日本史探究 深読み日本史番外編3
元軍撤退の理由は暴風雨だったのか
1 文永の役(文永11・1274年)
・通説によれば「10月3日、30000余人・900艘の軍団が朝鮮半島・合浦(がっぽ)を出発し、
対馬・壱岐を攻めた後、博多湾に入り、20日に上陸。海岸沿いの何ヵ所かで合戦となり、
元軍が優勢だったが軍船に引きあげた。そして夜半の嵐で大損害を受け、撤退した」
とされている。
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*10月20日は、西暦(太陽暦)では11月26日。この時期に北九州に台風が上陸した気象
記録はなく、考えられるのは発達した低気圧や寒冷前線の通過にともなう突風である。
しかも、広橋兼仲という貴族の日記(『勘仲記』かんちゅうき)によると、10月20日から11月
6日までの京都の天気はほとんど晴れで、嵐の記録は見られない。
【Q1】このことは何を意味するか?
a:日本の天候は(偏西風の影響で)西から東へ移行するから、10月20日の時点で北九州に
嵐があった可能性はきわめて低い。ただし高麗の歴史書に「元軍が撤退を決めた後、たま
たま夜に大風雨となった」とあるので、撤退の日に嵐があったことはまちがいない。
*ここで再び『勘仲記』を見ると、11月6日条に「先ごろ敵の船数万艘が海上にいたところ、
急に逆風が吹いて本国に帰った」と記されている。当時、北九州の情勢は早飛脚により
9〜10日後に京都へ届いたことが知られているから、実際に北九州で嵐があったのは
10月27日頃と推測できる。
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つまり、元軍は10月20日の1日のみではなく、一週間ほどは日本にとどまっていた可能性
が高いことになる。
そもそも近代戦でしかも敵攻撃がない場合でさえ、上陸するのに1日では1万人が限度で
あることは、明治後期のある陸軍少佐も指摘していた。
2 弘安の役(弘安4・1281年)
・通説では5月3日、東路軍(高麗兵中心の4万余人・900艘)は合浦を出発、対馬・壱岐を経て
6月6日博多沖の志賀島を占領し、13日まで日本軍と海陸で戦闘を続けた。同日、東路軍は
志賀島に退いた。一方、江南軍(10万人・3500艘)は6月18日に慶元(中国南岸、現在の寧
波ニンポー)及びその近辺から出発、同月末に平戸島・五島列島付近に達し、29日と7月
2日に東路軍の一部と壱岐を襲う。
・その後、平戸島で東路軍の一部と合流、27日には鷹島へ移動した。そこへ閏7月1日、台風
が襲来し元軍は大損害を受けた。その後、逃げずに残された元軍に対し、日本軍が掃討戦
を行った。
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*『勘仲記』には、「京都が閏7月1日(太陽暦8月23日)夜から2日夜まで、激しい暴風雨に襲わ
れた」とあるので、1日未明ごろには北九州付近も暴風雨だった(それも季節的に台風)ことは
まちがいない。
これにより元軍のほとんどの船が沈んだこと、その背景として服属させた高麗に短期間で無理
矢理つくらせたため、多くの船が暴風雨に耐えられなかったこと、などが従来指摘されていた。
しかし、近年鷹島周辺の海底調査で発見された蒙古船とみられる沈没船は、わずかに2艘のみ
であり、あとは船の断片が数百点見つかっているだけである。それらの中には、無用にたくさんの
釘が打たれていて、修理を繰り返したとみられるものもあるが、全体からみれば一部であろうとの
意見もある(つまり手抜きの船だったと断定できるには至っていない)。
〔参考文献〕
・旗田巍『元寇−蒙古帝国の内部事情』(中央公論社、1965年)
・黒田俊雄『日本の歴史8 蒙古襲来』(同上、1974年)
・杉山正明「モンゴル時代のアフロ・ユーラシアと日本」(近藤成一編著『日本の時代史9 モンゴルの
襲来』吉川弘文館、2003年)
・新井孝重『戦争の日本史7 蒙古襲来』(吉川弘文館、2007年)
・服部英雄『蒙古襲来』(山川出版社、2014年)