日本史探究 深読み日本史7 秀吉の情報戦略
☆低い身分から織田家トップクラスの重臣となり、信長が築きあげた
ものによっている部分が少なくないとはいえ、その死後わずか10
年にして天下を統一できた理由は何か。
1 秀吉は本能寺の変を予知していた?
※本能寺の変直後の秀吉の動き(天正10・1582年6月)
2日:この日未明、本能寺の変で信長死す。
3日:この日夜、備中高松城(岡山市)を包囲していた秀吉のもとに、本能寺の変の知らせ
が届く。
4日:秀吉、毛利氏と講和。
6日:秀吉軍、高松を出発(中国大返し)
13日:秀吉軍、山崎の戦いで明智軍を破る。
(Q1)この間、何か不思議なことはないか? ※日付に注目
↓
a:当時は不確かな第一報が入り、その後信頼すべき情報が遅れて入る
のが一般的だった。3日夜に秀吉のもとにとどいたのは、まちがいなく第
一報であり、通常はこれだけで京へ戻ろうとすることはない。もし誤報だ
ったら、秀吉は勝手に戦線を離脱したとして、おそらく死罪とされたであ
ろう。
つまり、この時秀吉は、きわめて異例な早さで確かな情報を得ていたこ
とはまちがいないのであって、ここに彼のスピード出世を明確にした理由
(ふだんから早く確かな情報を入手することに気を配っていた)が見出せる。
※秀吉は若い頃、木曽川筋で活躍した蜂須賀正勝などの川並衆と呼ばれた山賊的な土豪層と
親しかった、とされている。秀吉はこうした人々の(裏の?)ネットワークを利用して、自分に有利
な情報をいち早くつかみ、出世の階段をあがっていたことは十分に考えられる。
2 信長葬儀の際の情報操作
※信長葬儀前後の秀吉の動き
天正10年6月27日:清洲会議。信忠の嫡男三法師を継嗣とし、織田家の遺領が一族、家臣に
分配される。
10月15日:秀吉、京都大徳寺で信長の葬儀を主催。
12月 9日:秀吉、織田信孝(信長三男)を岐阜城に攻め、これを降伏させる。
天正11年 2月12日:秀吉、伊勢の滝川一益(信長重臣)を攻撃。
4月21日:秀吉、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家(信長重臣)を破る(24日勝家自害)。
秀吉が光秀を破ってから信長の葬儀を行うまで、4ヵ月もかかっている。
これについて秀吉は、多くの武将に出した書状の中で、「事前に信雄
(信長次男)や信孝に(葬儀について)相談したが返事がなく、また他の
宿老たちも(葬儀を)行おうとしない。これでは世間体が悪いので、自分
のような者を引き立ててくれた信長様の大恩に報いるためにも、あえて
挙行した。私は葬儀が終われば、信長様の後を追って腹を切っても何
の恨みもない」などと述べている。
(Q2)しかしこの弁明、どうも怪しい。実は他の史料により、秀吉は
この4ヵ月のあいだ、懸命にあることを行っていた。それは?
↓
a:関係が悪化している柴田勝家に備えるため、城の修築をしていた。
秀吉としても、早く信長の後継者としての立場を固めるために葬儀を
なるべく早く主催したかったであろうが、喫緊の課題にまず対処せざ
るをえなかった。しかしこれを表沙汰にしたくなかったため、まったく
事実とは異なる弁明をしたものと思われる。
3 地方遠征の本当の目的は?
秀吉は天正13年(1585)の紀州攻めを皮切りに、北国佐々成政攻め
(同年)、九州平定(同15年)、小田原北条氏攻め(同18年)と地方遠征
を繰り返す。
ふつう遠征の最大目的は、当然ながら敵を軍事的に倒すことにある
はずだが、これらの遠征には以下のような共通点が見出せる。(一部例外あり)
・美しく着飾らせた大軍を目的地までゆっくりと行軍させる。
・相手が既に降伏しているのに、遠征軍をわざわざ起こす(佐々氏攻め)。
・実際には激しい戦闘はほとんど行わず、引き付けておいた敵に圧倒的な
軍事力を見せつけて降伏させる(九州攻め)。
・源頼朝が奥州藤原氏を攻めるために出発した7月19日にあやかり、北条
氏滅亡後、同じ日に北関東・奥州へ向け出発した可能性がある。
(Q3)こうして見ると、秀吉はこれらの地方遠征を行う目的を、どのような
ものと考えていたと思うか?
↓
a:秀吉は、着飾った大軍に守られながらゆるゆると進軍(パレード)することで、
天下人秀吉という存在を沿道の人々(公家から武士、一般庶民)に強く印象
づけることを第一の目的とした、と思われる。それゆえ山室恭子氏は、これは
むしろ御巡幸ともいうべき政治的な行動であった、と指摘している。秀吉の家
臣団はにわかづくりだし、一応従っている武将たちの多くも、かつては先輩か
同輩だったので、政治基盤を安定させるためには、民衆の支持は不可欠だった。
4 積極的な情報発信
秀吉は情報のもつ力を若い頃から熟知していたので、より多くの人々の支持
をとりつけるために、積極的な情報発信を行った。
(Q4)その一つとして、秀吉が大村由己(おおむら ゆうこ)という人物に命じて
やらせたこととは?
↓
a:自らの功績をほぼリアルタイムで大村に記録させ、軍記や伝記をつくらせた。
これらは貴重な情報を含む一方で、当然ながら秀吉をほめたたえる誇張され
た表現が多くとられている。そしてさらに文禄3年(1594)春には、自らを主人公
とした新作能をやはり大村につくらせ、実際に上演もさせている(今でいえば、
生前に伝記を出版し、また自らを主人公にした映画を制作・上映した、という
ところか)。ただ能のほうは成功しなかったらしく、現在その内容を知ることは
できない。
※参考文献
・山室恭子『黄金太閤』(中央公論社、1992年)
・藤田達生『秀吉神話をくつがえす』(講談社、2007年)