ではないけれども外交には妙手である。故に現在の困難なる立場を克服し、刃に依らずして国民的志望を達成する方策を講じつつあるものと信ずるのである。(1939、10、10)

 田村氏はイタリアの国力からドイツ側への参戦は無いものと見ていたようである。しかし現実にはフランスの屈服を良いことに、「大羅馬帝国」復活の大博打に打って出て、素寒貧になったのは周知の事実である(笑)。素寒貧どころか一族郎党逆さ吊りになってしまったのである。
同盟国のドイツも、本来予定していなかった北アフリカに兵を派遣し、イタリア軍の尻拭いに奔走し、ムッソリーニ失脚後もイタリアで戦闘を続けなければならなくなった。まさに「大赤字」である。

 慧眼の士は、ここに当時の日本の置かれた立場を容易に見ることが出来る。中国大陸に於いて矛を収める事が出来ないまま、フランスの対独降伏のどさくさに仏領インドシナに進駐したのは外ならぬ我が祖国である。そしてこのことが米国の対日経済制裁の強化となり、あの「大東亜戦争」へと繋がっていくのである。

 自国の失政の穴埋めを他国に求めると云う愚かさの見本がここにある。


 とは云え、ここまで書かれては文句の一つも付けたくなるのが人情と云うものであるし、後の歴史を見ても、田村氏が沈黙を守ったのも、うなづける話である。