日本史探究 深読み日本史番外編R6-2


               遣唐使の実像を探る


☆そもそも遣唐使とはどのような使節だったのか?あるいはその航海にどのような苦難があったのか。
  また、250年にも及ぶ事業の中で、性格の変化は見られなかったのか?さらには旅の苦難とは、ど
  の程度のものだったのか。

1 遣唐使の構成
   遣唐使は8世紀以降、総勢約500人(船は4隻)で構成されていたが、それらは大きく次の4グループ
   に分けられる。
   @使節:大使(四位クラスの官僚から選ばれる)、副使、判官、録事、史生(しせい、書記)と従者
   A船員:全体の半数以上を占める。 一般民衆から徴発され、無事帰還すると、すべての税が免除された。
   B技手:神主、医師、画師、射手(警護官か)、陰陽師(おんみょうじ、天文や気象観測を担当)、さまざまな特殊技術の研修生など
   C留学生:中国学を学ぶ者と僧侶。それぞれ長期と短期に分かれていた。

【Q1】これらのうち最も高額な手当てをもらったのはもちろん大使だが、二番目は副使とあと一人、どのような立場の人か?
       ↓
   長期留学生。日本で学んだ成果をいかしてほしいという政府の強い願いが込められていた。

2 遣唐使の性格の変化
   図説P66の[1]遣唐使・関係者一覧の表で
   1〜4回目の使節派遣は、日本と唐が対立をはらみながらお互いの腹を探り合いつつ行われた。
   4回目の直後に白村江の戦いが行われた。そのため、5〜7回目の使節は、その戦後処理が主な課題となった。

   8世紀以降、日中関係はきわめて友好的になり、以後平均して9年に1度のペースで遣唐使が派遣された。

3 大使になる人の変化
   大使になる人は、7世紀までは犬上、高向など渡来系の中小氏族が多かった(実務型)が、8世紀以降は巨勢(こせ)
   大伴、平群(へぐり)などヤマト政権成立以来の名族が中心となっていった。この変化は、唐文化が8世紀には日本の
   上流貴族の間にも広がったため、彼らの中から大使にふさわしい人を選ぶようになったことを示している。

【Q2】しかし、皇族だけは大使の人選から除外された。それはなぜか?
              ↓
   皇族が行って、中国皇帝の臣下として扱われてしまうことを避けるため、と考えられている。このことから見て、日本
   側の本音は、唐に臣下扱いされたくない、ということだったと推測できる。

4 旅の苦難
【Q3】すべての遣唐使の中で、無事に日本へ戻れた人数の割合はどれくらいだったと思うか?
           ↓
    約60%。例えば天平5年(733)第10次遣唐使は4月に帰国の際、悪風のため4隻の船はバラバラとなった。
   ・第1船(大使)
     いったん中国南部に吹き返され、11月後半種子島にたどり着く。
   ・第2船(副使)
     東南アジア海域へ流される。735年3月中国の広州に戻る。唐の玄宗皇帝に願い出て、翌年5月以前に帰国。
   ・第3船(判官1)
     今のベトナムに漂着。現地人に襲われ、病死者も出て生き残ったのは4人のみ。玄宗皇帝の計らいで739年
     に帰国できた。
   ・第4船(判官2)
     出発後にまもなく沈没。

《参考文献》
・東野治之『遣唐使』(岩波書店、2007年)
・  同   『遣唐使船−東アジアの中で』(朝日新聞社、1999年)
・青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』(中央公論社、1965年)