深読み日本史番外編    島原の乱を考える


☆寛永14年(1637)から翌年にかけて、九州の島原・天草地方で起こった島原の乱。
  原因は、幕府によるキリシタン弾圧と領主による重税賦課などの苛政だとされて
  いる。
  しかし、蜂起した人々は、はたして全員が熱心なキリシタンだったのか?また、2
  つの原因は、どちらが主たるものなのか、あるいはそれぞれがどのような関係に
  あるのか、以下みていこう。 *島原藩(松倉氏)  天草=唐津藩(寺沢氏

1 乱の経過
 ・慶長17年(1612)幕府、キリスト教を禁止。各地で激しい弾圧を行う。
 ・寛永10年(1633)島原・天草で表面上の棄教
(信徒がキリスト教を棄てること)
             が完了(ただし潜伏者は存在)
 ・寛永11〜13年 全国的な天候不順により飢饉が発生。
 ・寛永14年(1637)
   10月半ば頃  キリスト教の信仰を促す廻文が島原・天草に出回る。
            小西行長
(旧天草領主だったキリシタン大名)の旧臣益田甚兵衛の子、
            四郎を「天人」としてキリシタンの結集が呼びかけられる。キリ
            シタンへの「立帰」
(一度教えを棄てた者が再び信仰に戻ること)を促す活
            動が展開される。
   10月25日   立帰百姓、島原半島南部の有馬村で、キリシタンを取り締まっ
            ていた島原藩の代官を殺害、武力蜂起。
      27日   一揆勢、島原城を攻める
(蜂起は島原藩領全体へ拡大)。同じ頃、天草
            でも立帰百姓が蜂起、天草各地をおさえる。大矢野にいた天草
            四郎ら、いったん長崎へ向かったが、唐津藩兵が動いたと知り
            断念、天草の一揆勢と合流。天草下島の本戸で唐津藩兵と戦う。
   11月14日   一揆勢、天草下島の富岡城の城代三宅藤兵衛
(天草統治の責任者)
                
を敗死させるも、城の攻略はならず。

【Q1】この頃、熊本藩など周辺の諸藩は、こうした事態をいち早く察知していたが、
   鎮圧のための軍事行動は起こさなかった。それはなぜだと思うか?
     ↓
   武家諸法度の中に、幕府の許可なく支配領域をこえて藩兵を動かしてはならない、
   という規則があったため。幕府の統制がゆきわたっていたことが、かえってこの場
   合事態を深刻化させてしまった。


   11月9日  幕府が討伐軍を編成、大将として板倉重昌(三河国深溝ふこうず1万石) を
          派遣することを決める。
          佐賀・久留米・柳川藩→島原へ出兵   熊本藩→天草へ
  12月3日  一揆勢、この頃までに原城へ立て籠もる。
     5日  この頃、幕府軍が到着し、一揆勢と全面対決。戦後処理のため老中松平
         信綱の派遣を決定。

 ・寛永15年(1638)
   1月1日  幕府軍4千、総攻撃を行うも一揆勢に敗れ、板倉重昌戦死。
     4日  松平信綱着陣。幕府軍の総指揮をとる。九州・四国の諸藩あわせて12万人
         余りの兵で兵粮攻めを行う。この間、矢文(文章を書いた紙をつけて放ったもの)で一
         揆勢の真意を確かめようとし、投降を勧める。←→一揆勢これに耐える。

【Q2】ここで信綱は、籠城するキリシタンたちを失望させるため、ある勢力に攻撃を命じた。その
   ある勢力とは?
         ↓
   オランダ船に原城を砲撃させた。一揆の指導者が「やがて南蛮国から援軍が来る」と参加
   者をあざむいていたので、その異国人に砲撃させれば、キリスト教のご利益(りやく)の限界を
   知るだろう、と信綱は考えたのである。しかしこの攻撃は熊本藩主などからの批判をうけ、
   とりやめた。

    2月      一揆勢の食糧が尽きる。
    2月27・28日 幕府軍総攻撃。一揆勢の多くが惨殺される(乱鎮圧)。


2 一揆勢は全員熱心なキリシタンだったのか?

   原城に籠城した一揆勢は3万人ほどだったとされているが、ではこの全員が熱心なキリシタン
   だったのか?

【Q3】次は幕府軍から籠城中の一揆勢へ放たれた矢文の内容の一部である。
    今度籠城を致し候者の内、志これなき者を焼き討ち致し、妻子を人質に取り、無理に貴利
    支丹となし、迷惑ながら城中におり申し候者多き候よし

   ここからどのようなことがわかるか?
      ↓
   焼き討ちされたり、妻子を人質に取られたために、やむなく参加させられた者もあったらしい
   ことがわかる。もちろん幕府側の主張だから、これだけでは真実と断定できないが、他の証拠
   からこうしたことが実際にあったことが確認されている。当時百姓は、村単位で行動していた
   ら、村の方針でキリシタンへの立帰と決まると、個人としてこれに反する行動は原則としてとれ
   なかった。

3 領主による苛政(かせい、過酷な政治)は事実だったのか? 

 一揆勢は天草のある村を襲った際、「キリシタンになるなら仲間に入れてやろう。しかしならないの
 なら皆殺しにする」と言った。

【Q4】このことは、一揆の蜂起を重税賦課への抗議からとみると、矛盾することになる。それはなぜか?
        ↓
   一揆側が敵味方を区別する基準は、相手がキリシタンかそうでないか、ということだったとわかる。
   もし仮に重税賦課への抗議が蜂起の主な理由だったとしたら、別にキリシタンでなくても味方にし
   たはず。

 しかしその一方で、近くの佐賀藩の家老が同藩江戸藩邸に送った書状などによれば、島原藩において
 苛政があったことは事実のようである。
 藩主松倉氏は幕府への忠勤を示すため、実際の石高は4万石なのに普請の際には10万石の役を
 勤めたい、と申し出ていた。江戸初期においては朱印船貿易による利益があったが、鎖国により
 それがなくなると、その分は農民への年貢増徴でまかなうこととなった。

4 キリシタン弾圧と苛政(重税賦課)との関係は

 以上見てきたように、一揆が起きた背景にはキリシタンへの弾圧と苛政の両方があった。では、この
 2つはどのように結びつくのか?

 乱が起きる10年ほど前は、少なくとも表面上は島原や天草での禁教は実現し、多くの者がいったん
 キリスト教を棄てた。しかし、一度は本気で信仰したわけだから、彼らの多くには後悔の気持があっ
 たようである。

【Q5】その後悔の気持をいっそう強めさせる出来事が、乱の起きる直前に起きていた。それは?
   (冒頭の年表を参照)
     ↓
   寛永11〜13年(1634〜36)にかけて全国的な天候不順による飢饉が起こったこと。これが領主苛政
   につながったと考えたようである。「あぁ、自分たちがキリスト教を棄てたばっかりに、こんな不幸な
   ことが起きてしまったんだ!」

  *「信仰」=「経済」??
     考えてみれば、中世以来一揆は、神仏に心のよりどころを求め、その前で団結を誓っていた
    (例えば一味神水など)。こうした雰囲気が未だに残っていたこの時代、地域的な特性から、その
     心のよりどころがたまたまキリスト教だった、ととらえることができるかもしれない。「伴天連」
     と呼ばれる指導者がいなくなり、切支丹、つまりキリスト教徒は(立帰の者も含め)現世的な利益
    (百姓としての生活の安定)を求めて、再びキリスト教にすがったのではないか。彼らにとって信仰
     と経済は、必ずしも別物ではなかった
。しかもそのキリスト教をすべての者が強いよりどころに
     したわけではなかった点に、信徒による非信徒への改宗の強制が行われた理由があると思われる。

 *乱後の処置
   4月 島原藩主松倉重政は森内記へ預けられ、唐津藩主寺沢広高は天草領没収。
   7月 松倉重政、死罪を申しつけられ
(通常は武士の名誉を重んじて切腹だが)斬首されたという。
      ※寺沢広高はその後自害した。

   実は乱直後の信頼できる史料には、2人の苛政を問題としたものはあまり見られず、時間が経過する
   ほど、幕府は苛政を強調するようになった。これは、この乱を純粋なキリシタンの乱として終わらせる
   ことに失敗したため、と考えられている。 

《参考文献》
・煎本増夫『島原の乱』(教育社歴史新書、1980年)
・神田千里『島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起』(中央公論新社、2005年)
・大橋幸泰『検証島原天草一揆』(吉川弘文館、2008年)