読者はさらに考える!

「1940年型軍用機」に対する読者の意見A


 さて、「空」誌に掲載された「1940年型軍用機の検討」に対する読者の意見は、「軍用機」から「戦闘機」論に転じて(笑)、さらに続くのである。

 前回突っ込みを受けた、空の騎兵氏からの投稿である。
単発・双発・戦闘機論の再検討

 6月号掲載の愚見「将来の戦闘機型式に就いて」に大阪の巨弾氏、スペシャルコンドル氏より御批判を頂戴したので再びこの問題に就いて…


 両氏共単発単胴単座を推薦しているが、小生とても此の型式には大きな愛着を持っている、同型式の典型とも云うべき「ベルP38型に就いて」と題して7月号に投書したのであるが、不幸不掲載となったが完璧化された同機の形態美は、双発を支持する小生とても礼賛の言葉を惜しまない(記者註−8月号サロンに掲載 総督註−本コーナーでは取り上げない)。

 単発単胴単座が軍用機中より姿を没する事は想像しても淋しい事である。又そうあるとは技術的にみても考えられない(此の点に対して前号の型式論に於いても此の型式が絶滅する訳ではない意味を3ヶ所に記して置いた筈である。字数の関係上切り詰めて書いた故短文ではあるが)。「単発単胴単座型式は存在する」と改めて一応明言しておく。


 尚大阪の巨弾氏の反駁せられたる「これと云った確たる原因もなく曖昧なる理由の下に単発単座に限られていた」と云った意味は、成る程過去30年に亘る軍用機優劣論は戦として単発単座で充分満足出来た。故に常に他を圧して存在していた。軽快性、高速度性、経済的、多量生産の容易、維持費の少、その他種々の利点が非常に多くあった。あるが故に存在し尚研究の中心に置かれていたのである。これは現在とても、略々同様の事が云える。
 然し過去に於いて双発の小型単戦が設計なり試作なりされた事があっただろうか。或いはあったかもしれないが実用された例はない、何故実用されなかったか?

 理由は簡単である。前記の軽快性その他の条件が単発単座より総ての点で劣っていたからである。頭脳技術が進歩して居らず単発単座に優る設計製作が不可能であったからである。

 かかる故に過去に於ける戦闘機設計家は単発のみ設計し、双発をば半ば盲目的に敬遠し省みなかったのである。こうした事項は欧州大戦当時何故単葉式が殆ど無かったか、何故引込脚装置を採用しなかったか?と云う事と同じ理屈である。殆ど必要にせまられなかったからである。或る点までそれで満足だったからである。科学、技術、頭脳がそれまで進歩していなかったからである。

 「必要は発明の母」正に至言である。科学の殆ど大半は必要によって生み出されている。


 横道に入ったが高速度化強武装化を最も必要条件としている現在、両者を具備して軽快性に富んだものであろうか?甚だ疑問である。
 将来に於いて巴戦等は殆ど考えられない。一瞬にして相戦い一瞬にして相離れるのが通性であろうと考える此の論は、現在考えられている将来戦の最も有望視されている戦闘論である。是の如き戦闘に於いて軽快性は他の何れのものよりも最も重要な条件であろうか?否と云いたい。一撃にして墜とす「見敵必墜主義」以上に「一撃必墜主義」が重要な格言となるであろうと考える。

 然し是の如く高速度強武装的機体を最も必要とする反面今一つ考えられる事はその逆手を行く任意に超鈍速化する小型機である。反転プロペラ或いは他の装置により任意に鈍速化出来る。或いは是の如き装置なき普通の鈍速機(例えばライアンY051の如き)小型機が登場、長槍対短槍の如き戦闘が行われるやも測り知れない。又小型無尾翼機その他空想的単発単座が出現しないとも限らない。
 それ等現在の型式構造外の出現機によって将来も尚単発単座が戦としての覇権を握っているかも知れぬが、然しそれは現在此処に云々する論外のものである。此処に云うのは現在存在する型式のみに就いてであるから此の問題は今後に譲るとして、軽快性を現在及び過去の戦闘機程必要としない、将来、単発単座の速度武装に対する双発複座の速度武装の優劣論は、論者によって種々意見の相違はあるであろうが、速度に於いて稍々劣る強武装機と、速度に於いて稍々優れる強武装機との比較は、カタログデーターの優劣は勿論、実戦に於いての雌雄は非常に難しい問題である。


 後に「一撃必墜主義」が文字通りに行われるとすれば(殆どあり得ないとは想像するが)、木金混製の小型単発単座の多量出現を見るであろうし、それに対して防弾装置の強化により撃墜困難となれば、融通性を多分に有する双発複座戦の出現となろうと推察する。

 此の点に就いて先見の明は持たぬが、想像するに総合した結果として、武装に於いて、幾分強力な双発に覇権は握られるのではないだろうかと思う。とは云え圧倒的に優れると云うのではない。唯過去に於けるが如き単発単座の地位は格下げされるのではないだろうか。


 尚今一つ附言したいのは競速機であるが、将来も単発単座によって依然双発その他を圧倒するかも知れぬが、それが、そのまま戦闘機として採用される事は将来と云えども、先ず不可能な問題と解する(現在とても同様戦と競速機は別個な構成になっている)。


 極く最近に至って出現した双発単座の試作の成績も、単発単座に比し何等の遜色をも見られない(ロックヒードP38、グラマンF5F1、ヴァルディ双発新戦等)。今後幾何年かは双発単座戦の設計が各国共に重要視し製作されるであろう。


 双発単座か双発複座か?兎も角両機種により戦闘機型式覇権争奪の白熱戦が見られるであろうが、純粋の(応用性無き)戦とするなれば双発単座が一歩勝れるかも知れない。

 ここで大阪の巨弾氏の云われる「戦闘機は敵を邀撃するもの故に双発は攻撃機の部類とすべし」と述べられてあるが、現在各国現用機を通覧しても解るように単発単座戦にのみ戦闘機の名称を与えては居ない。

 一般追撃、邀撃、防空、援護、哨戒等各種類あるが各国の地理国情によって、それぞれ異なっているが如く何処までが戦闘機で何処までが攻撃機であると云った事は論者により異なる故、議論むを進めても水掛論に終わることになろう。以上甚だ漠然としているが私の考えとしては双発式を支持する。


 速度の極限が漠然と論者により異なる如く、この型式論も亦何れと明示する事は不能に近い問題ではなかろうか−(空の騎兵)

 前回投稿した意見の補足である。近い未来の航空戦は、一撃必殺であるとし、重武装=双発と云う図式である。ジェット機時代を先取りしている感がある。


 続いてスペシアル・コンドル氏の、更なる意見。
戦闘機型式論の結論

 戦闘機型式論に就いての自分の結論。
 8月号に大部此の問題が出たので自分の考える所を少し…
先ず戦闘機の任務を考え、それに従って書く事にする。

 (1)制空権獲得の同種同志の決戦の場合
 (2)味方爆撃機群の護衛として遠く敵地に赴く場合
 (3)敵爆撃機襲来に際し、護衛戦闘機と決戦を交える場合
 (4)敵爆撃機の全滅を計り、国土防衛を目的とする場合

 等が揚げられるわけである。(1)の場合、(イ)強力火器高速度主義の所謂フォッカーD23やロックヒードXP38の様な戦闘機と、(ロ)軽快を主眼とし軽い武装の小型戦闘機の如き型式と比較するに、どちらも一長一短があり、良悪を決定する事は非常に困難である。
 しかし(イ)型は一度戦況不利と見たる時は電撃の如く逃げ、一度敵が逃腰になると猛然と追撃して止めを差す点は、(ロ)型の遠く及ばぬ所である。又(ロ)型の如き軽武装機は相当敵に肉迫しなければならず(命中率は確実)、遅い身を以て速い(イ)に肉迫する事は非常に難事と思う。


 (2)の場合は相当な航続距離を持つ事を必要とし、その為軽快性はどうしても犠牲にせざるを得ないから、真先に(イ)型が揚げられる。

 (3)の場合、敵の護衛戦闘機と一戦を交える事は(1)の場合と大差ない(航続距離も同様)。


 (4)の場合は、敵爆撃機が群がる防空戦闘機と応戦しつつ、編隊を保って高空を目標目指して驀地に進入して来る。その時の速度は基地よりの距離に関係するであろうが、近代的な奴で550粁と思わなければならない。であるから同じ550粁の戦闘機が待機していたにしても、一度攻撃を加え第二回の攻撃と身構える頃は、敵機との距離が相当離れてしまい絶対に追いつけない。結局前後一回の攻撃しか出来ぬ事になり、その攻撃も貧弱なる火器で行うなら何等敵に損害を与えぬ。又もしそれで敵を撃墜せんと思うならば要所要所多数機を配置せねばならない。ここに強力な(イ)型を採用する事は自然の事である。この点防空用のカーチスCW−21等はどうかと考える。


 以上全部を考えると何れの場合にも(イ)型が(ロ)型より勝り近代的色彩が濃いと言わねばならない。
 しかし僕は(イ)型を双発(ロ)型を単発とハッキリ言うのではない。単発にせよ双発にせよ高速度強力火器主義がよいと思い、又言うのである。そして同じ今言った型式の中でも、航続距離の大きいA型と割合に小さいB型に分類される必要がある(そうなると性能に多少の差違が出来る)。前の例で言うとA型は(2)、B型は(1)(3)(4)に適当する。
(以下「夢」欄の批評になるため略)
 (スペシアル・コンドル)
 前回、「単発単座戦闘機を見捨てる事は出来ない」とした彼も、やはり重戦指向が強い事が良く分かる投稿である。こうして所謂「航空ファン」の意見を見てみると、零戦の「軽戦かつ重武装」(20粍機関銃の性能はさておき)と云うコンセプトの特異さをつくづく感じさせられる。

 10月号では、白雲観居人氏の続きが掲載されている。
将来の戦闘機型式論(2)

 先月号にて単発単座及び双発複座の二型式について夫々少し特徴を書いて見たが、次に双発単座について言及して見たい。
 現在あるものは米の「ロックヒード」YP38、「グラマン」XF5F1、和蘭の「フォッカー」D23、仏の「アルセナール」VG30等があるが、前二者は一般の双発型、後者は串型のエンヂン配置である。串型配置はエンヂンを機体中心に置ける事から来る。操縦性の安定の意味で前者よりもよい訳であるが、一方武装の点に於いて、そのカノン又は機銃の配置に少々不都合な点が生じて来る。元来カノン等の銃砲類はなるべく操縦者の手近にある事が、空中戦中の操作に於いて都合がよいらしい。
 
 さて本論に戻り双発単戦なるものは、同型複戦より後方射手を取り除いたもので、機体そのものは複戦より稍小である。よってその目的とする点は現在の単発単戦より多少敏活性を犠牲にしても、その大馬力を以て速度を大とし(此の場合、航続距離には関係せず)その重武装とを以て所謂複戦より、より軽快な追撃機とせるものである。然し此を双発複戦と比べて見ると現在ある型を基本とすれば稍々曖昧な点がある。
 即ち「ロックヒード」「グラマン」等に於いてはその航続距離及びその他武装等は「メッサー」Me110等と差異はないが、「フォッカー」「アルセナール」等は単戦並な性能である。その処で前二者は徒に一人の操縦者に無理をせしめる結果を生じ、同機を必要とする場合は人員は倍となるが「メッサー」Me110の如き複座を用うる方が、実際問題としては都合がよいかも知れない。

 然し「フォッカー」D23等は至極妥当で同機は525馬力の中馬力を双発としその航続距離も800粁前後であり、取り扱いも上記の如き重戦闘機ではないから、双発であっても単戦の特徴は充分認められると思う。

 結局、双発単戦は先月号に述べた両者の間の曖昧な型式で、機体が相当に大きくなる割に単座なる故、操縦者の負担が大となり、将来は重戦闘機は双発複座に、中乃至軽戦闘機は単発単座に決定される様な形ではあるまいか。ここに諸賢の御意見を拝聴したい。尚次回には、三座以上の多座戦について何時もの愚見を述べて終わりたいと思う。
(白雲観居人)
 長距離侵攻戦闘機は、複座が良いのか単座に限るのか?と云う興味深い問題提起がなされている。史実においては、双発複座の長距離侵攻戦闘機はのきなみ「駄作機」と云う扱いになってしまっている事は読者諸氏も御存知の話である。「直接照準による機関銃による攻撃」と云う攻撃法しか考えられなかった当時に於いては、双発戦闘機の利点=安定した機体からの一撃必殺の攻撃、が充分行えなかったのは無理も無い話である。もし、第二次大戦において単発単座戦闘機と云うものが存在しなかったとしたら、文字通りの「空中戦艦による砲撃戦」と云う奇観を呈していたかもしれない。


 続いては積乱雲氏の意見。
(前略)尚、サロンの中で戦闘機に就いての論争があるが小生の考えでは、防空用、駆逐用の二程に分かれるのでは無いかと考える。
 前者は単座、単発、軽量の即ち現在ある型式で更に上昇力、運動性の改善されたものが当たり、後者は当分の間双発・単乃至複座の機動性大なるもの、将来、操縦操作、武装操作の簡易化に依り単座となるだろう、此の型式が当たるのではないだろうか。
 前者で今気に入ったものはないが、後者はFWが最も典型的だと考える。
 ではいづれ又。
(積乱雲)
 双発「駆逐機」が画餅に終わった事は先に記した。当時の双発戦闘機の運動性を過大評価しすぎた意見と云える。

 11月号に入ると、いよいよ真打ちAT氏の登場である。AT氏は「空」誌の売り物である「設計家の夢」の常連の一名である。
将来型戦闘機私論

 S.T.N氏の投じた一石がサロンに於いて多大の反響を呼び読者諸賢の高論を聞く事が出来たのは戦闘機に少なからぬ興味を持っている小生にとって有り難い事であった。
 双発戦闘機或いは多座戦闘機が重要視せられ終いには単発型と優劣論を戦わされるに至ったのは、ここ二、三年の事である。何故に双発機がかくも急激に単座機の累を摩するに至ったのであろうか。

 (1)高速化と共に飛行戦術より砲火戦術への移行
 (2)高速化の手段としての馬力の増大

 私の記憶では二、三年前に於いては高速飛行時に於ける高等飛行の困難が特に甚だしい程に喧伝されたのであった。特に爆撃機がにわかに高速化されるに至って戦闘機無用論迄も、もっともらしく流布される始末であった。だが、こう言った極端な議論も時日の経過と共に実現化するのが普通である。

 我々の言う所の空中戦は所謂アクロバチック的なもので、極めて華やかなものである。従って我々の戦闘機に対する先入観は空中戦の花形と言ったもので、若い青年の好みに頗る適合したものである。
 だから我々として単座戦闘機が遂に消失する事は耐えがたい事に違いない。こう言った感情が屡々我々の理性を抑えている事は、二、三氏の御説を見ても明らかである。


 二、三年前に於ける単座戦闘機無用論或いは戦闘機無用論が行き過ぎた考えであったと言う事は現在我々に現実となって説明して呉れている。それと同時に又この議論が決して過ったものでもなさそうだと言う事も或る程度証拠づけられた様に思う。

 戦闘機の対他機種(主として爆撃機)の優越点は、(1)運動性、(2)速度、(3)上昇力であったが、次第に(1)と(3)は火砲の優勢にとって変わらんとしている状態で、これは高速化と共に必然的な事である。
 そして単発機が次第に第一線より姿を消して行く事は蔽い難い事だが、少なくとも現在に於いては単発機として充分その地位を確保し得る余地がある。

 即ち(1)未だ運動性が物を言う、(2)20〜30粍の火砲装備可能、(3)単発にて3000馬力程度を望む事が出来るし、速度限界は第一に到達し得る自信(?)がある。(4)多量生産の利点が永久に物を云う。

 ここで問題になるのは速度であるが、此は少なくとも遠い将来は別として戦闘機の生命である事は否めない。
 双発機が戦闘機として登場して来た原因の一つは前述の如く、当時空気力学的行き詰まりに達した為の活路として発動機出力の増大による一方法としてであったが、現在では単発でも相当高出力を期待し得るが、更に単発機の生命を多少延ばし得る次の事項が明らかにされている。
 空気の圧縮性の問題により速度限界に遠からず達するが、この付近に於いては、馬力増大を以ては速度の増加は得られない。既に現在に於いて有利な速度増加法は、翼面荷重の増加が第一であるとして引込翼なども考えられて居る如く、高馬力は高速化への第一歩でなくなった。そして音速に近づいた飛行機の高速の方法としては

 (1)造波失速の早期発生を防ぐ翼断面の採用−実際には極めて薄く、最高矢高部が後退したものになるのではなかろうか
 (2)推進式プロペラーの採用−主翼層流をプロペラー先流を以て乱さぬようにする
 が肝要であると思われる。
 かかる馬力増大を方法としない速度増加には単発機に有利な所があるのであって、ホッケウルフ推進式単座戦闘機の如き、極めて近い将来型戦闘機として未来性があると思う。

 だが、小生があくまで双発機をとるのは、本機種がより一層の未来性があるからである。将来の空中戦が純然たる砲撃戦になる事は確かであるし、もしも無反動砲が発明されるに至るならば、所謂空中艦隊も夢ではなくなるだろう。そんな遠い将来を考えずとも既に現在の双発機は火砲を有力な優越性としているのである。
 そしてその火砲の威力を一段と増す為には単座より複座の方がよい事は容易に考えられる。フォッケウルフ複座戦には大いに示唆を受ける所があると思う。
 既に各国とも爆撃機大編隊に於いては、約三分の一程度の重戦闘機−爆撃機と同程度の大きさで爆弾の代わりに重武装をしている−を混合し極めて巧妙な編隊を組む事に腐心しているから火砲に対するに火砲を以ていなければなるまい。
 然らば単座戦闘機の将来はと云うと、恐らく直接協同機的存在となるであろう。そして尚本機種は名称は失うとも飛行機中の花形としての華やかなる地位を確保しつづけるであろうし、それを又我々は大いに望むのである。
(AT生)
 非常に的を得た意見である。おそらく造兵側の考えに一番近いものだろうと推測する。すなわち「空の大艦巨砲主義」である。又の名を「空飛ぶ多砲塔戦車」(笑)。
 しかし、ここでも直接照準による高速移動物体に対する射撃の困難(自らも相当高速度で移動している事も忘れてはならない)に関する視点が欠落している事を指摘する事が出来る。
 大御所AT氏の登場で、「1940年型軍用機の検討」に対する論議は幕となるのだが、最後に上村氏の「複座戦に就いて」と云う投稿を紹介する。
複座戦に就いて

 現在の複座戦にはメッサーシュミットMe110、Fw187、及びデファイアントの三型式がある。
 Me110は最も普通なもので、仏にはポテーヅ及びアンリオ等、之と類似したものが二、三ある。而し此等は後方に対する射界は充分にあるが、まだ射界はそれほど自由でない。Fw187に至っては之は単に前方のみしか射界がない。複座戦では射界が一番大切だと思う。その意味でデファイアントの方が前者よりよいと思う。
 デファイアントは後部に4門の機銃がある。此等は後方及び前方(プロペラ圏内以外)も自由に射撃出来る。それによると前方の死角も少ない。視界も三者同程度である。デファイアントは敵機に死角に入って敵に機銃弾を打ち込むそうだ。実によい。(以下略)
(東京 上村生)
 「駄作機」の大関級であるデファイアント機も、その実態が明らかになるまでは、兵器として有望視されていた事を物語る、今となっては貴重(笑)な投稿である。

 長々と1940年における、日本の航空ファンによる将来の戦闘機型式論を紹介してきたわけであるが、「双発戦闘機万能論」の一端に触れる事が出来たものと思う。
 この背景にあるものは、私が思うに「空の大艦巨砲主義」の一言で表せるものである。

 侵攻する側は「空中艦隊」による爆撃で戦局を一気に決せんとし、戦闘機は爆撃機を撃破するために強大なる火力を保持せんとしたのが駆逐機=双発戦闘機の発生であると云えるだろう。
 しかし現実の航空機は、空に留まるために軍艦や戦車のように装甲を強化する事が出来ず、戦闘機に必要とされる火力の方が、先に頂点に達してしまったようである。確かに第二次大戦において、文字通り大砲を搭載した航空機は試作されたが、それは所詮イロモノでしかなかったのである。

 結果として航空機の進歩は、火力、速力、航続力ともに双発戦闘機の必然性を崩してしまった。こうなってしまっては運動性に劣る双発戦闘機の出番はもはや無い。双発戦闘機は制空任務ではなく、より速度、運動性に劣る対爆撃機任務にあたるしか無くなってしまった。機上レーダーの実用化で、夜間防空戦闘機としては単発機を凌駕したのがせめてもの救いと云うものだろう。


 現代においては、ジェットエンジンにより、航空機の速度が飛躍的に向上したのと、ミサイルの実用化により、ミサイルプラットホームとしての双発重戦闘機が復権したが、製造・維持コストの問題と、依然存在する戦闘機同志のドッグファイトにより、単発戦闘機を完全に駆逐するには至っていない。今後も戦闘機と云う兵器が存在する限り、単発・双発の優劣論は1940年当時の熱さは無いにせよ、思い出されたかのように継続していくのだろう…。


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