日本史探求 深読み日本史番外編5

   
室町幕府が応仁・文明の乱後も100年続いたわけ


☆室町幕府が倒れたのは天正元年(1573)、信長が15代将軍足利義昭
  を京都から追放した時とされ、幕府体制が大きく揺らいだとされる応
  仁・文明の乱終結(文明9・1477年)から約100年も後のことである。
  この間、幕府は本当に有名無実な存在となったのか。100年も続いた
  のはなぜなのか、以下考えていこう。

1 幕府体制の基本形=「持ちつ持たれつ」
 徳川将軍とは異なり、室町将軍には直轄領や直属の家臣が少なく、当初
から各国守護に任ぜられた大名たちの支えなしにはやっていけない体制
がとられていた。いわゆる管領や侍所の長官などは足利一門や早くから
足利氏に従った大名などがつとめ、その配下には幕府直臣ではなく、彼ら
大名自身の家臣たちが用いられた。

 ずいぶん虫のよい話で、「もし大名たちが幕府への協力を拒んだらどうな
るのか?」と思うかもしれない。しかし幕府成立後しばらくの間は、将軍の権
威・権力は強大で、大名たちはそのような将軍から守護に任ぜられてはじめ
て各国支配を安定して行うことができた
ので、そもそも協力しない、ということ
はありえないことだった。つまりこの時期、将軍と大名たちの間には、かなり
しっかりとした「持ちつ持たれつ」の関係が維持されていたのである。

2 幕府のスリム化〜応仁・文明の乱以後
 ところがこうした状態が長く続くと、守護の世襲化・固定化が進み、任国との
結びつきが深まっていった。そうすると守護大名という地位も、「将軍に認めら
れたから」というよりは、長年在地を支配してきた実績にもとづく、家臣以下地
元の人々の支持によって保障される
、という面が強くなっていった。
 これが、守護大名から戦国大名になるきっかけの一つと見なされている。

 応仁・文明の乱は、こうした傾向を助長した。すなわち、長年京都での戦い
を続けてきた大名たちは次第に国許に不安を感じ、乱が終わるとほとんどが
帰国し、京都に戻らなかった(将軍に許可なく帰国することは本来違法だった)
 
 ではこれで幕府は完全に無力化したかというと、そうではなかった。幕政に関
与していた大名たちが京都を去ったため、将軍自身が直臣を指揮して京都及
びその周辺で起きる紛争の解決に当たったのである。なんといっても裁判に熟
達した奉行人が幕府には多くいたので、(実質的な管轄範囲は大幅に縮小したとはいえ)
都を中心とした重要地域を管轄する幕府の存在価値は決して小さなものではな
かった
のである。

3 特定の有力大名に支えられた幕府
 2でほとんどの大名が帰国してしまった、と書いたが、唯一帰国しなかった大名
がいた。それが細川家である(足利一門、三管領のひとつ)。これは同家の嫡流家が摂
津や丹波など、京都に近い国々の守護で、もともと在京することが多かったため
である。
【Q1】幕府としては、この細川家の存在は大きな力になったが、、かといって
   あまり同家のみに頼りすぎるのも好ましいことではなかった。それはな
   ぜだと思うか?

     ↓
 (a)もし細川家が没落してしまうと、それがそのまま幕府の崩壊につながりかねな
   いため。

 やはり幕府としては、そうした危険を分散するために、細川家以外の複数の大
名に在京して支えてもらうほうが望ましかった。実際に、
 ・10代将軍義稙(よしたね)←周防の大内義興(よしおき)
 ・11代将軍義澄(よしずみ)←若狭の武田元信(もとのぶ)
 ・12代将軍義晴(よしはる)←近江の六角定頼(さだより)
というように、戦国期の歴代将軍たちは、細川家以外の大名たちに上洛して自ら
を支えるよう命じている。
    ↓
こうして考えると、戦国末期に織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、15代将軍に
擁立してこれを補佐したのも、決して特別な行動ではなかった
ことがわかる。

4 戦国大名にとっても必要だった将軍 
 永禄2年(1559)、安芸の戦国大名毛利隆元(元就の子)は、その覚書に「将軍の命
令であっても、毛利家を保つためならば、これに背いてもかまわない」
と記している。
【Q2】これを素直に読めば、大名の自立化傾向を示している、ということにな
   るが、それとは別のとらえかたはできないだろうか?

         ↓
 (a)「毛利家を保つためならば」という条件つきなので、見方を変えれば「毛利家の
   存亡に直接関わる内容でなければ、将軍の命令には従ってもよい(あるいは
   従うべきである)、とも解釈できる。

 実際に各地の戦国大名たちのとって、将軍はなお無視できなかったばかりか、自
らの領国を維持・発展させていく上で、必要な存在だった。具体的には、
@栄典の授与
   将軍の名前の一字をもらう(例えば将軍義晴→武田晴信〔信玄〕、将軍義輝
   →上杉輝虎〔謙信〕など)。将軍の推薦により朝廷の官職をもらう。大名間で
   争った際、(最終手段である戦争に訴える前に)相手よりも社会的地位をあげ
   より有利な状況をつくれる。
Aライバル大名との外交
   例えば大名AがB・Cの二大名と争っている場合、このうちBと和睦するよう将
   軍から命じてもらう。これによりCとの問題に専念できる。
【Q3】この和睦を成立させる際、「将軍からの命令」という名目は、国内向け
   に役だった。それはどういうことだと思うか?

       ↓
 (a)和睦の条件としてAがBに対し領土の割譲など、領国内の家臣たちにとって
   不本意なことを実行しなければならない場合が多い。その際に「将軍の命令
   だから仕方がなかった」と、彼らに(渋々ながら)納得させることが期待できた。
B領国支配
   応仁・文明の乱の原因の一つに、各大名家での跡目争いがあった。誰が新
   たな当主になるかをめぐって、領国を揺るがすような大問題になることがあっ
   たのである。そこで新当主は、自らの地位を将軍から正式に認めてもらうこと
   によって、一族や重臣たちの不満を抑えようとした。

※以上みてきたように、自立化を強めた戦国大名たちも、ライバル大名との外交
 (戦争)や国内支配の安定のために、まだ将軍の権威は必要なものであった。
 大名たちはいろいろと将軍の力を借りなければならない問題を多く抱えていた
 ので、将軍からの命令にも一定程度は従わなければならず、
そのことが室町幕
 府体制の維持につながっていた、ということになるのである。

〔参考文献〕
・伊藤喜良『足利義持』(吉川弘文館、2008年)
・山田康弘『戦国時代の足利将軍』(同、2011年)
・  同  『足利義稙』(戎光祥出版、2016年)