日本史探究 深読み日本史番外編2
     鎌倉幕府の法律と裁判

鎌倉時代の武家による法律と裁判のなかみとは、どのようなものだったのか。
また幕府の法律・裁判による支配が、公家や寺社などの旧勢力にも及んで
いった事情とはどのようなものだったのか。

1)幕府が行う裁判の流れ
担当機関
刑事事件−侍所  民事訴訟−問注所 ※鎌倉に関しては政所が担当
@訴人(原告)から訴状が提出される→役所、論人(被告)に対し「こういう訴えが出て
  いるので、弁明があれば書面で提出せよ」という内容の文書(問状)を出す。
A論人は陳状(弁明書)を提出、これを3度繰り返す
B両者が出廷し口頭弁論を行う(これも3回)。欠席した方が自動的に敗訴となる。
          
※春と秋は農繁期のため実施されず。御家人は農業経営者でもあった。
C役人はこれまでの両者の主張や事実調べの結果をまとめて一応の結論を出し、評定
 会議に報告する。
D評定衆は裁判を担当した役人を呼び出し、種々質問した上で判決を下す。
※どうしても双方に決め手となる証拠や証人がない場合、神に裁定を仰ぐ場合もあった。
【Q1】何をめじるしに神の意思を読み取ったと思うか?

a:双方がまず神前に自分が正しい旨を誓う起請文を書いた上で、神社に7日間籠もる。
 その間
、「鼻血が出る」「病気になる」「トビやカラスの尿をかけられる」「ネズミに着物を
 食い切られる」「親類に不幸が起きる」「馬が倒れる」「飲食の際にむせる」などの異常が
 あった方が「偽りが神によって見破られた」として敗訴となった
(この内容は幕府の出した
 法律に書かれている)。

2)徹底した当事者主義

【Q2】中世の法律に関わることわざに「(     )の前に死人があっても、訴えがなければ
   刑事事件とはならない」というものがある。この(     )内に何が入る?

a:「牢屋」(原文では「獄」)。つまり牢屋のような最も警察権力が強く及ぶようなところのすぐ
  近くでさえ、
被害者からの訴えがなければ事件とはならず、捜査も行われなかった。また
  たとえば1で示した裁判手続きの中の問状も、役人ではなく訴人自身が論人のところで
  もっていったのである(何かが起こりそう!?)。

・そして運よく自らに有利な判決が出たとしても、それを実行させるために幕府が役人や兵を
 出すことはしなかった。守護も鎌倉末期までは、その職務は大犯三ヵ条と呼ばれる軍事・警察
 権しか認められておらず、
勝者は一族や近辺の仲間の御家人たちの協力を得て判決内容
(たとえば土地の引き渡しなど)を基本的には自らが実行しなければならなかったのである


3)幕府の法支配権がひろがったわけ 
・しかし、それでも強大な武力を背景にもつ幕府の法は、次第に公家や寺社の力が比較的強い
 畿内・西国にまで及んでいった。しかもそれは、
何も幕府が強引にそうしようとしたわけではなか
 った
のである。いったいどういうことなのか。

(事例)正安元年(1299)8月、尾張国知多郡大郷(愛知県東海市)の百姓たちは、荒尾郷(同市)
     の百姓から訴えられていた。そのなかみは「荒尾郷のある住人が、はっきりしないが道路
     のような場所で大郷の住人2人と喧嘩になり、殺された。その2人は逃亡したため、大郷の
     他の住人を処罰してほしい」というものだった。(訴えた先はおそらく国衙)
     これに対し大郷側は、「数町(数百m)も離れた場所での喧嘩は他の村人には及ばないと
     いうことは『関東御式目』(幕府法)でも明らかだ」と反論した。

【Q3】上の事例において、何か気になる点はないだろうか?

a:これは百姓どうしの争いなので、
幕府法の対象範囲外の問題だということ。しかし大郷の百姓と
 しては、当時律令、公家法、幕府法などさまざまな法が存在する中で(それらの中には矛盾する
 内容のものもあった)
自分たちに有利なものであればどれでもよいわけで、それがたとえ幕府法
 でも、それを根拠に争おうとしていたのである。
この時点で幕府法の適用範囲は、制定者の意図を
 こえてしまった
。万が一の時は、強大な軍事力を背景とした処罰が期待できる幕府の法に委ねよ
 うとしていたこと、そして百姓や公家、寺社などの荘園領主たちは、もともと一つの権力が出した
 法律だけにこだわらない素地をもっていたこと、などが関わっていたようである。

〔参考文献〕
・石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(中央公論社、1965年)
・笠松宏至『徳政令』(岩波書店、1983年)
・古澤直人「鎌倉幕府の法と権力」(『法と訴訟』吉川弘文館、1992年所収)
・上杉和彦「訴訟当事者からみた鎌倉幕府法」(同『日本中世法体系成立史論』校倉書房、1996年所収)
・外岡慎一郎「使節遵行と在地社会」(『歴史学研究』690、1996年)