戦争から平和な世の中へ(昭和前期〜)
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1 ユダヤ人を救った外交官杉原千畝(すぎはら ちうね)
2 戦争と子どもたち
3 東京オリンピックとテレビ
1 ユダヤ人を救った外交官杉原千畝(すぎはら ちうね)
☆なるほどクイズ
(1)第2次世界大戦中、ユダヤ人たちにドイツから逃げるためのビザ(入国許可証)を発行した杉原千畝。別れぎわに、あるユダヤ人は
杉原に何と言った? 「スギハラー、私たちはあなたを忘れない。( )」
@お元気で! Aもう一度、お会いしますよ Bでももっと多くの人たちを助けてほしかった 答は?(クリック)
(2)杉原が許可証を発行して外国へ逃れることのできたユダヤ人の数は?
@約600人 A約1600人 B約6000人 答は?
(3)あるとき、ヒトラーに負けない力をもつドイツの外務大臣から、外交官たちは退去するように言われました。このとき、杉原は?
@他の外交官たちに「言われたとおりにしましょう」と呼びかけた。
Aだまったままだった。
B「われわれは本国政府の命令によって決めます」と抗議した。 答は?
☆せつめい
皆さんは、第2次世界大戦中にナチス・ドイツの迫害から逃れようとした多
くのユダヤ人を助けた杉原千畝という人を知っていますか?
杉原は当時、日本の外交官としてリトアニアという国にいました。このころ、
ヨーロッパではナチス・ドイツが力を強めていました。そして「ドイツ人が最も
優秀で、ユダヤ人は一番劣った民族だ。だから、いくら迫害してもかまわない」
という恐ろしい考えをもち、結局、敗戦までに数百万人ものユダヤ人を殺して
しまったのです。
昭和15年(1940)7月末、ドイツ周辺に住む大勢のユダヤ人たちが、杉原の
いる領事館に押し寄せました。彼らはナチスの迫害から逃れるために、日本を
通過して外国に逃げたい、そのためのビザを発行してほしいと訴えたのです。
当時、日本はドイツと外交協定を結んでいたので、彼らにビザを発行すること
は、日本政府の方針に反することだったのです。杉原は大いに悩みましたが、
ついに独断で発行することにしました。
このおかげで、多くのユダヤ人たちが日本を経て外国へ逃れることができた
のです。
2 戦争と子どもたち
☆なるほどクイズ
(1)昭和12年(1937)と、敗戦した昭和20年(1945)を比べると、小学生の平均体重はどれくらい減った?
@2% A5% B10% 答は?
(2)昭和18年(1943)、食べ物がとぼしくなる中で『生活科学』という雑誌が紹介した、食べられるものとは?
@カエル Aトンボ Bトカゲ 答は?
(3)空襲を逃れるために移動していた子どもたちが途中で攻撃を受け、たくさん死んだ事件がある。これ本当?
答は?
☆せつめい
アジアと太平洋での戦争は、昭和18年に入ると、明らかに日本が不利に
なっていきました。
もともと国力や資源にとぼしい日本は、豊富な資源を持つアメリカと戦う
ために、国民の生活を大きく制限しなければなりませんでした。さらに、翌昭
和19年7月にサイパン島がアメリカ軍に奪われたため、日本本土は連日のよ
うに空襲に見舞われるようになったのです。
このため、大都市の学童(今の小学生にあたる)たちも、集団で近くの県に
移るようになりました。これを学童疎開(がくどう そかい)と言います。子ど
もたちは、移った先のお寺などで寝泊まりし、学校の授業などもそこで行われ
ました。食事は地域によって差があったようですが、皆さんも大好きな甘い物
などは、なかなか手に入らず、なかには歯磨き粉(こ)までなめてしまう子ども
もいたそうです。衣服の着替えもとぼしく、風呂も数日に1回しか入れませんで
した。今では信じられませんが、ノミやシラミにはとても悩まされたそうです。
敗戦後の昭和20年9月ごろから、子どもたちはそれぞれに家に帰っていきま
した。
3 東京オリンピックとテレビ
☆なるほどクイズ
(1)戦後、はじめて東京でオリンピックを行う計画がたてられた。これ、本当? 答は?
(2)東京オリンピックから5年後、昭和44年(1969)のテレビ普及率(全家庭の何%がテレビをもっていたか)は?
@25% A55% B95% 答は?
(3)東京オリンピックの女子バレーボール決勝(日本対ソ連)の時のテレビ視聴率は、ズバリ何%だった?
答は?
☆せつめい
戦後の日本は、民主主義の国家として再出発し、経済のたて直しと新たなる
発展をめざしました。その結果、昭和30年(1955)ごろから約20年間、日本の
経済力は毎年連続で大いに拡大していったのです。東京オリンピックは、そのほ
ぼ中間にあたる昭和39年(1964)に開催されました。
このオリンピックで、日本選手団は金メダルを史上最多の16個も獲得する活
躍を見せましたが、同時にオリンピックは、日本全体にも大きな変化をもたらし
ました。
例えば、その1つに交通網(こうつうもう)の整備があげられます。新幹線が開
通し(東京−新大阪間)、また高速道路の建設も始まりました。これによって、人
や物の移動が格段に便利になっていきます。
また、テレビの爆発的な普及も重要です。同じ情報をたくさんの人々が見聞き
できるようになった半面で、地域の個性が失われていきました。そして子どもたち
の世界でも、「ドラえもん」のジャイアンのようなガキ大将と、そのもとに集まる違う
学年の集団は、空き地とともにほとんど見られなくなってしまったのです。
☆答と解説
1(1)A「もう一度、お会いしますよ」。実際、杉原は約30年後にイスラエルというユダヤ人の国に招かれ、心からの感謝をうけたのです。
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2(1)B10%。戦争が始まると、食料は政府により決められた量しか配られなくなり、国民の栄養状態はとても悪くなっていきました。
3(1)ウソ。昭和15年(1940)にも計画がありましたが、戦争のため中止されました。
1(2)B約6000人。領事館が命令により閉鎖されるまでの約1ヵ月間、杉原は朝から晩まで食事も十分にとらずにビザを発行し続けました。
2(2)Aトンボ。ほかにもゲンゴロウやカミキリムシなどが紹介されています。
3(2)B95%。ちなみに昭和34年の農村部での普及率は、たった4.3%でした。
1(3)B抗議した。杉原の堂々とした態度に、さすがの大臣も何も言えなかったそうです。
2(3)本当。昭和19年8月、沖縄から本土に移ろうとしていた子ども825人、大人836人を乗せた対馬丸が、鹿児島南方で攻撃され、助かった
子どもはわずか59人でした。
3(3)85%。国民のほとんどが、テレビの前にくぎづけになったことを示しています。
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