武士が力をもってきた世の中(鎌倉、室町、戦国時代)


                              ※見たいテーマの番号をクリックしてね!

                    
 鎌倉幕府はいつできたか?
                    
2 承久(じょうきゅう)の乱に幕府は圧勝した?
                    
 鎌倉幕府と御家人の関係
                     鎌倉大仏をつくらせたのは誰?

                    
 御家人は美人がきらいだった!? 
                     都市鎌倉のすがた(その1)

                    
 都市鎌倉のすがた(その2)
                    
 お寺と日本人の生活
                     元(げん)のモンゴル兵は少数だった!

                    
10 竹崎季長(すえなが)に見る鎌倉武士の意地
                    
11 海水が突然引いたわけは?−新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻め−
                    
12 足利氏が幕府を開けたわけ
                    
13 中世武士の手紙
                    
14 義満が大名を統制できたわけ
                    
15 金閣寺は「氷山の一角」?
                    
16 一休さんはどんな人だった?
                    17 足利義政の夢は引退だった

                    
18 室町時代 さかんだった話しあい
                    
19 戦国大名は本当に強かった?
                    
20 戦国時代の農民の危機管理(ききかんり)
                    21 戦国大名と「はんこ」
                    22 中世のお城の話(その1)
                    23 中世のお城の話(その2)

                    
24 世界に知られた足利学校とは





                                   ※イラストはすべて関口たか広先生の作品です。


 鎌倉幕府はいつできたか? 
  ☆なるほどクイズ
   
(1)頼朝は1192年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されました。ではいつまで将軍だった?

     @2年余りでやめた   A死ぬ1年前まで   B死ぬまで(1189年)
  答は?(クリック)

   
(2)次のうち、頼朝について誤った説明は?(1つ)

     @平氏だけではなく、一族の木曽義仲(きそよしなか)とも争った。
     A東国の支配を固めようと、なかなか京都へ行かなかった。
     B武士たちだけで幕府をつくった。
     C弟の義経と対立、ついに奥州(おうしゅう)で討ち果たした。
   答は?

  
☆せつめい
     
皆さんの中には「1192年に源頼朝が征夷大将軍に任命されたことによ  
    って、鎌倉幕府ができた」と思っている人も多いでしょう。すなわち、幕府
    には将軍がつきものだ、ということになります。

     でも、ある系図によると、頼朝は2年余りで将軍をやめています。で、そ
    の時、幕府はなくなったかといえば、そんなことはありませんよね。つまり
    幕府は、1192年以前から実質的にはあったことになります。
     では、それはいつからかというと、
     @1180年(侍所ができた)
     A1183年(東日本に対する頼朝の支配権が朝廷から認められた)
     B1184年(政所、問注所ができた)
     C1185年(頼朝が全国に守護、地頭を置くことを朝廷から認められた)
    などの説があり、学者の意見はまとまっていません。これは幕府が、今の
    役所や会社のように、「今日から始めます」などと宣言してできたわけで
    はないからです。
     次第に勢力をひろげていった頼朝が、必要に応じていろいろな役所を
    つくり、それを担当する武士を割り当てていき、それがいつしか全体とし
    て幕府と呼ばれるようなしくみになっていったのです。ですから、その途中
    のどの時点を重くみるかによって、成立の時期が違ってくるわけなのです。


 承久(じょうきゅう)の乱に幕府は圧勝した?
  ☆なるほどクイズ
  
(1)承久の乱の時、はじめに幕府がたてた作戦は?
    @鎌倉から朝廷のある京都へ攻めていく。
    A鎌倉から美濃(みの、今の岐阜県)まで進み、京都からの兵を待ちかまえる。
    B箱根(神奈川県)で鎌倉を守る。
                   
答は?

  
(2)鎌倉時代のはじめ、東日本15ヵ国には2000人あまりの御家人がいました。では同じころ、播磨(はりま、今の兵庫県)
    の御家人の数はズバリ何人? 
  答は?

  
(3)西日本の武士が御家人になる時、あるものをまとめて幕府に提出しました。それは?

     @年貢の一部    A名簿(めいぼ)   B刀 
  答は?

   ☆せつめい
      承久3年(1221)、朝廷は政治の実権を取り戻そうと「鎌倉幕府を討   
     て」と全国に命令しました。これを承久の乱と言います。

      戦いは、死んだ頼朝の妻、北条政子の呼びかけもあって、結果的に
     はすぐに幕府方が勝って終わりました。しかし幕府ははじめ、朝廷を敵
     にまわした戦いに消極的でしたし、宇治川(京都府)の戦いでは、大将
     の北条泰時(やすとき)が一時、敗北を覚悟したこともありました。
      これほど幕府軍が苦戦した理由の1つに、朝廷側について戦った武士
     が意外と多かったことがあげられます。実は、すべての武士が御家人
     (将軍の家来)になったわけではありませんでしたし、同じ御家人でも京
     都周辺の人々は、朝廷からも所領をもらったりしていたのです。
      また、朝廷が敗れたとはいっても、実際に力を失ったのは、後鳥羽上
     皇(ごとばじょうこう)とその側近たちだけでした。したがって、この後す
     ぐに幕府の力が広く西日本に及んだわけではなく、そのきっかけとなっ
     た、とみるべきでしょう。 


 鎌倉幕府と御家人の関係
  ☆なるほどクイズ
   
(1)鎌倉時代には「牢獄(ろうごく)の前に遺体(いたい)があっても、〜なければ捜査(そうさ)しない」と言われました。〜とは?

     @遺体が御家人で  A誰かが訴え  B将軍の命令が
  答は?

   
(2)幕府のきまりでは、5月や10月には武士の裁判をしませんでした。なぜ?
    
※ヒント:このころ忙しいことと言えば?   答は?

   
(3)親思いで幕府にも忠実な兄と、父親から正式な遺言書(ゆいごんしょ)をもらった弟が、領地をめぐって裁判になりました。
     裁判に勝ったのはどちら? 
  答は?

  ☆せつめい
     
鎌倉時代に幕府がつくったきまりは、朝廷のものとは異なり、武士たち   
    がそれまでにつくりあげてきたルールに基づいたものであり、彼らの社会
    においては、とても理にかなった内容をもっていました。

     しかし、今と比べると、きまりの数は少なく、また内容も簡単なもので、
    幕府自身がいつどんなきまりをつくったか、しっかりと記録していなかっ
    たようです。そのため裁判をおこす人は、何と自分できまりを探して幕府
    に提出しなければならなかったのです。
     「いざ鎌倉」という言葉から、御家人は幕府の強い支配を受けていると
    思っている人も多いでしょう。確かにそういう面もありますが、実は幕府
    は、御家人の家の中の問題には、ほとんど口出しできませんでした。それ
    ほど
家の主人の権限は強かったのです。
     ただ幕府としては、ある御家人の家から税を出させる場合は、一族全
    員にではなく、当主にだけ命じればよかった(当主が一族の割り当てを決
    めて集めるから)ので、役人の人数が少なくても治めることができました。


 鎌倉大仏をつくらせたのは誰?
  ☆なるほどクイズ
   
(1)鎌倉大仏の高さは、奈良の大仏の?
    
     @おなかぐらい  Aあごの下くらい  B目の高さくらい
  
答は?

   
(2)鎌倉大仏は、はじめ木でつくられた。これ、本当?  答は?

   
(3)鎌倉大仏がおさめられていた建物は?
 
     @もともとなかった  A戦争で焼けた  B津波で流された
  答は?

  ☆せつめい
     
奈良の大仏と並んで有名なのが、鎌倉・長谷(はせ)の大仏です。しかし  
    意外なことに、この大仏については、詳しいことはよくわかっていません。

     1238年に1人の僧が大仏をつくることを思い立ち、人々に寄附を集めま
    した。鎌倉時代の仏教は、より多くの庶民に信じてもらおうと努めていて、
    わずかな額でも寄付をするのが仏を信じることにつながる、と説いたので
    す。聖武天皇の命令によってできた奈良の大仏とは、つくられたいきさつ
    がだいぶ違いますね。
     ところで、数年後に完成した大仏は木造だったので、今の金銅製の鎌
    倉大仏とは別のものです。今見られるものは、1252年からつくられ始めた
    もの、という説が有力です。この時も、庶民からの寄付がありましたが、幕
    府も造営を支援し、中国との貿易で得た利益を費用にあてたという記録
    も残っています。
     修学旅行などで見学する予定のある皆さんは、ぜひ行く前に調べてみ
    てください。


 御家人は美人がきらいだった!?
  ☆なるほどクイズ
  
(1)武士の館(やかた)にある馬小屋には、猿がつながれていることがあります。これは何のため?

    @武士のペット  A馬の魔除(まよ)け  B馬の退屈しのぎ
  
答は?

  
(2)武蔵(今の埼玉県)の武士、男(おぶすま)三郎は、わざわざ関東で最もみにくいという評判の娘をさがして妻にしたそうです。
    いったいなぜ?
    
※ヒント:奥さんがあまり美しいと… 
   答は?

  ☆せつめい
     多くの武士は、自らの所領の中で最も土地の肥(こ)えた場所に館を構   
    え、ふだんは農業をしていました。館の周りを堀で囲み、土を盛ったり、板
    べいをめぐらして敵に備えていました。門の上にはやぐらが組まれ、そこで
    家来が番をしていたのです。室内は板敷きで、畳(たたみ)は一部にしか
    用いられておらず、質素な暮らしぶりでした。

     鎌倉幕府の御家人であれば、その所領は幕府が守ってくれるのが建前
    でした。しかし、実際には自分たちの力で守らなければならず、常に戦いに
    備えた生活をしていたのです。それは、大げさに表現されてはいますが、武
    蔵の武士、男三郎
の妻の選び方にもあらわれています。
     「いざ鎌倉」という言葉があるように、御家人たちは幕府の軍事命令に従
    わなければなりませんでした。また、税を負担する義務もありました。
     しかし、それ以外の多くのこと、例えば領内の支配とか、御家人一族内部
    の問題については、幕府は口出しをしないのがルールでした。御成敗式目
    (鎌倉幕府が定めた基本的な法令集)などを強く意識しながらも、自分の領
    内だけに適用する法律を作っていた御家人もいたのです。


 都市鎌倉のすがた(その1)
  ☆なるほどクイズ
  
(1)幕府があった鎌倉には、全国の御家人の屋敷があった。これ本当?
  
答は?

  
(2)最高権力者であった北条家当主の屋敷の広さは?

    @教室の20倍  A教室の60倍  B教室の130倍
  答は?

  
(3)鎌倉から掘り出されるもので、意外に少ないものとは?
    
※ヒント 武士が集まる都市なのに…                 答は?       

  ☆せつめい
     
源頼朝は、5代前の頼義以来、源氏と関わりの深い鎌倉の地に幕府を開
    きました。ここは南が海、それ以外は山で囲まれ、守るにはとても有利な地
    形でした。


     
攻め込むためには、山をけずってつくられた狭い道を通らなければならず、
    攻撃は難しかったのです。ある貴族が日記に「鎌倉城」と表現しているように、
    都市全体が1つの城のようなしくみになっていました。

     
さて近年の発掘によって、鎌倉に住む、とても地位が高いとみられる武士
    の屋敷のつくりがわかりました。イラストに描いたこの屋敷の広さは、皆さん
    のいる教室の約60倍ほどありました(ふつうの武士の屋敷は教室の約7倍)。

     
なぜこのようになっていたことがわかるかというと、建物のあった場所に
    は、柱を立てた穴が規則的な間隔であいていて、さらにその全体的な大きさ
    や、まわりから出土するものから推測できるのです。たとえば、おわんや皿な

    
どが見つかれば、その建物は人がふだん生活していたところと考えられます。
     少し後の時代に描かれた絵も大切な資料ですが、発掘調査は絵だけでは
    わからない貴重な情報を教えてくれるのです。



 都市鎌倉のすがた(その2)
  ☆なるほどクイズ
  
(1)鎌倉時代終わりごろの鎌倉の人口は?

    @5000人くらい   A1万人くらい   B8万人くらい
  答は?

  
(2)人が多く住むようになった鎌倉で売れた商品で、今でも海岸寄りの地名としても残っているものは?
    
※ヒント 地図でさがしてみよう  答は?

  
(3)鎌倉の海岸近くにある和賀江(わがえ)島は、島全体が何だった?

     @城   A港   B水田
  答は?              

  ☆せつめい
     
幕府がおかれた鎌倉には、前回紹介したように、東日本のおもだった御
    家人たちが屋敷をもち、たくさんの武士が住むようになりました。

     
しかし、実は鎌倉には、何も武士だけが住んでいたわけではありません。
    お寺や神社がたくさんあって、多くの僧や神主たちがいましたし、また一般
    庶民も5万人くらい住んでいただろうと考えられています。彼らの多くは、武
    士や僧、神主たちに必要ないろいろなものを作ったり、売ったりして生活して
    いたのではないでしょうか。

     
現在のJR鎌倉駅を出て、鶴岡(つるがおか)八幡宮に通じる若宮大路(わ
    かみやおおじ)という道にぶつかったあたりは、武家屋敷ではなく、そうした
    庶民が住んでいたところだったことが、発掘調査によってわかりました。この
    あたりの柱の穴は、武家屋敷跡のものと比べるとそまつでしたが、下水道施
    設なども作られていたようです。進んでますね。

     
当時の法律からは、物の売り買いがとてもさかんだった様子がうかがえ
    ますから、鎌倉はとてもにぎやかな町だったのでしょうね。



 お寺と日本人の生活
  ☆なるほどクイズ
  
(1)鎌倉時代、お寺で食べられていた「まんじゅう」は塩味だった。これ、本当?  答は?

  
(2)栄西という僧が、中国から病気を治すためのものとして持ってきたものとは?

    
@お茶   A牛乳   Bお酒  答は?

  
(3)その他、鎌倉時代にお寺などから広まった習慣とは?
    
※ヒント あ〜疲れがとれるね  答は?

  ☆せつめい
     今でも皆さんの生活にかかせないことの一部は、実は鎌倉時代のお寺で    
    行われていたことから広まったものなのです。

     たとえば1日3度の食事は、それまで基本的に2度だったのが、お寺でその
    間に1度、めん類やもち、ようかんのようなものを軽食としてとったことが起こ
    りとされています。
     またお茶は、お寺で庶民に病気を治す薬として飲ませたり、あるいはお茶
    に含まれるカフェインには、精神を緊張させる作用があったので、お坊さんの
    修行の時に用いたりしていました。
     さらにお風呂は、今のサウナのようなもので、お坊さんが修行の時にから
    だを清めるために入ったほか、庶民にも汚れを落としたり、病気を治す目的で
    開放しました。
     このころの仏教の指導者たちは、よりたくさんの人々に信じてもらおうと考
    えていたので、教えそのものだけではなく、人々の日常生活に役立つようなこ
    とにも貢献していました。それらがやがて、庶民たち自身によって行われるよう
    になっていったのです。


 元(げん)のモンゴル兵は少数だった!
  ☆なるほどクイズ
  
(1)竹崎季長(たけざきすえなが)という武士が描かせた蒙古襲来(もうこしゅうらい)に関する絵巻物には、元軍兵の顔色が黒かったり、白か
    ったりさまざまに描かれています。これは何を示しているんだろう?

   
※ヒント 元はモンゴルだけではなく、中国や朝鮮も支配していました。  答は?

  
(2)元は2度、日本を襲いました。この後、3度目の遠征も計画していた、というのは本当?  答は?

  ☆せつめい
     
鎌倉時代の後期、2度にわたって元軍が日本を襲いました。これを元(げ   
    
んこう)と言います(あるいは蒙古襲来〈もうこしゅうらい〉)。2度とも暴風雨に
    
見舞われたり、御家人たちが奮戦したために、遠征は失敗に終わったとされて
    います。しかし、この失敗、実は元軍側にも大きな原因があったのです。


    
 元軍の中心はもちろんモンゴル兵でした。しかし、その数は全体の1%にも満
    たず、ほとんどは大陸でモンゴルに滅ぼされたり、従った国々の人たちだったの
    です。

     
こうした人々に日本を攻める強い意志は、ありませんでした。元軍の指揮官た
    ちも、かつては敵味方に分かれていましたから、命令がうまく伝わらなかったの
    です。

   
  このことは、元の皇帝フビライもあらかじめ予想していました。出発にあたり、
    指揮官たちに「私が最も心配するのは、皆が仲間割れをすることである」と呼び
    かけていたほどです

  
   モンゴルに従った朝鮮の人々は、日本へ行くための船を大急ぎでつくらされ、
    多くの民衆が苦しみました。このため船の造りは十分ではなく、文永の役(最初
    の襲来、1274年)の時は、それほどの暴風雨でもないのに多くの船がこわれて
    しまったのです。


10 竹崎季長(すえなが)に見る鎌倉武士の意地
  ☆なるほどクイズ
  
(1)竹崎季長が元軍と戦った時に率(ひき)いた騎兵(馬に乗った兵士)の数は?

    
@4騎    A40騎    B400騎  答は?

  
(2)このころ、いくさにおける最も大きなてがらとは?
    
    @敵の様子をさぐって大将に知らせる A敵の首をとる B奮戦して討ち死にする
  答は?

  
(3)九州の武士竹崎季長は、鎌倉へ行くための費用をどうやってつくった?

    @近くの武士に借りた Aためていたお金を使った B馬や鞍(くら)を売った
  答は? 

  ☆せつめい
     
肥後(今の熊本県)の武士・竹崎季長は、「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえ  
    ことば)を残した人です。ここには、元軍との2度の戦いにおける季長の活躍だけ
    ではなく、わざわざ鎌倉まで出かけて、自らのてがらを訴えた様子が詳しく絵と
    文章で描かれています。

     
季長は1度目の戦いの時、わずか4騎の家来しかいませんでしたが、一番初め
    に敵と戦うてがらをたてました。ところが、このことが幕府に伝わらなかったこと
    を知って、自ら鎌倉まで出向くことにしたのです。はじめ、みすぼらしい姿の季長
    らは相手にされませんでしたが、やがて安達泰盛(あだちやすもり)という、今で
    言えば大臣にあたるような人に面会することができました。

     
季長は、とにかく一番駆けのてがらを認めてほしいと、物おじせずに堂々と泰
    盛に訴えました。泰盛はその姿に心うたれ、しばらくしてほうびの土地を与える
    という将軍からの手紙を渡し、さらに季長に自らの馬や鞍まで与えたのでした。
     この後、季長は2度目の戦いにも参加し、その約10年後に泰盛への感謝の気
    持ちをこめて絵詞をつくりました。

     
この絵詞のおかげで、私たちは元軍との戦いの具体的な様子や、厳しい状況
    の中で必死に生き抜こうとした武士の姿を知ることができるのです。



11 海水が突然引いたわけは?−新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻め−
  ☆なるほどクイズ
  
(1)上野国(こうずけのくに、今の群馬県)西部で挙兵した新田義貞軍が、そのまま南下せず、西へ遠回りしたわけは?

   @直接南へ向かう道がなかった A利根川を安全に渡ることを考えて Bはじめ兵に戦う気がなかった
  
答は?

  
(2)新田軍が鎌倉へ突入するために選んだのは?

     @敵の多い山あいの道   A文に敵の船が浮かぶ海岸沿いの細い道
  答は?

  
(3)鎌倉幕府が倒れて3年後、北陸地方は寒冷で、多くの兵が凍死(とうし)しました。このころ本当に寒かったことを今に
    伝えるものとは?
    
※ヒント その当時から今も「生き続けているもの」のある部分を調べると…  答は?

  ☆せつめい
     
鎌倉幕府を倒す時に活躍した武将の一人に、上野国西部に勢力を広げてい   
    た新田義貞がいました。元弘3年(1333)5月に兵を挙げた新田軍は、途中で
    何度か幕府軍と戦って勝ち進みます。

     鎌倉に迫ったころには、新田軍には一族のほかにも北条氏に不満を持つ関
    東地方の多くの武士たちが加わっていました。しかし、鎌倉は南が海、他三方
    は山に囲まれた土地だったし、幕府軍の守りもかたく、さすがに新田軍も容易
    には攻められません。
     義貞は、稲村ヶ崎という海岸沿いの細い道を進もうと決断します。『太平記』
    という書物には、この時、義貞が海に向かって自らの太刀を投げ入れ、海水が
    遠くへ引くように祈ると、本当にそのとおりとなり、進軍することができた、と
    あります。
     科学的に調べると、義貞は干潮(かんちょう)の時を見計らっていたのかもし
    れません。また近年の研究では、この時期、地球全体が寒冷化していて、ふだん
    より海水面が低かったとも指摘されています。

12 足利氏が幕府を開けたわけ
  ☆なるほどクイズ

  
(1)「尊氏を生んだ足利家とは、まったく血のつながりのない足利家があった」これ、本当?  答は?

  
(2)鎌倉時代末ごろの足利氏の所領は何カ国に及んでいた?

    
@3ヵ国  A10ヵ国  B17ヵ国  答は?

  (
3)足利尊氏とつながりの深かったある僧は、尊氏をどんな人と評した?

    @心が広い人  A疑り深い人  B意外とおくびょうな人
  答は?

  ☆せつめい
     
鎌倉幕府が倒れた後、後醍醐(ごだいご)天皇を中心とした政権ができまし   
    たが、ほうびの少なかった武士たちの不満が高まって、わずか2年で終わり、か
    わって足利尊氏が、対立する勢力を破って幕府を開きます。


     
では、多くの武士たちの中で、なぜ足利氏が政権を握ることができたのでし
    ょうか? 
     まず1つ言えるのは、足利氏が頼朝と同じ源氏一族であり、鎌倉時代におい

    
て北条氏に次ぐ高い地位と勢力を持っていたことです。所領は17ヵ国、35ヵ所
    にも及びました。足利氏はこれらを経営するための役所を鎌倉において、家臣
    たちを3グループに分けて支配させていました。まるで小さな幕府ですね。
     また、北条氏との関係にも気を配りました。一族の娘を妻にもらったり、北

    
条氏当主の名前の一字をもらったりしています(尊氏ははじめ高氏と名乗って
    いましたが、この「高」は北条氏当主の高時からもらいました)。

     
それでも何回か危機はありましたが、これを切り抜け、幕府が倒れた時には、
    
御家人たちの圧倒的な支持を得ていました。おまけに尊氏という人は、武具や
   
 馬などを気前よく配下の武士たちに与えたので、とても人気があったのです。


13 中世武士の手紙
  ☆なるほどクイズ
   
14世紀前半、今の東京都日野市に本拠のあった山内経之(やまのうちつねゆき)という武士について、
  (1)
大将からの命令で戦いに出ることになった経之、食料はどうした?

   @大将から支給された A途中で奪い取った B自分の領地から送ってもらった
  答は?

  
(2)戦いの途中で休暇(きゅうか)をとることができた。これ、本当?  答は?

  
(3)戦いの途中で起きた困ったこととは?

   @道に迷った A連れてきた兵士が逃げた B食料がなくなり、戻らなくてはならなくなった
  答は?

  ☆せつめい
     
鎌倉幕府が倒れた後も、数十年にわたって戦乱が続きました。こうした状況  
    の中で、戦いの最前線に立った下級武士たちは、どのように生き抜いていったの
    でしょうか。

     こうしたことがわかる史料はほとんどありませんが、東京都日野市にある高
    幡山金剛寺(たかはたさんこんごうじ)の仏像の中から、近くの武士山内経之の
    手紙がたくさん見つかりました。これらを読むと、経之は大将の命令で戦いに出
    ることになったのですが、それはそれは大変な苦労であったことがよくわかるの
    です。
     たとえば合戦のための費用は、年貢が思うようにあがってこないので、かなり
    足りませんでした。このため、まわりの武士やお寺などから借りたりしましたが、
    それでも足りず、ついには領地の一部を売らなければなりませんでした。この時
    代、領民たちの抵抗は、すでに相当強いものだったようです。
     なぜ、こんな苦労までして経之は戦ったのでしょうか。どうやら、彼は領地を
    めぐって裁判を起こしていて、それを裁いてくれる室町幕府がつかわした大将の
    命令に従うべきだと考えていたらしいのです。



14 義満が大名を統制できたわけ
  ☆なるほどクイズ
  
(1)足利義満は4歳の時、外出先で見た美しい景色が気に入り、家来に何と言った?

   @「この美しさを父に伝えよ」 A「この景色を絵に描け」 B「これをこのまま京都に持っていけ」  
答は?

  (2)義満の母方の6代前の有名な人物とは?

   @後鳥羽上皇(ごとばじょうこう) A源頼朝  B平清盛  
答は?

  (3)各地の守護大名を従えるため、義満がやったこととは?

   @大名たちにお金を与えた A諸国をまわってプレッシャーをかけた B天皇に頼んで、従うよう命令してもらった 
      
答は?

  ☆せつめい
     
室町幕府3代将軍となった足利義満は、諸大名の争いの中で幼い時期を過ご   
    しました。このころの経験が将軍になってからの大名統制に役立ったようです。

     公家たちをも従えたのは、すごいスピードで出世したためだけではありません。
    経済的にも彼らを圧倒し、また朝廷側の力の最後のよりどころだった京都の支配
    権を、幕府が握ってしまったことも大きな原因でした。
     さらに義満は、それまで不十分だった、将軍に直接従う武士の数を3000人に
    増やしました。これは、一大名が京都に率いてくる一般的な人数の10倍にあたり
    ます。
     こうした強大な力を持って、義満は諸大名を統制しました。有力な大名による
    反乱が何度も起こりましたが、義満は一族どうしで仲間割れをさせたりして、うま
    くこれらを抑えていったのです。
     長年の問題であった天皇家の分裂も終わらせたほか、2人の子を将軍と天皇に
    して、自分は法皇(ほうおう)という立場で日本全体を治めようと考えていたよう
    です。
     しかし、そのことが実現しようとした時、突然亡くなってしまいました。


15 金閣寺は「氷山の一角」?
  ☆なるほどクイズ
  
(1)「金閣寺は、屋根以外、すべて金でおおわれている」これ、本当?  答は?

  (2)金閣寺の3階部分におさめられたものとは?

    @義満の髪の毛  Aお釈迦(しゃか)様の骨の一部  B金のかたまり  
答は?

  (3)金閣寺やまわりの建物をつくった費用は、今のお金にすると?

    @10億円以上  A100億円以上  B1000億円以上  
答は?

  ☆せつめい
     
金閣寺は、室町幕府三代将軍足利義満がつくらせた北山殿(きたやまどの)   
    にあった、たくさんの建物のうちの一つでした。北山殿は、義満の別荘ともいわ
    れていますが、実はここで政治をとっていたのです。
図面が残っていないので詳
    しいことはよくわかりませんが、朝廷の建物である御所(ごしょ)を意識した建物
    がいくつもつくられ、その豪華さは極楽のようだった、といわれました。

     義満は、この北山殿に中国の使節や天皇を招いたり、上級貴族の元服式を行
    い、自らの名前の一字「満」を与えたりして、まさに最高権力者として振る舞いま
    す。彼が出家して僧になったのも、武家や公家などという身分の違いにとらわれ
    ることなく、それらすべてのものの上に立つ存在になろうと考えたために違いあり
    ません。金閣の一階部分と二階、三階部分の様式が異なるのも、そうしたことと
    関係があるという説もあります。
     義満の死後、お寺となり、金閣を除く他の建物は、残念ながらその後の戦乱に
    よって焼けてしまいました。なお、金閣も今から約60年前に焼失しましたが、もと
    の形に忠実に再建されました。


16 一休さんはどんな人だった?
  ☆なるほどクイズ
  
(1)一休さんのお父さんは?

     @天皇   A武将   B庶民 
 
答は?

  (2)少年時代の一休さんと足利義満とは?

    @本当に会った A会った確かな記録はない B義満の死後に活動しており、会っていない。  
答は?

  (3)一休さんが亡くなる前に何と言った?

    @いい一生だった  Aあとは任せたぞ  B死にたくない  
答は?

  ☆せつめい
     
昔から頓知(とんち)話が有名で、テレビアニメにもなった一休さん。はたして本   
    当は、どのような人だったのでしょうか?

     一休宗純(そうじゅん)は、室町時代の初めに生まれました。京都のいくつかの
    お寺で修行を重ねますが、このころからちょっと代わったふるまいを見せるように
    なります。たとえば、僧たちが出世だけを願うような話をしていたところから、耳
    をふさいで出て行ってしまったり、何よりも重んじられていた印可状(いんかじょう、
    師匠が弟子に与える、仏教の教えを理解したと認める証明書)を焼き払ってしま
    ったこと、などなど。
     一休宗純は、自ら大徳寺住持という高い地位につくのですが、その一方で、当
    時の内容のともなわない、形や権威ばかりにこだわる仏教の関係者たちを厳しく
    非難していたのです。
     そのため彼は、このころ成長してきた都市の商人たちや、東山文化を担った文
    化人たちに大きな影響を与えました。こうした人気が、江戸時代になって「一休頓
    知話」がつくられた背景となったようです。 



17 足利義政の夢は引退だった
  ☆なるほどクイズ
  
(1)大名たちが言うことをきかないので、足利義政がいつも身につけていたものとは?

    @刀  Aお守り  Bお金  答は?

  (2)義政のころにはお茶を飲むことがはやりました。このお茶、いつ日本へ伝わった?

    @平安時代  A鎌倉時代  B室町時代  答は?

  (3)このころ、家臣が主人の地位をおびやかすようなことも増えてきました。このことと関係するものとは?

    @能  A床の間  B生け花  
答は

  ☆せつめい
     
義満の孫、足利義政が八代将軍となった15世紀後半、幕府の政治は大いに乱  
    れていました。有力大名たちは将軍の命令もきかず、大きく2つのグループに分
    かれて、10年余りの戦いを続けました。応仁(おうにん)の乱
です。

     このため義政は政治にいやけがさし、反対に妻の富子は積極的に大名たちの
    争いに関わって、お金と権力を集めることに熱中したのです。
     戦いが終わった後、既に将軍職を子にゆずっていた義政は、おだやかな隠居生
    活を送るため、京都東山に山荘をつくり始めました。その建物(慈照寺・じしょうじ)
    の1つが銀閣です。しかし費用の調達が思うように進まず、山荘全体が完成する
    前に、義政は死んでしまいました。
     義政はこの山荘を中心とした、落ち着いた文化をつくりあげました。なかには、
    書院造りや生け花、お茶など、今日までずっと伝えられてきたものも少なくありま
    せん。
     こうした文化が公家や武士、お寺や神社だけではなく、広く一般庶民に受け入
    れられ、生活の中に根づいていったからです。 



18 室町時代 さかんだった話しあい
  ☆なるほどクイズ
  
(1)村の農民たちが、自分たちの団結を強めるためにやったこととは?

    @誓ったことを書いた文書を村の神社におさめた
    A文書を灰にして水にまぜて飲んだ        
答は?
    B文書を切り刻み、川に流した


  
(2)16世紀はじめ、近江(おうみ、今の滋賀県)の国、今堀村のおきてには、森で勝手に木を切ってはならないとあります。罰金は
    4段階ありましたが、何によって差を設けた?

     @切った人数  A切る道具の種類  B切った広さ 
 
答は?

  ☆せつめい
     
室町時代になると、さまざまな農具や肥料が使われ、その結果、農作物もたく
    さんとれるようになりました。近畿地方の一部では三毛作(同じ農地で一年に三種
    の作物をつくること)、地方でも二毛作ができました。

     こうした中で、有力な農民から土地を借りずに、自立する農民たちが増えてきま
    した。彼らは領主から要求される年貢(ねんぐ)の量を少しでも減らそうと、一致協
    力して行動するようになりました。
     そのための話しあいは、村の神社などで行われ、決めたことは村のおきてとして
    守ることにしました。おきてが守られるためには、皆が平等であることが必要でした。
    たとえば、近江の菅浦(すがうら)という琵琶湖(びわこ)沿いの小さな村では、通常
    であれば十数家族分しかない村共有の田んぼを29等分し、1ヵ所を2人に割り当て
    て耕作しています。
     いろいろな問題は、時には1つの村では解決できないこともあります。川の水を使
    う権利など、いくつもの村に関係することです。
     このため、京都にある7つの村では、各代表者による集会があり、さらに大切なこ
    とを決める時は、全村民が参加する話しあいも開かれていたのです。
   
19 戦国大名は本当に強かった?
  ☆なるほどクイズ
  
(1)戦国大名毛利氏のもともとの出身地は?

    @安芸(あき、今の広島県) A尾張(おわり、今の愛知県) B相模(さがみ、今の神奈川県)  
答は?

  (2)16世紀後半、毛利氏のある家臣は「主君が船なら家臣は□のようなものだ」と言ったそうです。さて□に入るのは?

       @水  A風  Bろ(船をこぐ棒)  
答は?

  ☆せつめい
     
戦国大名というと、
将軍の命令も聞かず、戦争をくり返して領土拡大につとめて  
    いた強い権力者、というイメージを持っていると思います。でも、本当に戦国大名は、
    強大な力の持ち主だったのでしょうか?

     ひとくちに戦国大名とはいっても、もとは守護大名、あるいはその代官である守護
    代、いくつかの村を治める程度の武士など、さまざまです。
     たとえば毛利氏の場合、15世紀までは安芸国にいた他のたくさんの領主と同じよ
    うな存在でした。その後、幕府や有力大名の大内氏らに従いながら次第に力を伸ば
    しました。他の領主もその力を認め、頼るようになっていきました。
     一人の領主だけでは解決できない問題(農業用水を使う権利、家臣や領民が他人
    の領土に逃げてしまうことなど)の調整を毛利氏に任せることが、やがて家臣として
    従っていくきっかけになったのです。
     しかし、それでも家臣たちには独立性が強く、毛利氏が戦争に負けたりすれば、たち
    まち離れてしまう危険性をはらんでいたのです。そのため毛利氏は、戦争で勝ち取った
    土地を与えたり、対等な形をとった契約書を作ったりと、いろいろ気を配りながら彼ら
    をつなぎとめていたのです。

20 戦国時代の農民の危機管理(ききかんり)
  ☆なるほどクイズ
  
(1)「□先」「相□」「□下」「□の者」。さて□に共通する漢字とは?  答は?

  (2)戦い続けている戦国大名2人の領地のさかいめに住んでいた人たちが、うまく生き抜く方法とは?

    @強そうな方に従う A両方に半分ずつ年貢を出し、村を荒らさないようにしてもらう B違う土地に行ってずっとそこで暮らす

                      
答は?

  ☆せつめい
     
戦国時代は、その名のとおり全国各地で大名どうしの戦いが続きました。こうした   
    中で暮らしていた当時の農民たちのことを考えたことはありますか?


     
特に敵対している戦国大名の領地のさかいめにある村は、大変だったと思います。
    戦いのたびに人が殺されたり、作物が荒らされたりしていたら、村はつぶれてしまいま
    すよね。いったい、実際のところはどうだったのでしょうか?
     近年の研究により、次のようなことがわかってきました。当時の文書(もんじょ)には、
    「半手(はんて)」または「半納」という言葉で表現されているのですが、これは両方の大
    名に属していることを指します。年貢などの税も半分ずつ出し(ただし場合によっては
    それぞれに同じ量、つまりそれまでの倍出すこともあったようです)、そのかわりに両方
    とも村を荒らさないことを約束してもらいました。
     こうしておけば、どちらの大名が勝っても、村の安全は保障されるわけです。
     2人の戦国大名が戦いを始める前までは、その村はどちらか片方に従っていたはず
    です。従えていた大名にとっては、戦いを始めたことによって、あがってくる年貢が半分
    に減るようなこともあったわけです。しかし、このことについては文句を言えないルール
    があったようです。
     ただし、軍事的には半分敵についた形になります。スパイをしないように、敵方との自
    由な通行を禁止したりしました。


21 戦国大名と「はんこ」
  ☆なるほどクイズ
  
(1)武将が手紙に、はんこをさかんに使うようになったのは?

    @鎌倉時代  A室町時代  B戦国時代  
答は?

  (2)大名のはんこで、ローマ字を使ったものがある。これ、本当?  
答は?

  (3)豊臣秀吉が用いたはんこに刻まれた模様は?

    @まだ意味がわかっていない A亀のこうら Bおめでたい意味の言葉  
答は?

  ☆せつめい
     
今は大切な文書をつくる時は、名前を書いた後に、はんこ(印章)を押しますが、昔は  
    自分の名前の文字などを利用して、独特のサイン(花押、かおう)を使っていたのです。
    ところが戦国大名は、さかんにはんこを押すようになりました。


     それも自分の名字ではなく、気に入った言葉などを刻んだものを用いました。織田信
    長が使った「天下布武(てんかふぶ)」のはんこは、特に有名です。
     その他、縁起のよい動物を刻んだものを用いた人もいました。たとえば武田氏は竜、
    後北条氏は虎、里見氏は鷲(わし)といった具合です。
     さらに、形も単なる丸や四角ではなく、そこから少しはみ出したものをつけたり、なかに
    は器(うつわ)の形をしたものまであります。
     このように、戦国大名がさかんに個性的なはんこを使うようになったのは、敵方にも出
    すようなこともある文書の中に、自らの強い個性を相手に見せつけようとしたためなのか
    もしれません。
     なお、花押はその後も使われ続け、今でも内閣の大臣たちは文書にはんこではなく、花
    押を用いています。


22 中世のお城の話(その1)
  
☆なるほどクイズ
  (1)あなたは戦国武将です。右の絵にあるA〜Cのうち、城を築くのに最も適した場所は?   
    また、そこを選んだ理由を2つ以上あげてみよう。 
 
答へ
     
  ☆せつめい
     お城というと、白壁の立派な天守閣、大きな石をきれいに積み上げてつくった石垣、
    満々と水をたたえたお堀などをイメージする人が多いと思います。しかし、こうした城は、
    信長や秀吉の時代からつくられるようになったものなのです。

     それ以前は、大地のへりなどを利用し、最低限必要な堀(水のない空堀も多い)を掘
    って、そこに土と木でできた粗末な建物をつくる、などというのが一般的でした。
     戦いが続いていた時代には、のんきに四方すべてを人の手で堀をつくって囲うなど
    という、時間的な余裕も労働力もありませんでした。だから、なるべく自然の地形を利
    用して城を築いたのです。
     こうした城(中世城郭)は、全国に2万以上あると言われています。そのうちのほとん
    どは、記録や文書にも残らないものなのですが、今も残る城のあとを細かく調べると、
    逆に文書では知られていなかったことがわかる場合があるのです。
     みなさんが住んでいるところの近くにも、そんな城跡が残っているかもしれませんよ。


23 中世のお城の話(その2)
  ☆なるほどクイズ
  
(1)敵が入りにくいようにするため、城の入り口にした工夫とは?

   @落とし穴  Aわざと道を曲げた  B坂をつくった 
 
答は?

  (2)城のまわりに、高さ6bの囲いをつくりには、囲いのまわりの堀の深さを何bにすればいい?
   ※ヒント:掘った土を…  
答は?

  (3)囲いの一角を内側にくぼませているわけは?

    @当時の流行  A労働力の節約  B一種の魔よけ  
答は?         

  ☆せつめい
     
中世の城のつくりを調べてみると、敵に簡単には攻められないような、さまざまな工
    夫がほどこされていることがわかります。
     たとえば堀(水を入れない空堀)ですが、まず掘り方は断面で見てV字形にする場合
    が多いのです。これは、底を平らになるように掘るより労力が少なくてすむし、おまけに、
    もし攻める敵が堀の中に入ったとしても、歩きにくくするためと考えられています。
     また、右の絵のように堀をわざと曲げてつくると、城を守る兵たちは、攻めてきた兵を
    正面からだけではなく、横からも攻撃できることに気づくでしょう。そう言えば「横槍を入
    れる」なんていう言葉もありますね。
     では攻める側は、こうした堀をどうやって越えたのでしょうか。わずかに残る当時の文
    書
によると、枯れた木や草を投げ込んで、堀を埋めてしまってから侵入するような場合も
    あったようです。
     こうして中世の城跡を見ていると、攻める側も守る側も、文字どおり必死になって工夫
    しながら戦っていた様子が想像できます。


24 世界に知られた足利学校とは 
  ☆なるほどクイズ
  
(1)戦国時代、最も栄えていたころの足利学校の学生数は?

    @350人  A1500人  B3000人
 
   答は?

  
(2)戦国時代、足利学校を「日本で最も有名な大学」と紹介した有名な外国人は?
    
※ヒント:このころ、キリスト教をひろめるため来日していました。  答は?

   (3)足利学校の出身者が、戦国大名に仕えたわけは?

    @戦い方に詳しかった A勇敢だった B医学の知識があった  
答は?

  
☆せつめい
    
 室町時代になると、京都だけでなく地方にもさまざまな文化が栄えるようになります    
    が、下野国(今の栃木県)にあった足利学校もその1つでした。

     この学校がいつごろできたかについては、いろいろな説があって、はっきりわかりませ
    ん。しかし、室町時代の中ごろ、足利氏の有力な家来であった上杉氏が大きく発展させ
    たことは間違いないようです。
     戦国時代、特に多くの学生があつまったのは、ここで学んだ占いの知識が、例えば武
    将たちがいつ出陣したら縁起がよいか、などということを決める際に、とても役だったか
    らでした。実際、後に北条氏や武田氏といった戦国大名たちが、足利学校を保護しまし
    た。
     江戸時代に入ると、幕府が別の学問を正式なものと認めたため、学校は衰えていき
    ました。現在は、江戸時代中ごろの絵図をもとにした学校の様子が再現され、室町・戦
    国時代の貴重な書物などが展示されています。
     皆さんも、足利学校に来る機会があったら、ぜひ立ち寄ってみてください。
 


☆答

   1(1)
@の「2年余りでやめた」。子の頼家が将軍となったのは、頼朝の死後5年以上後のことです。その間もちゃんと幕府はありました!

    
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   2(1)Bの「箱根で鎌倉を守る」。結局は@の案が採用されましたが、それでも幕府軍の出足は、はじめ鈍(にぶ)かったようです。



   3(1)Aの「誰かが訴えなければ捜査しない」。今のように、すぐに警察が捜査するというようなことはなく、徹底して関係者任せ
     でした。



   4(1)
Aのあごの下くらい。奈良の大仏が14.9bなのに対し、鎌倉大仏は11.9bです。



   5(1)
Aの馬の魔除け。馬はいくさをする武士たちにとっては、とても大切な存在でした。



   6(1)
ウソです。東日本の有力な御家人にしか鎌倉に屋敷をもつことは許されませんでした。



   7(1)
Bの8万人くらいです。この時代に人口調査などはありませんでしたが、ある学者がいくつかの事実から推測した数字です。
     当時としては、京都に並ぶ人口集中地域でした。



   8(1)
本当。野菜や豆を入れ、お坊さんの軽い食事の時に出されました。



   9(1)
これは元軍が、モンゴル人以外に中国や朝鮮など、滅ぼしたり従えたいろいろな国の人たちで成り立っていたことを示して
     います。



   
10(1)@の4騎。これでも独立の軍団であり、季長は誰かの家来になろうとはしませんでした。



   11(1)
Aの「利根川を安全に渡ることを考えて」。夏で増水した利根川の中流を避けて、上流に回ったとの説があります。
   


   12(1)本当。平安末期、足利(今の栃木県足利市)には、藤原氏の流れをくむ足利氏もいましたが、源平の争いで没落して
      しまいました。




   
13(1)Bの「自分の領地から送ってもらった」。自宅あての手紙に「お茶と干し柿、クリを送ってほしい」とあります。



   
14(1)Bの「これをこのまま京都に持っていけ」。義満は幼い時からかなり豪快な面を持っていたようです。



   
15(1)ウソ。1階部分のまわりは、木造のままです。



   
16(1)@の天皇。後小松天皇の子どもという説が有力です。



   17(1)
Bのお金。何でもお金に頼らざるをえない時代が来ていました。



   18(1)
Aの文書を灰にして水にまぜて飲んだ。これを「一味神水(いちみしんすい)」と言います。



   19(1)
Bの相模。鎌倉時代、毛利荘を根拠地とした武士でした。



   20(1)
「手」。この場合の「手」は、人間どうしの関係を表す意味に使われています。



   21(1)
Bの戦国時代。それまでは筆で書くサイン(花押、かおう)が一般的でした。



   22 
Bの部分。理由としては、@絵の点線の部分だけ堀を掘れば、四方どこからでも敵は攻めにくい。 A川が近くを流れ、城に
     長くこもった時の水の確保が簡単。 BAほどではないが、見晴らしがよく、敵の動きがよくわかる。などがあげられます。



   23(1)
Aの「わざと道を曲げた」。虎口(こぐち)と呼びました。「虎口(ここう)を脱する」などという言葉もありますね。



   24(1)
Bの3000人。ただ、この数字は少しオーバーかもしれません。



   
1(2)Bの「武士たちだけで幕府をつくった」が誤り。幕府には大江広元(おおえひろもと)や三善康信(みよしやすのぶ)など、もと
     朝廷の役人だった人たちもかなり参加していました。 



   2(2)
16人。西日本の国々の御家人の数は、とても少なかったのです。



   3(2)農業で忙しかったから。このころの武士の多くは、農場主でもありました。



   4(2)
本当。鎌倉時代の前期、1234年に完成しました。



   5(2)
奥さんが美人だと、きれいに着飾ったりして、お金がかかりがちです。妻は顔のよさより、家をとりしきる力があることのほうが
      重視されました。




   6(2)
Bの教室の130倍もありました。ふつうの武士の屋敷の約20倍の広さです。



   7(2)
材木です。集まり住んだ人々が家を次々と建てたためです。今でも「材木座」という地名が残っています。



   8(2)
@のお茶。ただしお茶そのものは、奈良時代から一部で飲まれていました。




   9(2)
本当。しかし当時、元が治めていたベトナムや中国南部で反乱が起きたため、日本遠征は中止されたのです。



  10(2)
Bの奮戦して討ち死にする。自分は死んでも、残された一族がより豊かになれば、という考え方でした。



  11(2)
Aの「海に敵の船が浮かぶ海岸沿いの細い道」。そのわけは本文に書きました。



  12(2)
Bの17ヵ国。北は今の青森県から南は福岡県まで広がっていました。




  13(2)
本当。戦地に行く途中の場所で2、3日休みをもらい、いったん自宅に戻っていたようです。



  14(2)
@の「後鳥羽上皇」。義満が天皇家を恐れなかったのは、こうしたことが関係しているようです。



  15(2)
Aの「お釈迦様の骨の一部」。舎利殿(しゃりでん)とも呼ばれていました。



  16(2)
Aの会った確かな記録はない。ただ、この時、義満は出家していたので、アニメとは異なり、僧の姿をしていたはずです。



  17(2)
@の奈良時代。一般的には鎌倉時代に栄西(えいさい)という僧が中国から伝えたとされていますが、実は既に9世紀の初め、
     遣唐使によってもたらされていたのです。



  18(2)
Aの切る道具の種類。手なら100文、鎌は200文、ナタ300文、まさかり500文の罰金でした。森には木材の他、肥料となる葉
     など大切な資源があったからです。



  19(2)
@の水。家臣がいなければ、主君なんて役に立たないと言いたかったのです。どっちが主君かわかりませんね。



  20(2)
Aの「両方に半分ずつ年貢を出し、村を荒らさないようにしてもらう」。ただし@の「強そうな方につく」場合もあったようですが、
     もし結果として負けたら大変ですね。



  21(2)
本当。たとえば九州の大友宗麟(そうりん)という大名は、「FRCO」(キリスト教の洗礼名フランシスコの略)というはんこを
     使いました。



  23(2)
3b。掘った土を地面にもれば、堀底から6bの高さになります。



  24(2)
フランシスコ・ザビエル。彼の日本からの報告により、中国やヨーロッパにまで知れ渡りました。



   2(3)
Aの「名簿」。「交名」(きょうみょう)と言い、これを差し出すことは、その人に従うという意味でした。



   3(3)
残念ながら?弟。父親の正式な遺言書をもっている点で強みがありました。



   4(3)
Bの津波で流された。室町時代、1498年の津波でこわれてしまいましたが、礎石(そせき、建物の基礎となる石)は今も残って
      います。



   6(3)
武具です。それだけ大事に使っていたのだと考えられています。



   
7(3)Aの港。人工の島で、今でも見られます。



   8(3)
お風呂。このころは、ここに直接入るのではなく、ここから出る湯気にあたって汗を出し、水で洗い流しました。



  10(3)
Bの馬や鞍を売った。武士にとってとても大切なものを売ってまで行こうとした季長の覚悟は、相当なものでした。



  11(3)長野県西部の
ヒノキの年輪を調べると、この時期は幅が狭く、成長が悪かったことがわかっています。



  12(3)
@の心が広い人。もともと大将になるのにふさわしい性格の持ち主だったようです。

        

        
   13(3)Aの「連れてきた兵士が逃げた」。経之の家来には農民もたくさんいて、必ずしも命令に従ってばかりではなかったのです。



  14(3)
Aの「諸国をまわってプレッシャーをかけた」。東は駿河(静岡県)から西は周防(山口県)まで行きました。



  15(3)
Bの1000億円以上。当時のある僧の日記には、工事費は百万貫をこえるだろう、と記されています。




  16(3)
Bの死にたくない。こうした人間的なところが、人々に愛された理由かもしれません。



  17(3)
Aの床の間。家臣は、自分の家に来た主人を床の間の前に座らせました。義政はきげんをうかがうために、さかんに有力
     大名の屋敷を訪ねました。




   21(3)@の「まだ意味がわかっていない」。秀吉は他の大名と違い、ずっと同じはんこを使い続けました。



  23(3)
Bの「一種の魔よけ」。鬼門(きもん、東北方向)よけの隅欠き(すみかき)と言いました。



  
24(3)@の戦い方に詳しかったとBの医学の知識があった。詳しくは、本文で。


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