日本史探究 深読み日本史番外編8 大名にとって参勤交代とは?
☆参勤交代とは、江戸幕府が大名統制のために一定期間、諸大名を江戸に
参勤させた制度である。華やかな大名行列だけがイメージとしては強いが、
江戸での勤め(暮らし)をも含めて考える必要がある。また、この制度を調べ
ていくと、戦争のない時代の武家政治の滑稽な?特質が浮かび上がってくる。
1 成立のいきさつ
これは服属儀礼であって、参勤しないと幕府への叛逆とみなされた。幕府成立
直後から徳川氏への人質(家族)の提出、大名本人の江戸への出頭などは自
主的に始まっていたが、これが定例化していった。幕府も彼らに江戸での屋敷
を与えた。
2 全国的な状況
文化元年(1804)の武鑑(大名・旗本のデータブック)には、全大名264家のうち、
隔年参勤175家、半年交代(関東の大名)27家、定府(常に江戸詰め)26家など
とある。
【Q1】この他、参勤交代をしない大名が21家あった。これは?
↓
(a)老中など幕府の役職に就いている大名が常に江戸にいたため。なおこの他、
きわめて遠隔地の対馬藩は3年1勤、蝦夷地松前藩は6年1勤だった。
3 大名行列の実態
・行列の人数
一般的には150〜300人の場合が最も多かった。ただしこの人数のほぼ3分
の1は「通日雇」(とおしひやとい)と呼ばれるアルバイトの人足によって占められ
ていた。最大の藩である加賀藩(前田氏、100万石)の場合、5代綱紀の時に
は何と4000人という人数であった。
・日数
これはもちろん藩によってさまざまだったが、加賀藩の場合、金沢−江戸間
約120里(約480km)を12泊13日で移動したのが、参勤・交代あわせて全190
回のうち、64回と最も一般的だった(1日あたり40km弱)。最短記録は4代光高
の時、寛永20年(1643)に何と6泊7日!1日70km近く進んだことになり、一行は
小走りの連続だったのではないかと思われる(江戸にいた光高の妻が産気づ
いたため。何という愛妻家!)
・費用
移動の経費としては@宿泊費、A予約キャンセル料、B幕府要人へのお土産
代などがあった。
【Q2】この他、移動に関して重要な経費があった。それは?
↓
(a)川を渡る際の「川越賃」。加賀藩の場合、金沢から江戸まで北国下街道(富山→
田→善光寺→高崎経由)で進むとすると、幅5m以上の川が84もあり、それらの
うちの4割強にあたる38の河川には橋が架かっていなかった。例えば善光寺の南
を流れる犀川(さいがわ)を渡る場合、渡る費用は現在のお金にして240万円であった
(江戸中期)。
そんなこんなで、加賀藩の文化5年(1808)の移動の総経費は、現在の4億3000万円
であった(米価換算、労賃基準だと6億9000万円)。
・他藩領を通る際の気苦労
【Q3】11代将軍家斉の時、明石藩があることをきっかけに尾張藩の領内を通る
際に行列をつくらず、まるで町人や農民のようなかっこうで進んだという。
このきっかけとなったあることとは?
↓
(a)直前の参勤で尾張藩領内を通った際に、猟師の子ども(3歳)が行列を横切ったた
め、通行中の明石藩主がこれを捕らえさせた。宿泊先に前後の宿駅の人々や村の
名主、僧侶、神官などが押し寄せて許しを乞うたが、藩主はこれを許さず幼児を切り
捨ててしまった。尾張藩はこれを知って大いに怒り、明石藩主に以後は通行を許さな
いと伝えてきたため。
*他藩領はいわば外国のようなものであり、ましてやこの場合相手が親藩筆頭の尾張
藩なので、通行させてもらう藩のほうは細心の注意を払わなければならなかった。何
かもめごとが起こり、それが幕府に知られでもしたら大変だからである。
4 参勤交代と藩財政
文化元年(1804)から同15年までの松江藩の財政で、いわゆる大名行列にかかった費用
は、藩財政全体の約5%にすぎなかった。(藩士の給与は除く)
【Q4】では藩主やその家族、あるいは家臣たちの江戸滞在費の、藩財政に占める割
合はどれくらいだったと思うか?
↓
(a)実に55%も占めた(藩士の給与を含めても30%)。これに対し国許の費用は36%にすぎ
なかった。国許の経営には財政全体の1/3強しか使えなかった計算になる。つまり参勤
交代で藩の財政を圧迫していたのは大名行列ではなく、日々必要な江戸での経費だった
のである。
5 大名にとって参勤交代とは
負担がきわめて大きな参勤交代だが、大名にとってのメリットもあった。それは、江戸に
いることで中央の政局をじかに観察し、藩にとって有益な情報を国許へ送ることができた
点である。
*幕府は、実は交通渋滞などの理由から、大名行列の際の人数を減らすように命じていた
(授業中ふれた寛永の武家諸法度を思いだそう)。それにもかかわらず大名たちのほうが
人数を減らすどころか、かえって大幅に増員したりしていた。例えば加賀藩の場合、享保
6年(1721)の規定では、総勢450人と定められていたが、実際には3でみたように多い場合
は4000人、通常でも2000人と大幅に増員した行列となっていたのである。
【Q5】 さらには行列の道具なども、より華美なものにしたいとわざわざ幕府へ願い出た
りしていた。なぜそうしたと思うか?
↓
(a)戦争もなくなった大平の時代において、大名たちの関心は、江戸での儀礼的な空間の中で、
いかに自分の家が高い位置を占めるか、ということだった。石高、朝廷での官位争いの他に
この参勤交代で少しでも強い威勢を示すことが争われたのである。例えば熊本藩(細川氏)
では、徹底的に賄賂(わいろ)を使ってまで、規定上は認められていない行列での鑓(やり)を3
本立てることを認められている。
「儀礼国家」においては、藩主の行列に鑓を1本加えるかどうかが藩の重要な政治課題であり、
それをどの大名に認めるか、というような判断が幕府の重大な政治的行為だったのである。
※参考文献
・山本博文『参勤交代』(講談社、1998年)
・忠田敏男『参勤交代道中記』(平凡社、2003年)