尾瀬において思うこと
Kaz

 7月の下旬に8年ぶりに尾瀬を訪れる機会があった。尾瀬は、僕にとっては、第3の故郷のようなところだ。僕の人生の中で、おそらく3番目に長い時間をそこで過ごしている。というのも、大学時代、3年間にわたって、夏の一時期、尾瀬で働いていたのだ。といっても、山小屋ではない。当時の環境庁の尾瀬沼管理事務所で、サブレンジャーのアルバイトをしていたのだ。アルバイトといっても、それは名ばかりで、実質的にはボランティアに近かった。何せ、1日のバイト代は、2千円くらいにしかならなかった。だから、3週間ほどのアルバイト期間が終わってもらえるのは、交通費を含めて、5万円ほどだった。それでも、尾瀬に3週間もいられて、さらに、お金までもらえる、という感覚しかなかった。総勢12名のアルバイトは、そんな学生ばかりだった。
 食事は、自炊している時間もないし、3週間分の食材を持ち込むこともできないので、すべて山小屋でとる。日替わりで、各山小屋を点々とするのだ。従って、尾瀬の山小屋のほとんどの食事を食べていることになる。朝食は、6時から。疲れているので、5分前くらいまで寝ていて、飛び起きると同時に小屋に駆け出してゆく。不思議なのは、そんな寝ぼけ眼でも、すごい食欲で朝食を平らげることができるのだ。朝からどんぶり3杯ぐらいは食う。おかずがなくなると、お茶漬けにして食う。そんなに食っても、なぜか、尾瀬にいる間は太らない。いや、太れないのだ。というのは、朝7時から1時間、朝の観察会というのがあり、ビジターを連れて周辺を案内する。それが終わると、仕度をして、9時前には、事務所を出発。弁当のおにぎりと水筒、雨具などを背負い、大きなゴミ袋(美観パックという)と火打ちバサミを両手に持って、それぞれの持ち場へと散ってゆくのだ。持ち場といっても、きちんとした分担があるわけではなく、4日に一度くらいで燧ケ岳や至仏山への清掃登山の当番があり、その他の日は、気分次第で尾瀬ヶ原を周回するもよし、尾瀬沼を回るもよし、三条ノ滝まで往復するもよし、燧裏林道方面に行くもよし、アヤメ平方面に登るもよし、まあ、とにかく、清掃と自然保護の啓蒙のために尾瀬のいたるところを歩き回るのだ。歩きながら、ゴミを拾い、登山者やハイカーに色々と自然解説をするわけだ。
 これで、腹が空かないはずがない。いくら食っても太らないのだ。はじめは小食だった女子学生まで、終盤では、朝からどんぶりお代わりをしている。
 小屋でも気の効いた(?)ところがあって、たとえば、飯を従業員が盛ってくれるところがあって、お代わりに行くと、どんぶり2杯分ぐらいを山のようにぎゅうぎゅうに詰めてくれたりした(バイト仲間は、これを「スーパー燧」と呼んでいた)。一般の宿泊客がこれにビビって、
 「あのう、ちょっとだけお代わりいいですか?」
などと、言っているのが面白かった。
 山小屋の従業員といっても、大方が学生アルバイトなのだ。要するに、アルバイトとしての立場の違いはあっても、同世代なのだ。冗談が通じる間柄だったのである。昼の弁当のおにぎりも小屋で作ってもらうのだが、一般客と同じ仕様というところもあったけれど、とてつもなく大きいのを作ってくれたり、中にやたらにたくさんの梅干が入っているスペシャルおにぎりを作ってくれたりするところもあって、おかしかった。
 尾瀬は、歩きに歩いた。3週間×3年だから、登山道で歩いていないところはほとんどないというくらい歩いた。燧や至仏には、何度登ったか分からないし、尾瀬ヶ原にいたっては、何度往復したか分からない。とにかく、尾瀬の写真を見ると、どんなアングルからの写真でも、また、どんなに小さくフレーミングされた写真であっても、大概分かってしまうくらい歩いた。大体、木道の写真を見ただけでも、どの辺りの木道か当てられる自信はあった。
 8月の10日あたりに、長蔵小屋で行っている「燧まつり」というのがあって、夜中の2時頃に小屋前を出発し、長英新道を登り、俎嵓でご来光を拝んで、御神酒をもらって下りてくるという行事なのだが、1度だけ参加したことがある。日の出の時刻が5時前頃なのだが、6時の朝食に間に合わないといけない。そこで、俎嵓の山頂から尾瀬沼ヒュッテまで、1時間で駆け下りた。もし、登山者とすれ違っていたら、山賊が駆け下りてきたと思ったに違いない。
 3年生のときのバイトでは、夜がけが流行ったことがあった。仕事が全部終わるのは、夜7時からの映画・スライド上映が終わり、反省会を済ませる8時半頃で、あとは、遊ぶ場所のない山の中のこと、酒を飲みながら、語り合ったり、山にありがちな幽霊話で盛り上がったり、色々自分たちなりの遊びを見つけていた。そんな中で、別の宿泊地にいる仲間のところを夜襲するというのが流行った。
 バイトの宿泊地は山小屋ではなく、決められた施設が3箇所ある。尾瀬沼の管理事務所と、見晴の管理官詰所、そして、山ノ鼻にある群馬県保護センターだ。そこに、4人ずつに分かれて宿泊し、毎日、順番で1人ずつ宿泊場所を移動してゆく。つまり、4日ごとに3箇所の場所をローテーションしてゆくシステムだ。その夜のくつろいでいる時間を襲うのだ。
 1度目は、尾瀬沼から見晴まで出向いた。夜の9時ごろに尾瀬沼を出発。4人で白砂峠を越えて、見晴まで2時間ちょっと。何せ、歩き慣れた道だから、ヘッドランプをつけながらとはいえ、意外と速かった。詰所の扉を突然開けたら、ものすごくびっくりしていた。見晴は、電力が来ていないので、発電機に頼っている。その発電機も9時には止められてしまうのだ。後は、ランプとローソクの生活だ。ここで、2時間くらい過ごしたのち、また、沼へと帰っていった。沼に戻ったのは、4時ごろだったろうか。途中の沼尻で見た星空がきれいだった。長蔵小屋は、すでに窓に灯りが点っていた。たぶん、昼食の握り飯作りと朝食の仕度が始まっていたのであろう。事務所に帰ってすぐに寝たが、6時の朝飯に起きるのが辛かったのは言うまでもない。
 2度目は、山ノ鼻から見晴を襲った。このときも4人で9時ごろに出発、尾瀬ヶ原を縦断して見晴へと向かった。この晩は、空がどんよりと曇っていて、月も星もなく、見通しも効かなかった。こんな天気の真夜中の尾瀬ヶ原は、本当に不気味だった。むしろ、森の中のほうがよほどましなくらいだ。1人では、2時間弱の歩行に耐えられそうにないと思った。このときは、疲れて、そのまま、見晴の詰所に寝かしてもらい、翌朝、6時の朝食に間に合うように、4時頃に見晴を出発。山ノ鼻へと帰っていった。山ノ鼻のすぐ手前の猫又川辺りで、朝の散歩中の兄い(群馬県の保護センターの嘱託職員で3人いた。なぜか、皆から兄いと呼ばれていた)に会い、
 「やあ、朝帰りかい?」
と、言われてしまった。これには、笑ってごまかすしかなかった。
 おもしろい思い出の尽きないアルバイトであった。大学卒業後も、毎年、2,3回は、尾瀬を訪れていた。しかし、8年前、97年の春を最後に足が途絶えていた。この年、両親を連れて、ミズバショウを見に、6月中旬に尾瀬を訪れた。ちょうど、この頃が尾瀬のブームのピークで、宿泊した温泉小屋周辺はそうでもなかったのだが、山ノ鼻周辺や尾瀬沼周辺の人の多さといったら凄まじかった。尾瀬沼の公衆トイレに長蛇の列ができていたのにはびっくりした。その光景を見て、なんとなく尾瀬から遠ざかってしまった。そうして、8年。ほんのちょっと遠ざかっていたつもりが、ずいぶんと時間が経ってしまった。とはいっても、大自然の中で流れる時間の速さは、人間社会の時間の速さとくらべて、はるかに遅い。8年くらいではほとんど変わっていないだろう。そうした予想通り、尾瀬自体は、ほとんど変わっていなかった。変わっていたのは、長蛇の列ができていたトイレが閉鎖され、新しいトイレができていたこと、あちこちの木道が新しいものに付け替えられていたこと、管理事務所前の道が変わり、かつての道が笹ヤブに覆われていたこと、至仏山の登山道が補修され、すっかりよくなっていたことくらいか。どれも、人間の仕業によるものだ。そういえば、ずいぶんと人が少なくなっていた。ブームが去ったことによるのだろう。
 尾瀬の自然はといえば、おそらく20年ぶりくらいのニッコウキスゲの当たり年で、しかも最盛期、黄色の絨毯のようになって咲いていた大群落には感動した。久しぶりに登った至仏山も、相変わらず蛇紋岩は滑りやすかったし、高山植物も美しく咲いていたし、山頂から見る平ヶ岳や駒ケ岳の美しい姿もそのままだった。緩やかな時間の流れも以前と変わりがなかった。目に見えないところでは、少しずつ人間の仕業による変化の波が押し寄せてきていたりもするのだろうが、どうか、自然のままにいて欲しいと願うと同時に、そのためにできることは何かを考えさせられている。
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