妙薬 百発百中!

「ドラッグ」と云えば「有田」です


 ミリタリー趣味の突き当たりは、歴史趣味の抜け穴に至り、古本道楽の勝手口に至る。
 右往左往、悶々と日々を送るのみ。「兵器生活」続いているわりに、メジャーにならないねぇ…と憂鬱が過ぎて病を得れば、ただの笑い話であるが、病気になれば医者だ薬だと騒ぎ立てるは人の常。

 医者が匙を投げる、体裁悪く医者にかかれない、事情は様々でも、「治したい」思いがあれば、インチキ売薬が付け入るスキは生まれる。

 薬事法第66条いわく、
 「何人も、医薬品、医薬部外品、化粧品又は医療機器の名称、製造方法、効能、効果又は性能に関して、明示的であると暗示的であるとを問わず、虚偽又は誇大な記事を広告し、記述し、又は流布してはならない。」
 あるいは「医薬品等適正広告基準」(昭和55年10月9日薬発第1339号厚生省薬務局長通知 別紙部分を抜粋)ではこうも云う。
 「医薬品等の効能効果又は安全性について、具体的効能効果等又は安全性を摘示して、それが確実である保証をするような表現はしないものとする。」、「医薬品等の効能効果等又は安全性について、最大級の表現又はこれに類する表現はしないものとする。」

 お上のルールがある、つまり「そうではなかった」時代もあったと云うことだ。今回ご紹介する「有田ドラッグ」は、インチキ売薬・誇大広告の横綱であった。
 「現在四十五歳以上の人だったらおそらく知らぬ人はあるまい」と記述されるくらいなのである(『ドキュメント日本人9 虚人列伝』収録『ニセ国士・有田音松伝−日本のジキルとハイド−』稲垣 喜代志、學藝書林、昭和44年)。もっとも、この評伝から11年後に刊行された、紀田順一郎「コラムの饗宴」(実業之日本社、昭和55年)収録『はみだし人間考 悪徳薬局 有田音松」では、「多くの人には彼の名はまったく知られていない」と書かれている。

 なぜ、「有田ドラッグ」は有名だったのか? 宣伝の力である。
 全国大中小新聞(国内のみならず、殖民地、ハワイまで!)の一面をまるごと買い切り商品の宣伝をやる。「有田ドラッグの薬を連服して全快しました」式の体験談である。創始者有田音松は、広告の中で「祖先崇拝と思想問題」、「普選は暴論なり」などの国士的主張を繰り返し、のち「有田音松説話集」と云う本まで出した。関東大震災の時、大杉栄らを殺害した甘粕大尉が収監された際には、減刑運動と義捐金の募集を提唱した。小学校で日本一のエライ人を問うと「有田音松」と書いたものさえ出たと云う。
 今風に云えば、フランチャイズの「有田ドラッグ」店舗では、「蝋細工の病理模型」(身も蓋も無い云い方をすれば、性病患者の患部の、である)の、おとなし目のモノを店頭に、きわどいモノは店内に陳列していたので、子どもは怖がり店の前を避けて通るか、逆に好奇心に身もだえしたとも云う。現在「有田ドラッグ」の名が残っているのも、この宣伝のインパクトゆえである。

 ここまでが前説である。「有田ドラッグ」の名を聞いたことのある読者諸氏だけであれば、「久しぶりに古本市に出掛けたら、こんなモノを見つけてしまった…」の一行で始められるのだが、稲垣喜代志が「知らぬ人はあるまい」と書いた人達も、今時のコトバを使えば「後期高齢者」になってしまったくらい、昔むかしのお話になってしまった。
 慧眼な読者諸氏には云うまでもないが、本稿の記述の大部分は、稲垣・紀田両氏の記事、特に稲垣氏の文章に負っている。

 その「古本市で見つけた」のが、この「有田ドラッグ」のチラシである! これがタッタの百円だった、と云えばちょっとした古本綺談だが、デパートの古書市に出店するようなお店が、そんなヘマをやらかすわけもなく、筆を憚る値段で買ったのである。

 でかでかと書かれた「有田音松」と、今ではゼッタイ許されないコピー「どんな病気でも御困りの方は 最後の手段として此一剤を召されよ」。
 競馬場に行く前にでも一服したいものだ、と後世の物好きはサラリ書いてしまうが、このチラシを真剣に読んでいた人がいた事を思うと、あまり軽率な事は書けない。
 「天下に知られた」と自分で誇るものが、世間では知られていない事は良くあるが、新聞の全面広告を「少なくとも一月四回を欠かしたことがない」と聞くと、ツッコミをする気にもならない。

 岐阜県大垣市にあった「専売所」の写真である。「縦覧随意」の暖簾、「はい病ろくまく請合薬」と書かれた柱、軒には看板が二枚もあり、屋根には電飾看板まで取り付けられている。
 「ニセ国士・有田音松」では、フランチャイズに加わるためには、保証金、看板什器などの買い取り費用を前納する必要があったと記されている。それが済んで医薬品の供給を受ける。しかし恐ろしい事に、創業当時の目的は、売薬の売上利益と云うケチなものでなく、数百円にものぼる保証金そのものをいただく事であったと云う。

 明治41年に「ドラッグ商会」を設立した際の保証金は四百円、応募者には毎月四十円の給料を支払い、運営資金の提供も行うと請け負い、閉店の際には保証金を返金するとして金だけ払わせ、給料はおろか薬品も送らない非道な事をやっていた、と暴露されている。
 応募者は怒る、泣きを入れる、なけなしの財産を手放す、首も括ると悲劇が展開されるのであるが、中には商才のある店主もいて、騙されたのは仕方なしと運転費用は自弁とし、商品の供給を受けつつ店を盛り立てるものも出て、それがまた広告に利用され、新規応募者を呼び寄せる。引っかかる人が少なくなってくると、「メジシン商会」と云う別会社を設立し、再び支店長を募集する(保証金は八百円に値上げして)。この記述を読んだ時には、笑うしかなかったくらいである。

 こんな商売がいつまでも続くものではない、と思う通り、メジシン商会は破産大正4年に破産(もちろん出した保証金は還らない)。「ドラッグ商会」の建て直しに入る。第一次世界大戦の景気も手伝い、「有田ドラッグ」の本格的な活動時期になる。おそらく、大垣の「専売所」も、保証金詐欺商売から、インチキ売薬商売に方針転換してからの開店なのだろう。

 諸病全快の一例(紙面の都合上詳細略す)
 lりん病…で十年の方が八円の二週間分で 又七年の方が四円の四週間分で全快(其他軽患の全快無数)
 ばい毒…女の方で五年間苦んだのが四円の四週間分で全快(横根は切らなくても治ります)
 ぜんそく…七年前よりのが五円の八週間分で全快
 胃腸…余り病気が久しき為ウタガイながら三週間服薬して全快
 心臓 女の方で一ヶ月も医師に罹って治らなかったのが僅か一週間で全快
 子宮病 五年前からのが僅か二週間分で全快(其他軽患無数)
 其の他種々の病気で全快せられました方は沢山にありますけれ共紙面の都合上略して置きます。

 と例示されたキキメであるが、宣伝通りの効能が出たのであれば、「有田ドラッグ」は今でも薬局で買うとこが出来るだろう。
 肺病に効く、と売り出された「治肺剤」(一週間分、定価十円)の中身は、原価せいぜい五、六十銭。解熱や咳しずめの成分に、整腸剤、消化剤が含まれており、熱、咳がおさまり胃腸の調子が良くなる→食欲が出る→滋養がつく→治ったような気分になる、と云うシロモノであった。
 「有田ドラッグ」の薬価は、他の薬より5倍10倍も高額だったと云う。割高な中でも同じ薬を、高級薬・低廉薬二種類の包装で販売すると、高い方が良く売れるのだから、金儲けと割り切ってしまえばこれほど結構な商売もない。

 「貧困者の方は御来店下されば特別の御話を申上ます」と殊勝なことが書いてあるが、安く売るわけはない。「もし金がなかったら土地や家を売ってでも病気をなおすという信念をもたないかぎり、この難病を駆逐することはできない」と諭して帰したのである。

 先行文献の記述が面白すぎ、それだけでネタ一つ出来上がってしまうのだが、全快者の話をまったく書かないのも、現物主義の立場としては、後ろめたいので、チラシ記載の体験談をご紹介しておこう。

写真の右
肺尖カタル全快
 私は風邪に罹りまして随分永い間咳や寝汗が出て、又日に日に食も進まぬので心配して、大垣市渡辺博士の診療を受けましたら「肺尖カタル」と申され売薬其他種々治療をしましたけれ共思わしくありませんので困って居りました処 或日新聞で 有田ドラッグの有効なるを知って早速、大垣市郭町田邊眼病院隣の有田ドラッグ に参りまして種々御話を承り御薬を五週間連服しましたら御陰で壮健に成りましたから同病者へ参考の為め御知らせ申上ます。
 岐阜県不破郡綾里村綾野 栗田 幸

写真中
ルイレキと肺尖カタル
 私の子供は「ルイレキ」と「肺尖カタル」で随分あれこれと医者に罹り又売薬も服ませましたけれ共はかばかしくありませんでしたので実は困って居りました処、知人の進め(ママ)で大垣市郭町田邊眼病院隣の有田ドラッグの薬を四十日余り服薬しましたら、御陰で達者に成りましたから、此処に写真を添え同病者に参考までに御知らせ申ます。
 岐阜県安八郡藝多島村多藝島
  全快者 早野 進
  親権者 早野 仁三郎

写真左
ろくまく全快
 私は風邪が元で「ロクマク」に成りまして日に日に身体が衰えて参りますので随分心配してあらゆる治療をしましたけれ共、思わしくありませんので心細く思って居りました処、フト新聞を見て早速大垣市郭町田邊眼病院隣の有田ドラッグに参りまして、種々御話を承り有田特製治肺剤と血液素とを買い求め服薬しましたら日に日に心持ち克く成りますので喜んで五週間連服しましたら、御陰で只今では達者に成りました。
 岐阜県安八郡中川村中楽田 小林 皆園

 どの記事も「大垣市郭町田邊眼病院隣の有田ドラッグ」と表記されているが、よくよく紙面を見ると『大垣市郭町田邊眼病院隣の』の前後に空白があるのがわかる。

 「ろくまく全快」の記事にある「血液素」は、屠殺場で一斗四円で仕入れた牛の血を煮詰めて錠剤に仕立てたもの。定価四円のものを400本作ることが出来る。二百倍の大儲けになる。

 評伝によると、新聞広告に「全治された方には祝賀の意味で手提金庫一個と置時計一個を進呈」するとして、患者から写真や文章を募るほか、各地の支店に懸賞を出して集めさせたとある。虚偽の報告や支店で捏造されたものも含まれ、中には既に死亡している人の写真を堂々と掲載したものもあったと云う。
 特に若い女性の写真は一枚三百円もの高額で買い取ったため、薬代の一週間分(5円10円)くらいはタダにして、写真で儲けようと云う支店もあったとされる。ちなみに大正7年の高等官の初任給は月70円で、小学校教員のそれは12から20円、北海道で6×9センチの写真一枚撮ると60銭から1円50銭とのこと(『値段史年表』朝日新聞社)。

 都市部での売上が相当にあったにもかかわらず、東京や大阪からの応募はなかったと云う。


個人情報保護の先駆者?


 インチキ広告で世間を欺き、国士気取りの論文を広告に載せる程度の商売は程度の違いはあっても、今日にもありそうなものだ。この人、金儲け並にに名誉欲が強かったようで、唐突に「施薬部」なるセクションを作り、貧困者に無料で薬を提供することを思いつく。薬は各地の支店専売所が仕入れたものを差し出すのである。「施薬部」の主任には「子爵 裏辻彦六郎」と云う人をつけ、広告の活字は子爵サマより「有田音松」の方が大きくなっているという仕掛けで、子爵より自分の方が偉いとアピールしているのだ。戦後華族が無くなってインチキ商売に使われなくなった事は、喜ぶべきなんだろうなあ…。
 
 いくら親分の思いつきとは云え、こんな真似をされれば各地の支店はたまったものではない。ところが、施薬を受けるためには、「警察署に願い出て貧困証明書」をもらった上で各地の専売所に申し出しろと条件をつけた。有田いわく「私は貧乏ですから証明書を下さいなどと行くやつが万一あるとすれば、そいつは面の皮の千枚ばかりの極道者だ。(略)そんなノラクラ者が警察へ行っても、他の証明書ならいざ知らず、貧困の証明書なんかめったにくれるものか」。予想通り証明書まで手に入れて薬を求めようとした人は多くなく(証明書なしで施薬を求める人は列をなしたが、願いが聞き入れられることはなかった)、施薬を受けた人は当然、広告のネタにされたのである。
 このような商売が、いつまでも続くものではない。
 一つは有田の下で商会を盛り立てた幹部の離反である。創業以来の幹部の一人、鈴木豊智は商会の運営で音松と対立、袂を分かって独立。音松が鈴木の店前に有田ドラッグの専売所を開設して妨害すると、逆に音松の横暴に耐えかねている支店専売所を糾合し「有田合資会社」を設立、「有田」と云う薬剤師を雇い入れ、有田ブランドの薬を販売する。商会の指示に従わなかったり、あがりが少ない専売所には、商品を卸さない制裁が科せられていたが、そう云う専売所も合資会社の薬を仕入れ、「有田ドラッグ」の店舗で販売、お客は何も知らずに有り難く高い(効能に疑問のある)薬を買い求めることになる。
 チラシに云う「近頃紛らわしきにせ物があります 有田音松の本物のドラッグ」の背景である。

 二つ目は、「東京ドラッグ」と云うライバルの登場である。「有田ドラッグ」同様の店構え、病理模型の陳列、同じ様な商品の販売をする模倣者である。実は「東京ドラッグ」経営者の竹村時男は、明治の末に「有田ドラッグ」専売所募集に応募して、まんまと保証金をだまし取られた過去を持つ人であった。有田商法をそのままお返ししたわけである。
 有田音松あわてて「有田ドラッグ」以下「○○ドラッグ」「ドラッグ商会」などの商標登録して反撃に出るが、一度騙されて立ち直った者は強い。すでに先手を打って、商号どころか薬の名前までも登録していたのである。裁判に出た音松は、かえって百六十万の損害賠償を請求された。残念なことに評伝には、この騒動がどうなったのかについては記述がない。

 今までの二つは、身内の争いである。鈴木、竹村ともに思うところはあっても、インチキ売薬商売上のことであるから、お金で解決できる話である(示談になったであろう事は想像しやすい)。
 いよいよマスメディアが登場する。とは云うものの、大中小の新聞にとっては大広告主であるから、排斥キャンペーンなど思いもよらない。立ち上がったのは「実業之世界」と云う経済雑誌。そこの親玉、野衣秀市も有田と同じく「ドキュメント日本人9 虚人列伝」に評伝が載る程の曲者である。
 キャンペーンは「有田音松征伐記事」と銘打ったものである。ネタ本の記述では「効力なき薬で暴利をむさぼり、国民の貧者の膏血をしぼり」云々とあるが、実際のところは「生意気しごくにも思想問題政治問題にくちばしを入れて、ぼくらと反対の言論を新聞に一頁の大広告をなし」と云うところが「筆と口をもって天下に立つもの」野衣として気にくわなかったのだろう。

 「実業之世界」のキャンペーンは大正14年4月から一年余り続けられ、ドラッグを服用して病気を悪化させた事例から、薬の薬効広告のカラクリと云う商売上の秘密、有田本人の半生などが掲載されたと云う。評伝の相当なところは、これらの記事が元になっているものと思われる。
 有田は大広告主として、「実業之世界」の広告を出さないよう新聞、広告代理店に圧力をかける。有田の意を受け入れた新聞として、大阪毎日新聞、東京日日新聞の名前が出てくるのだが、「毎日新聞」ファンの自分としては、なんとも恥ずかしい。「マルコポーロ」と云う雑誌が、ナチスのガス室はなかった、と云う記事を掲載したところ、広告主から圧力を受けて廃刊になった事件は記憶に新しいところである、と話を逸らしておく。
 余談さておき、有田の反撃も空しく、月に40万円近くあった売上は、キャンペーンによって10万円にまで激減したのである。

 マスコミが騒いで当局が乗り出す、と云う図式は当時も変わらず、ようやく警視庁の調査が大正15年5月、有田売薬の成分分析と云うカタチで始まる。これが広告主として幅を利かせていたはずの東京日日新聞の記事になったことで、風向きが大きく変わった。同年の暮れには有田本人も取調を受ける。
 しかし、彼が監獄にぶち込まれることは無かった。インチキ売薬とは云うものの、あくまでも効能を誇大に宣伝して、不当に高い値段で販売しているだけで、中身はれっきとした「薬」だったからである。

 さすがに事ここまで至ると、以前のような派手な広告は打てなくなり、有田音松は次男に後を任せて引退、それでも稼いだ金で悠々温泉にひたる日々を過ごし、昭和20年3月に78歳の生涯を閉じた。「有田ドラッグ」そのものも、戦時中の統制によって崩壊、広告手法だけが伝説として残ったのである。

 改めて参考文献の紹介をする。
 本稿で使用した有田音松の評伝は、「ドキュメント日本人9 虚人列伝」(學藝書林、昭和44年)に『ニセ国士・有田音松伝−日本のジキルとハイド−」(稲垣 喜代志)に基づく。紀田順一郎「コラムの饗宴」(実業之日本社、昭和55年)収録『はみだし人間考 悪徳薬局 有田音松」は、それを元ネタにしたもので、こちらも少し参照している。

 「有田ドラッグ」の店頭ディスプレイについては、いくつかの本で読んだ記憶があるのだが、手持ちの本をひっくり返すのが面倒なので、紹介はしない。
 参考にしてみたかったのが、各務信「赤線復活の夢破れる デタラメ薬屋有田ドラッグの崩壊」と云う本。版元が新風舎(文学賞を主催し、応募者に自費出版を勧めて金を取る商法で話題になった書肆、2008年破産)なので実際に刊行されているのかすら定かでは無い。ウェヴ上にあった内容紹介は以下の通りだが、リンク先(http://www.rakuten.ne.jp/gold/net-poo/event/contest/shuppansho27/souhyo05.html)は、今では消滅した模様。

  大正時代の有名薬局「有田ドラッグ」の創業者・有田音松とその息子・二郎、「有田王国」の隆盛と崩壊の物語。
 膨大な資料と緻密な調査を元に、独自の分析をストレートな表現でわかりやすく述べている。「有田王国」の歴史とともに描かれる人間の微妙な心理が読み手を最後まで飽きさせない。

 有田音松の息子(次男)は稲垣氏の評伝では「次郎」になっている。「戦後大阪から代議士に出たが、疑獄事件にからみ、失脚した例の有名な男である」とある。この疑獄は「造船疑獄」と思われ、有田「二郎」代議士が逮捕されているのであるが、彼を音松の息子、と云いきる資料が手元に無い。
 「有田ドラッグ」で儲けた金を使って代議士になり、疑獄で失脚と云えばあまりにも出来過ぎた話になる。ついでに云うと有田二郎代議士は「黙れパン助」と云う暴言でも歴史に名を残した人でもあり、ここまで話が揃いすぎていると気味が悪い。

 新風舎の本については、「くうざん本を見る」と云うブログ(http://d.hatena.ne.jp/kuzan/20070928)を経由して拾ったもの。実は二冊の参考文献も、このページに教えていただいたものである。この場を借りて御礼申し上げる次第です。

 (おまけ)甘粕大尉の母親への義捐金は、有田音松本人が一万、全国各地から二万、「有田ドラッグ」の支店や関係者から(強制的に)二万の合計五万円が集まった。有田はそこから経費として二万を差し引いて残額を(甘粕本人は受け取りを拒んだので)憲兵隊の上官経由で母親に押しつけたと云う。