日本史探究 深読み日本史番外編1   
     武士どうしの争いでもあった承久の乱

・一般的には幕府方の圧勝というイメージが強い承久の乱。しかし幕府は当初、この戦いに悲観的な展望しか
 もっていなかった。そのわけは?
・乱の構図は「上皇・公家・寺社勢力」対「武士勢力」というような単純なものではなかった。ではどのような対立
 だったのか?

1)幕府のおそれ
・当初、幕府首脳のおおかたの意見は、箱根・足柄の関を守って徹底抗戦する、という消極的なものだった。
・結局は大江広元など長老の意見により京都攻撃策がとられた。
【Q1】大将北条泰時は父義時に「もし後鳥羽上皇自らが兵を率いていた場合はどうすればよいか?」と尋ねた。
   義時は何と答えたと思うか?
        ↓
 a:「上皇には弓を引けないから直ちに降伏せよ。もし上皇がいなければ、力の限り戦え」
   〜やはり
この時代、天皇(上皇)は武士にとって大きな存在であり、幕府を率いる北条義時は上皇により
     朝敵とされていたので、いかに大軍であっても、関係者の不安とおそれは私たちの想像以上に大きな
     ものだったと推測される。

・承久3年(1221)6月14日、幕府軍は雨で増水した宇治川を渡ろうとして急流に押し流され、800騎以上が水死した。
 泰時はこの時、いったん自害を覚悟したほどであった。

2)上皇方についた武士たち

・当時の武士すべてが御家人というわけではなかった。
【Q2】それに御家人の中にも、上皇方についた人々も少なくなかった。それはなぜだと思うか?
           

 a:御家人の中にはふだん京都に住んでいた者も少なくなかった。彼らの職務は京都やその周辺の治安維持
  であり、
そもそも彼らの所領・所職の多くは、上皇や公家、大寺社から与えられたもので、それを頼朝が「地
  頭職」という形で保障していたのである。そのため
上皇たちが彼らの主人という面も強かったため、上皇軍に
  参加した
のである。さらに北条氏が幕府内で実権を握っていく過程で起きた乱の敗者、三代で終わった源氏
  将軍にゆかりの人々なども上皇方として戦っている。

  つまり承久の乱における対立の構図は「上皇・公家・寺社勢力」対「武士勢力」というような単純なものではな
  く、
「御家人」対「非御家人」、「東国御家人」対「西国御家人」、「北条氏勢力」対「反北条勢力」などといった
  要素を含んでいたのである。

3)上皇方にもあった内部対立
・例えば延暦寺は、乱以前に所領をめぐるもめごとに際し、上皇から不利な裁定を受けていたため反感を抱いて
 おり、上皇からの出兵要請を拒否している。
・この他、藤原氏などの上級貴族もやや傍観者的態度をとったし、上皇家の内部でさえ、例えば子の土御門など
 は積極的に動かなかった。
・つまりこの上皇の挙兵計画は、
上皇とその近臣たちとの間で密かに進められたものだったため、京都勢力あげて
 の動きとはならなかった。

【Q3】しかしこのことが、逆に乱後の幕府にとってはマイナスに作用した面があった。それはなぜだと思うか?
          
 ↓
 a:承久の乱で失脚したのも京都方の一部であり、上皇と距離をおいて天皇家、貴族、大寺社は、その後も一定の
   力を維持できた、
というわけである。

*なお教科書には、「上皇方についた貴族や武士の所領3000余ヵ所を没収し、戦功のあった御家人らをその地
 の地頭に任命した」とあるが、実際には抵抗もあり、スムースに恩賞授与がなされたわけではなかった。

〔参考文献〕
・石井進「鎌倉幕府論」(岩波講座『日本歴史』5、中世1、岩波書店、1962年)
・同   『日本の歴史7 鎌倉幕府』(中央公論社、1965年)
・上横手雅敬『日本中世政治史論』(塙書房、1970年)
・山本幸司『日本の歴史09 頼朝の天下草創』(講談社、2001年)
・関幸彦『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』(吉川弘文館、2012年)