事変下の警視庁
昭和13年と云えば、支那事変が当初の目論見に反して、拡大への途を驀進していた時期である。大陸では戦禍の拡大、国内では物資の統制と思想取り締まりと云う時代である。
そう云う時代であるから、国内治安の維持と云うものについて、当局が何も考えていないわけもなく、内閣情報局は、そのプロバカンダ写真誌「写真週報」昭和13年5月18日号に於いて、銃後の護りは鉄壁である、と云う事を(実態はさておき)国民に知らしめるべく、「事変下の帝都を護る」と云う特集記事を組んだ。
記事冒頭にいわく、
事変勃発以来はや十ヶ月。
然し、銃後の護りは微動だもせず、国民の生活は力に満ち、街に、村落に豊かな平和がある。此処に日本の正と義、全国六万五千の警察官がある。
大陸の広野に華々しい聖戦の師を進める皇軍の背後に在って、厳として国内の治安維持に任じ、銃後の国民をね目に見えぬ力でしっかり抱きかかえている警官。
「これが戦争の渦中にいる国民だろうか?」
外国の旅行者が一様に驚く程、安らかな日本国。
「こちらは何の変わりもありません。一家揃って達者です。」
戦線に送られるどの手紙にも書き綴られる、祖国の平和と、安穏な生活。
今日も、こつこつと警官が町を警邏している聞きなれたその靴音は、兵隊さんの勇ましい靴音と違って、平凡で、地味だが、じっと聞いていると、心の底から無限の親しみと、熱い感謝の念が、しんみりと湧いて来はしないか。
その一人一人の肩には、銃の重さに匹敵する、防犯、検察、そして国民生活の隅々に入りこんでよき相談相手、指導者となる大きな任務がどっしりとかかっているのだ。事変下の帝都を、しっかりと護る警視庁千五百名警察官の昨今を紹介して、銃後日本の尊い重石、日々の栄光と、日常の名誉に輝く旭日と月桂樹の徽章へ、更に国民挙って感謝の光を加えよう。
およそ考えうる限りの不祥事により、失墜した信頼を回復しようと躍起になっている現在の警察関係者が読めば涙せずにはいられない文章である。「国民生活の隅々に入りこむ」と云う語句を逆手にとって「つまり国民生活の隅々まで監視していやがったわけだな」などと云う危険思想に毒されてはいけない(笑)。
かくの如く、国内の治安安寧が維持されていれば良いのであるが、この時期、帝都の人心を騒がす不逞の輩が徘徊跋扈していた事を忘れてはならない。その人物の名は「怪人二十面相」!!
怪人二十面相を知らない日本国民は殆どおるまい。とかく昭和30年代回顧ネタとして利用される彼であるが、その登場は「少年倶楽部」昭和11年新年号に遡る。すなわち警視庁は、いわゆる「アカ」、「国際諜報団」、そして「怪人二十面相」を相手として、日夜帝都を護ってくれていたのである。
今回は、「事変下の帝都を護る」と云う企画を使って、「警視庁対二十面相の対決」を再現してみたい(笑)。
ここは東京市淀橋区にある、貿易商無駄口氏の邸宅です。ふだんは静かなお屋敷ですが、その一室では、主人の無駄口氏が一通の手紙をにらみつけたまま、心ここにあらずの風情で立ちすくんでいるのです。
「…用件を簡単に申しますと、小生は貴家御秘蔵の宝物を、頂戴する決心をしたのです。来る十一月十八日夜、必ず参上します。
突然推参して御老体を驚かしてはお気の毒と存じ、予め御通知します。 二十面相」
アア、怪盗二十面相は、次なる獲物として、無駄口氏が所有する宝物に目を付けたのです。
無駄口氏は、悩み抜いた末に、警察へ相談の電話をかけました。
怪盗からの予告状を受け取った、という電話を受けた警視庁は、早速捜査陣を派遣します。
本庁の受信機からは、ラジオ自動車に無駄口宅までの道順が、電波となって逐次伝えられていきます。
一方、数々の二十面相事件で活躍している、捜査一課の中村警部も無駄口邸に、乗用車で急行します。
中村警部は、早速無駄口氏と面会し、今後の警護方針について、綿密なる打ち合わせを行ったようです。
無駄口氏に送られた、賊からの予告状は、警視庁が誇る科学捜査陣の手によって解析されています。残念なことに有力な手かがりは得られませんでした。
予告の日が近き、淀橋区十二荘の無駄口邸へ、警官隊が派遣されることになりました。「賊を逃してなるものか」と、颯爽と自動貨車に乗り込む警官隊の勇姿です。
何事も起こらないまま、予告当日になりました。無駄口邸の近くの派出所にも緊張が走ります。
無駄口邸を伺う、怪しい人影…。彼は味方でしょうか?それとも…?
「何者だ!」「無駄口さん、約束通り宝物を戴きに推参いたしました」アア、なんということでしょう。厳重に警官隊に護られているはずの無駄口邸の中、それも主人の目の前に怪人二十面相は立っているのです。
二十面相は、霧か煙のごとくに無駄口邸にまんまと入り込んでいたのでした。「確かに戦車は頂戴しました。では」
厳重な筈の警戒網を、易々とかいくぐった怪盗を追うべく、警視庁の無線司令所から、緊急指令が市内各所を飛び回ります。
写真と写真を繋ぐ「いなずま」が良い味を出しているのがお判りでしょうか?
賊の抵抗に備えて、武装警官隊も出動します。しかし二十面相はどこへ逃げようというのでしょう。
まんまと犯人にしてやられた格好の警視庁ですが、みなさんご安心を。新聞、雑誌社にはすでに箝口令がしかれていて、無駄口家の事件の真相を知ることは、誰にも出来ません。ごらのように被疑者も「ちゃんと」捕縛されています。
警視庁の活躍により、かくも帝都の安全は保たれているのです。
では、今回の立役者、中村警部から一言、
「しまった!明智君を呼ぶのを忘れていた!!」
怪人二十面相が、戦時中何をしていたのかは、未だに昭和史の謎である…。