日本史探求 深読み日本史番外編6

 織田信長は本当に「天下統一」をめざしたのか?

★一般に織田信長は、早くから天下統一の野望を抱き、その実現に
  向けて邁進したものの、その中途において重臣明智光秀の謀叛に
  より倒れた、とされている。しかし、これは本当なのだろうか。我々は
  信長のその後の経歴を知っているためにそのようにとらえている、と
  いうことはないのだろうか?

1 「天下布武」の本当の意味
 信長が自らの印章に「天下布武」の印文を用いたのは、永禄10年(1567)
 11月の朱印状が(史料上では)初めてである。つまり、美濃平定のこの年
 に既に天下統一の野望を抱いていた、と一般にはとらえられている。

【Q1】これがもし本当なら、信長にとって不利なことはないか?

a:この時点で天下統一の野望を公言したことになり、これによって周りの
 有力
大名たちの反感を買い、へたをすれば反信長同盟が結ばれ、討た
 れてしまうことにもなりかねない。
 ↓
 実はこの時代の「天下」とは、ほとんどの場合日本全体ではなく、室町
 将軍が管轄する京都を中心とした五畿内
(大和・山城・河内・和泉・摂津)をさ
 している
のである。したがって「天下布武」も日本全体の武力統一では
 なく、幕府の管轄地域である五畿内及びその周辺地域を安定的に治
 めること(当時の史料では「天下静謐」と表現されることが多い)を意味したのであり、
 信長はその実現をめざす将軍を補佐したい、という願いを込めてこの
 「天下布武」の印判状を使い始めたと考えられる。
 *現に翌年信長が足利義秋(後の義昭)を擁して上洛した際も、一部には軍事的に抵抗した
   勢力もあったが、逆にそれ以前から関係がよくなかった大名らの多くは上洛そのものに反対
   していない。前回説明したように、有力大名が将軍候補者を擁して上洛するパターンは、信長
   以前に何度もあった。

2 「室町幕府滅亡」後の信長の態度
 
一般的には天正元年(1573)7月、敵対した義昭が信長によって追放され
 たことで室町幕府は滅亡した、とされている。
 しかし、実は信長は、この後毛利氏との間で行われた義昭の受け入れ
 に関する交渉の中で、
希望があれば義昭を復帰させてもいいし、預かっ
 ている義昭の子を将軍にする意向
を表明していた。可能性のある限り、
 信長は将軍の臣下として行動しようとしていたのである。

3 信長が描いた理想の国家体制とは
 「鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす」のイメージ
(もとより信長の作ではない)
 からか、信長は各地に残る戦国大名をすべて討ち果たして全国統一を
 めざしていたかのように考えられているが、実際のところはどうなのか。
 東京大学史料編纂所の金子拓氏は、これに関し天正3年11月付けで
 信長が信濃の武将小笠原貞慶に宛てて出した書状に注目している。

 「奥州の伊達氏とは絶えず連絡を取り合っており、心配ない…五畿内
  は問題ない…大坂本願寺は、むこうからいろいろ望んできたので、寺
  を囲む堀や塀などを取り壊した上で赦免した…中国の毛利・小早川
  氏は私の分国の家人と同様である…北九州は、大友をはじめ支配下
  に入った…この上、関東の諸勢力と友好関係を結べば、『天下安治』
  は歴然である」
【Q2】これより、信長はこの時点において全国の諸勢力に対し、どの
   ような認識をもっていたことがわかるか。


a:五畿内以外の奥羽・関東・中国・九州の大名たちに対しては、自らに有
 利な形ではあるものの、
友好関係さえ結べれば、その存立自体を否定
 
していない、ということがわかる。これは室町時代の基本的なありかた、
 すなわち将軍とこれに緩やかに従う大名たちが併存する国家体制と大き
 く異なるところのないものであった。

*ただし金子氏は、天正10年、武田攻め後の四国に対しては、それまでの天下静謐のための戦い
  とは異質な、征服欲がまさったいくさをしようとしていた、と指摘している。

※参考文献
・池上裕子『織田信長』(吉川弘文館、2012年)
・金子拓『織田信長〈天下人〉の実像』(講談社、2014年)
・神田千里『織田信長』(筑摩書房、2014年)