日本史探究  深読み日本史番外編9   島原の乱を考える 

この乱の原因は、幕府によるキリシタン弾圧と領主による重税賦課などの
悪政だとされている。しかし蜂起した人々は、はたして全員が熱心なキリシ
タンだったのか。また2つの原因はどちらが主たるものなのか、あるいはど
のように関係するのか。

1 乱の経過
 ・寛永10年(1633)島原・天草で表面上の棄教(信徒がキリスト教をやめること)
  が完了。
 ・寛永11〜13年 全国的な天候不順、飢饉が起こる。
 ・寛永14年(1637)
  ・10月半ば頃 小西行長(旧天草領主、キリシタン大名)の旧臣益田甚兵衛
           の子、四郎を「天人」としてキリシタンの結集が呼びかけられる。
  ・10月25日 立帰(一度棄教した者が再び信仰に戻ること)百姓、島原半島の
          南部の有馬村で、キリシタンを取り締まろうとした島原藩の代官
          を殺害、武力蜂起。
     27日  一揆勢、島原城を攻め、蜂起は島原藩領全体へ広がる。同じ頃、
          天草でも立帰百姓が蜂起、天草各地をおさえる。益田(天草)四郎
          ら、天草の一揆勢と合流し、天草下島の本戸で唐津藩兵と戦闘。
  ・11月14日 一揆勢、天草下島の富岡城の城代三宅藤兵衛(天草統治の責任
          者)を敗死させるも、城の攻略はならず。

【Q1】この頃、熊本藩など周辺の諸藩は、こうした事態をいちはやく察知し、積極的
   に情報を入手していたが、領外への軍事行動は起こさず静観していた。その
   理由を次の史料(武家諸法度寛永令)から答えよ。

   江戸並びに何国においてたとへ何篇の事これあるといへども、在国の輩は
   その処を守り、下知相待つべき事。
     
 (a)
「江戸やどの国において何かあっても(幕府の許可なく)藩兵を動かしてはなら
   ない」という命令を守っていたから。
幕府の権威がきちんと九州諸藩に及んで
   いたことを皮肉な形で示されることとなった。
        
         討伐軍を編制した幕府、板倉重昌(三河国深溝
ふこうず1万石の小領
         主)派遣を決定。九州諸藩も出兵。
  ・12月3日 四郎ら一揆勢、この頃までに原城跡へたて籠もる。
      5日 この頃までに幕府軍が到着し、一揆勢と全面対決。戦後処理のため
         上使として老中松平信綱の派遣を決定。
 ・寛永15年(1638)
  ・1月1日  幕府軍は総攻撃を行うも一揆勢に敗れ、板倉重昌は戦死。
          *幕府軍の戦死者4000人、一揆側は100人足らず。
  ・1月4日  松平信綱が着陣し、幕府軍の指揮をとる。九州・四国諸藩あわせて
         12万余りの兵で兵粮攻めを行う。信綱、平戸のオランダ商館長に命じ、
         オランダ船に原城を砲撃させる。

【Q2】このことは単に軍事面以外で、一揆勢にどのような効果があるか?
     ↓
 (a)
自分たちが信仰しているキリシタンの国(オランダ)の船から砲撃を受けるので、
   一揆勢は絶望するであろう、ということ。
(その後砲撃は大名たちの反対で中止)


  ・2月  一揆勢の食糧が尽きる。
  ・2月27・28日 幕府軍の総攻撃で一揆勢の多くが惨殺される(乱鎮圧)。

2 一揆勢は全員熱心なキリシタンだったのか?
 最終的に原城跡に籠もった一揆勢3万人は、全員キリシタンだったのだろうか。籠城
 中の寛永15年1月21日付けで、幕府軍から一揆勢へ放った矢文(投降を促す)の一部
 には「今度籠城を致し候者の内、志これなき者を焼き討ち致し、妻子を人質に取り、無
 理に貴利支丹となし、迷惑ながら城中におり申し候者多き候由」
となる。
【Q3】ここからわかることは?
     ↓
 (a)焼き討ちされたり、妻子を人質にとられたりしたため、やむなく参加させられたらしい
   人もいたらしい
ことがわかる。(ただし幕府側の主張なので注意は必要)実際原城跡
   から逃げ出す人々もいて、彼らがこの矢文の内容と同様のことを証言していたことは、
   別の記録からわかっている。百姓は当時村単位で行動していたので、村としてキリシ
   タンへの立帰が決まると、個人としてこれに反する行動は原則としてとれなかった。

   らに幕府軍にも多くの百姓が動員されており、この乱を単純に武士対百姓の戦いとと
   らえることはできない面がある。

3 領主による悪政(重税賦課)はあったのか
 一揆側は天草の村に味方になるよう勧誘した際、「キリシタンにならないなら皆殺しにする」
と述べているので、これによると蜂起に重税賦課は関係ないようにも思われる。
 しかしその一方で、佐賀藩や熊本藩の史料によると、一揆が起きた原因は「島原藩では年
貢を納められない者に対し、(家族である)女を水攻めの拷問にかけたりした」ためとあり、や
はりいきすぎた政治が行われ、それが蜂起の一因だったことは事実のようである。

※重税賦課の背景(島原藩の場合)
  領主松倉氏は幕府への忠勤を示すため、実際の石高は4万石なのに、普請などの際に10
  万石の役を勤めたい、と自ら申し出ていた。この負担増の部分は、当然農民への年貢増徴
  につながっていった。
【Q4】松倉氏が重税をかけるようになった背景には、一連の鎖国令も関係していた。それはどう
   いうことだと思うか?
     ↓
 (a)松倉氏は朱印船貿易に参加し、それなりの利益を得ていたが、鎖国令によりそれが断た
   れたため。
 

4 キリシタン弾圧と厳しい政治(重税賦課)との関係
 ※いったんキリスト教を棄てた人々の後悔
   かつては本気で信仰していたキリスト教を、幕府の命令でいったんは棄てたわけなので、
   彼らの多くには「棄ててしまったけど本当にこれでよかったのか?」という後悔の気持ち
   があった。
【Q5】その後悔の気持ちを「やはり〜」と強めさせてしまったできごとが乱の前に起こっている。
   それは何か、冒頭の乱の経過に戻って探してみよう。
     ↓
 (a)寛永11〜13年にかけて飢饉が起こったこと。「あぁ、自分たちが信仰を棄ててしまった
   ばっかりにこんな不幸なことが起きてしまった!」と考えたようである。
 ※「信仰」=「経済」?
     考えてみれば、中世以来一揆は、神仏に心のよりどころを求め、その前で団結を
     誓っていた。そうした雰囲気が未だに残るこの時代、地域的な特性(キリシタン大名
     有馬氏や小西氏の旧領だったこと)から、たまたまそれがキリスト教だった、ととらえ
     ることができるかもしれない。「伴天連」と呼ばれた指導者がいなくなり、切支丹、つ
     まり信徒は現世的な利益(百姓としての生活の保障)を求めて、キリスト教にすがった
     のではないか。信仰と経済は、必ずしも別物ではなかったのである。しかもそのキリス
     ト教をすべての者が強いよりどころにしたわけではなかった点に、信徒による非信徒
     への改宗や立帰を強制が行われた理由があったと思われる。

5 幕府側のねらい
 松平信綱は、一揆勢のうちキリシタンでない者には寛大な処置をとろうとした。これは幕府
 にとって処罰すべきはあくまでも禁止されたキリシタンであって、そうでないのに無理に一揆
 に参加させられた者は罪がない、正統な全国統治者としての将軍がそうした無慈悲なことを
 すべきではない、
という判断にもとづいている。
 しかし結局、一揆勢はこの信綱の処置を拒否したため、最終的に幕府軍は非キリシタンも含
 めた多くの一揆勢を殺すこととなってしまった。
 
 ・寛永15年4月 島原領主松倉重家は森内記に預けられ、唐津藩主(天草は同藩領)寺沢広
           高は天草領を没収される。→後に広高は自害。
        7月 松倉勝家、「常々不作法もあまたこれあるによって」との理由で死罪を申しつ
           けられる(通常は名誉を重んじ切腹だが、斬首だったとの説もある)。
  ※実は乱直後の信頼できる史料には、2人の悪政を問題にしたものは、あまり見られない。
    むしろ時間が経過するほど、幕府はこれを強調するようになっていった。それは、この
    一揆を純粋なキリシタン一揆として終わらせることに失敗したため
、とされている。

※参考文献
 ・煎本増夫『島原の乱』(教育社、1980年)
 ・神田千里『島原の乱』(中央公論新社、2005年)
 ・大橋幸泰『検証島原天草一揆』(吉川弘文館、2008年)