「二十世紀 恋愛美文」
予習・復習なんぞやらず、軍用機や戦車のプラモデルを作っていると、「人殺しの道具なんかに興味を持って」「明日にでも戦争が始まれば良いと思っている」と母親にイヤミのひとつふたつ云われる事が何度かあった。
国民的漫画映画作家が自作の中で、飛行機は美しいと言葉にしてくれたおかげて、これからは「美しいんだから仕方がない」と云い返すことが出来るのだが、それを待つまでもなく、わが母は、今や「ブルーインパルスが飛んでたわよ」、と電話をかけてきたり、「所沢にゼロ戦が来るんだって」と新聞の切り抜きを送りつけてくるようになって久しい。
世の中に出回っている、兵器・軍事への嫌悪感の半分は、デキの悪い息子に起因するらしい。よって、宮崎駿だってゼロ戦の映画を作ったじゃあないか、と反発するよりも、親の肩でも揉み、親孝行の一つでもやる方が、世のため人のためである。
人の生き死にに関わる度合いで、モノの善悪が決まるなら、今時の電車の方がよっぽど「人を殺し続けている」。
「二十世紀 恋愛美文」(野澤 濶、偉業館)と云う、妙な表題の本を買ってしまった。明治38(1905)年6月印刷・発行だから、日露戦争の後半、日本海海戦の年に出た本である。
序にいわく―例によって原文を改編してある―、
ヨコジュンの古典SF話に出て来そうな装幀だ(笑)
二十世紀恋愛美文序
世に恋愛の情と云うときは、総て生物たるものの心意念慮の上に於て、貴賤高卑の別なく平等均一の作用あるべきなり。
然れば国土の東西を問わず、地域の遠近を論せず、特に恋たり愛たりと云わば、悉皆之に応じ更に恋たり愛たりと唱えんのみ。古哲曰く、恋愛天地自然の花たり実たり、若此花なく斯実なからんか、人間社会は僉寒燥無味にして、争闘喧嘩、厭悪忿恚の修羅場たらんのみと、実に至言と云うべなり。
爰に余二十世紀恋愛美文の著あり、自所感を記して序辞に代う。
(要旨)「恋愛の情なくて、何の人生ぞ」
美しき文章で、新世紀の恋愛を謳い上げる(と標榜する)本。
21世紀も既に10年も過ぎた今では、『美文』など、文字数のわりに中身が薄い、ワープロ時代にあっては漢字変換も面倒―読み方がわからない―だ、と、顧みられなくなって久しく、その模範文例など「今の時代には合わない」本の典型と云える。
目次をざっと見渡すと、冒頭の「春に寄する恋愛」(季節の部)あたりはさておき、
「盂蘭盆に寄する恋愛」(太陰暦の部)
「道路に寄する恋愛」(天地の部)
「桜に寄する恋愛」(花の部)
「狸に寄する恋愛」(獣の部)
「口論に寄する恋愛」(人事の部)
「落語に寄する恋愛」(遊戯の部)
「上野公園に寄する恋愛」(名所の部)
単に森羅万象名詞のあと、「寄する恋愛」を付けて項目とし、それから構を練り、美文に仕上げているようである。
その中に、
「軍艦に寄する恋愛」(軍事の部)
を、見つけてしまった以上、買って帰らずにおらりょうか♪ なのだ。
と云うわけで、今回は「軍艦に寄する恋愛」の本文をご紹介する次第。
原文は末尾にのみ読点を置く「一文」なのだが、例の読者への便宜のため、句点の一部を読点に改め、適時改行を施してある。縦書きをヨコ書きにしてある事は、云うまでもない。
軍艦に寄する恋愛
勇猛激烈のものにして、却って柔軟平和のことあり、而も惰弱為すべからざるの愚痴其のものを云うにあらず、常に温順愿和を好み、非常に際して、雲蒸龍変、一気天地を貫くが如きの挙動あるを観る。
今茲に軍艦あり。常時平寧無事に在っては、僅かに蒸気の働くあり、機関の転旋するあり、浪濤の上に進退して、別に異状を示さずと雖も、一朝戦闘に及ぶときは、怒濤を蹴り天雲を衝き、千万の敵軍に対抗し、突貫猛進、能く之を破摧し盡し、無数の放弾迅電激雷の概を現わすに至る。
嗚呼事物は陰あり陽あり、両々相持して後、初めて其の整完を効す(いたす)べきなり。即是軍艦の挙措に於けるも、畢竟恋愛の域を脱せざるところあればなり。
(現代語)勇ましく、猛り、烈しいものが、逆に和み柔らかな佇まいを見せる。また、だらけ、弱さによる行いをするなと言うこともない。いつもおだやかで素直で柔和なものが、ここぞと云う時に、雲が集まり龍となるように、一気に天地を貫くような烈しい動きをするのを見る。
今、ここに軍艦がある。平和な時にあっては、わずかに蒸気をあげ、発動機を廻し、波の上を行きかい、特に異状を見せることはないが、ひとたび戦闘を始めれば、波濤を蹴立て雲を衝き、敵の大軍に向かい、これを破壊し尽くす。放たれる無数の砲弾は、激しい稲妻を感じさせる。
ものには陰と陽があり、相揃って初めて完璧となる。すなわち、軍艦のふるまいも、結局は恋愛の範囲を逸脱してはいないところがあるのだ。
…恋愛トハ何ゾヤ?
「日本国語大辞典」(第二版)の記述を見ると、
「特定の異性に特別の愛情を感じて恋い慕うこと。またその状態。」とある。『軍艦』を『特定の異性』と云うのはいくらなんでも無理がある(この『恋愛美文』に書かれているモノすべてがそうだ)。
この本に云う『恋愛』とは、今日我々が想像するところの、『○○ちゃんハアハア』的心情ではないのである。では、どんな意味を持っているのだろうか?
この本が出た、明治時代の辞書から、当時の『恋愛』の意味を調べてみる。
「ことばのはやし日本大辞典」(明治21年)、有名な「言海」(明治22−24年)、「日本大辞典」(明治27年)、「日本大辞書」(六版明治28年)、「ことばの泉」(明治31年)、国書辞典(明治35年)と、国会図書館のデジタル資料―館内限定公開資料除く―を半日かがりで見ていくが、何と、これらの辞書に『恋愛』の項目は無い。
『恋愛』が項目として存在しているのは、時代がぐっと下って明治45年「大辞典」(下)に、
「恋情によっての愛。又、恋情と愛情と。」が見えるくらいである(自宅からは見ることの出来ぬ『館内限定公開』資料と、上記辞書が改版の際に、収録された可能性は否定できない)。
この辞書での『恋情』は「恋慕の情」、『恋慕』は「こひしたふこと」。『恋』は「したはしくおもふ、したひこがれる、転じて、男女互いに愛する」とあり、『愛』は「いつくしむこと。かはゆがること。又、いつくしみの心」の意味と云う。
『恋愛』の項目は無くても、『あい』『こひ』(動詞『こふ』の記述の方が詳しい)は、さっきの辞書にだって載っている。その意味するところは、どれも似たり寄ったりなので略す。
「日本大辞書」には、『愛』のところに
愛とこひとの二語、今日の普通の意味に因れば、あいはこひより意味がひろく即ちあいは一般外界の物に対しての想いに差し支え無く言える、但し、こひは寧ろその一部分で、主として男女間に出るいつくしみの情などの意味を持つ「生まれて三歳愛を知り、十五ようやく恋を知る」
などと書いてあって、本稿と直接関係は無いが面白い。
「恋愛美文」の『恋愛』とは、事物を慈しみ、慕う心、『もののあはれ』と云っても間違いではあるまい。よって「…に寄する恋愛」は、今日的意味合いではアブナイ感情なのだが、日本人の伝統的心情を、文明科学の領域まで拡げたものとして、許されることになる。
「軍艦に寄する恋愛」本文に戻る。
平時にあっては、煙を吐き静かに浮かんでるだけの物体が、一度国難打開のため立ち上がれば、激しく戦って敵を打ち破る、この『軍艦』の二面性に、著者は生物・自然と同じ性質を見て、『恋愛』の情を向ける。本文欄外には、『軍艦』の意味を『いくさぶね』(壇ノ浦の合戦か!)と記すくらいであるから、著者が近代軍艦が持つ、メカニカルな美を讃えているわけではない。軍艦の姿に接し得ぬ人に、その美しさ、力強さまで見出せせるのは無茶である。平安の昔、都の人が、遠い歌枕の地に寄せた心情が、文明開化以後、日本が帝国主義列強に互していく手立てとしての『軍艦』にも、投影されているのだ。
兵器を始め、『機械』そのものに美しさが見出されたのは、何時からなのか。
(おまけの余談)
世間では、軍艦をうら若き女性に擬し、艦隊行動させつつ愛でる、東郷平八郎が見たら悶死するケームが流行(2013年夏現在)している。
今日的意味でも、『軍艦に寄する恋愛』が成立する日が近づきつつある…のか?